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「松下政経塾」とは、何者なのか 

2012年07月22日 17時16分29秒 | Weblog
「松下政経塾」とは、何者なのか ・・・ (もうすぐ北風が強くなる)

 カルトの世紀 道徳再武装と松下政経塾(http://black.ap.teacup.com/fukashinogakuin/564.html)
 
「不可視の学院」から 

 なんとなく見ていた60年代のグループ・サウンズやフォーク・ソングについて音楽ファンが語り合うネット空間に、ある聴き慣れない団体名が頻繁に登場するのに気付いたのは、つい最近のことだった。

 その名を「道徳再武装運動(MRA=Moral and Spiritual ReArmament)」という。

当時、東大や早稲田などの都内の大学では、全共闘が猛威をふるい、政治だけではなく文化面でも、左翼運動が若者たちの流行となっていた。

新宿ではフォークゲリラが活動していた。

 そうした動きに対抗する文化運動が、当時から左翼思想とは一線を引いていた慶応の湘南ボーイ達を中心に産まれた。

「亜麻色の髪の乙女」でヒットを飛ばしたヴィレッジ・シンガーズ、マイク真木(真木蔵人の父)がやっていたGSグループのマイクス、ハイファイセットに曲を提供していた滝沢洋一などに代表されるソフト・フォークというその運動は、後の「湘南サウンド」の源流となった。

 その中心にいたのは、マイクスのメンバーで、ニュー・フォークスやシングアウトという外国人メンバーも交えた大人数のフォーク・コーラス・グループなどもやっていたロビー和田という人物だった。

ロビー和田はバードコーポレーションというレコード・レーベルも運営していた。


 後にシングアウトはCHICAGOのようなブラス・ロックへと変化し、合唱団的な部分は、NHKの歌番組『ステージ101』へと流れていったという。

ロビー和田は音楽プロデューサーになって、和田アキ子や西条秀樹をはじめ、阿久悠との共作も含めた数々のヒット曲を手掛け、最近では葉加瀬太郎のクライズラー&カンパニーなどをプロデュースしたりと、今も第一線で活躍している。

 そのロビー和田の属していたのが謎の団体、MRAだった。

MRAは、「日本の良さを再認識し、日本を自由主義国家として築こう」というテーマを持ち、学生運動によって荒廃した学校に道徳を導き入れ、本来の学生の姿を取り戻そうという運動を展開していた。

 MRAは、フランク・ブックマン博士という人物が提唱し、20世紀初頭にアメリカ・ペンシルヴァニア州立大学で始まった。

(現在はIC=Initiative of Changeという名で、NGOとして活動している。)

元はキリスト教福音主義派の社会改革運動で、公衆の前で自分の罪(主に性的な過ち)を告白し、悔い改めることを主眼にしていた。

 当時、ペンシルヴァニアは禁酒法施行中にも関わらず、学生は酒に溺れ、大学の秩序は乱れきっていた。そんな中、ブックマンは独特の洗脳的テクニックを駆使して、酒の密売人を含む学生数人を改心させる。

(この方法は、後にその洗脳効果だけを抽出した、Alcoholic Anonymousというカルト的なアルコール中毒治療グループとして知られることになる。)

 さらに1921年、ブックマンはイギリスへ渡って新しい精神運動を起こし、オックスフォード大学の学生たちに影響を与えた。

この運動は「オックスフォード・グループ」と呼ばれるようになった。

(後にオックスフォード大学からの抗議でこの名前を使うことをやめさせられた。)

 第二次大戦突入の前年にあたる1938年、軍備増強に狂奔するヨーロッパ諸国の姿を見たブックマンは、軍備に代わる世界的規模での道義と精神の再武装(Moral and Spiritual Re- Armament)を唱え、MRA運動を全世界に向けて提唱した。

 しかしナチのヒムラーやヘスと特別な関係があったブックマンは、1939年にアメリカに上陸するなり、「わたしはヒットラーに感謝する」「神の支配するファシスト独裁に賛成だ」などと発言して、アメリカの世論からつまはじきにされた。

(未見だが、ラース・フォン・トリアーの映画『ドッグヴィル』にはMRA運動にかぶれた狂信的な人物が登場するそうだ。)

 プリンストン大学などの名門校で禁止措置に合うなど一時は下火になりかけていたMRAが再び勢力を盛り返したのは、戦後、ブックマンが運動の中心を宗教問題から社会運動にきりかえて、労使協調を主張し始めてからだった。

 左右の対立が強まり、ソ連の影響下で左翼運動・労働運動が激化し始めていた冷戦時代にあって、MRAの存在は、西側の体制の利益に合致していた。

MRAの大会には各界の名士が集結するようになり、世界中の政府や企業、右翼勢力から膨大な資金が集まり始めた。

 MRAは、ロンドンのウェストミンスター劇場やスイスのジェネーヴ湖畔の巨大なパレス・ホテルを買収し、50万ドルをかけてロサンジェルスの本部を買い、ミシガン州マキナック島に訓練所を建設し、映画『グッド・ロード』を制作した。

 ただの禁欲主義カルトから反共右翼カルトに転身したMRAは、ルール地方の有力者だったシューマン仏外相、中国国民党右翼の暗殺団C・C団の指導者・陳立夫などの熱烈な支持を受けた。

 ブックマンはアメリカのマーシャル・プランの受け皿を作り、いわゆる「シューマン・プラン」(重工業の共同運営)、欧州鉄鋼・石炭共同体(ECSC)の設立に貢献し、今日のEUの礎を築いたと言われる。

ルール地方では共産党の組織率が72%から25%に下がるなど、労使協調が深まった。

シューマンは、「経済分野にはマーシャル・プラン、政治・軍事の分野には北大西洋条約、精神生活には道徳再武装」とまで言ってのけている。

 ブックマンは、戦後のドイツとフランスの和解に大きな役割を果たしたとも言われる。

独のアデナウワー首相とシューマンを結びつけ、 1946年から1950年までに3千人のドイツ人と2千人のフランス人をスイス・コーのMRA国際会議場に招き、寝食を共にしての和解活動を行った。

 コーは、旧オーストリア帝国皇后エリザベートも宿泊した、スイス・モントロー近くの由緒ある山岳保養地で、現在もMRAの本部として、毎年夏に国際会議が開催されている。

 MRAは戦後間もなく日本にも上陸した。

 尾崎行雄の三女で日韓女性親善協会を設立した相馬雪香、渋沢栄一のひ孫で同記念財団理事長・渋沢雅英、日銀総裁で鳩山内閣と岸内閣の蔵相も務め、サンフランシスコ講和会議の日本全権の一人として吉田茂と共に訪米した一万田尚登といった、錚々たる日本のエスタブリッシュメントが、MRAのメンバーになった。

 1962年、日本をMRAのアジア拠点に据えることを目的とし、十河信二・国鉄総裁を中心に、小田原にMRAアジア・センターが完成した。初代日本会長は石川島播磨重工業(IHI)の設立者で東芝社長と経団連会長を歴任した土光敏夫だった。

池田勇人首相は、MRAの大会で、その思想が日本の新しい「人づくり」とぴったり合う、と挨拶し、26日に首相の私的諮問機関「国づくり」懇談会の初会合を開いた。

 MRA運動は、戦後の日本において、海外渡航手段の一つであり「外国への窓」として貴重な存在だった。

占領期間中、MRAの会員には、一般の国民よりずっと以前から海外旅行が許可されていた。

 1950年6月、戦後初めてマッカーサーが出国を認めた72名の大型使節団が、コーのMRA世界大会に出席した。

ブックマンは「日本はアジアの灯台たれ」と言って日本代表団を激励した。

 石坂泰三東芝社長、浜井信三広島市長、大橋傳長崎市長などのメンバーに混じって、若き中曽根康弘がいた。

アメリカ行きの飛行機が離陸するのを待つ間、中曽根は三井財閥の一行に「10年したら私は総理大臣になる」と野心を打ち明けたという。

 実際にはそれは32年後まで実現しなかったが、その間、中曽根はいくつもの内閣ポストに就き、ロッキード事件やリクルート事件に連座しながらも奇跡的に無傷を保った。

中曽根は首相になった後、「日本のいまの状況を見ると、日本こそ道徳再武装が必要である。教育と道徳という問題を、政治が取り上げなければならない。

憲法改正と教育基本法改正がその道徳的基礎を確立する基本になる。」と語っている。

 ちなみに中曽根と主張を同じくする教育改革国民会議の来山武(元大阪女子短大教授)も、論文の中で「教育再武装」「個人の尊厳と自律性を前提とした道徳再武装」といった言葉を使っている。

 日本代表団はヨーロッパから米国に渡り、北村徳太郎、栗山長次郎が米議会で太平洋戦争について謝罪した。

浜井広島市長はロサンゼルスで「私たちは、誰に対しても恨みは抱いておりません。

同じことが二度と起こらないようにあらゆる努力を払ってほしいということです。」と語った。

 浜井のこのMRA派遣は、「過ちは繰り返しませぬから」という広島の原爆記念碑の碑文作成に影響を与えたと言われる。

米軍による原爆投下という残虐行為の責任を曖昧にするこの奇妙な碑文も、こうした経緯を見れば納得がいく。

 米軍による占領が終わり、日本人の海外渡航許可が容易に得られるようになると、MRAは、米日間の文化交流プログラムの名のもとに、日本の指導者たちとその予備軍を欧米への官費旅行に招待し、外国の指導者に引き合わせ、労使協調と反共についての説教を吹き込んだ。

 1953年、東芝の勤労部長と労組委員長が共にコーのMRA会議に参加。

石川島播磨重工労組の柳沢委員長もこの会議に参加し、土光敏夫との「信頼関係」を築いた。これが、日本全体の協調的労使関係の形成につながった。

 ジャーナリストの大宅壮一は、『昭和怪物伝』に収録された右翼宗教団体・生長の家の教祖・谷口雅春についての文章の中で、MRAについて触れている。

 「世界旅行で私が得た大きな収穫の一つは、MRA(道徳再武装運動)というものの正体が非常によくわかったことである。

戦後日本人で外国へ行ったものの中で、“MRAの招待”というのが大きなパーセンテージを占めている。

その中でも国会議員、地方議員、知事、市長などの公用族が多い。

 しかし比率からいってもっとも多いのは革新政党の議員や労組の幹部である。

かれらはわれもわれもとMRAの大会に出かけて行って何を得たであろうか。

 (中略)スイスのコーというところに、MRAの夏期練成道場がある。

これは、“道場”といっても戦時中の日本にあったような殺風景なものでなくて、すばらしく豪しゃなホテルである。

/世界一景色のいいところにある最高級のホテルで、世界の珍味を集めた料理を食って、 “チェンジ”する、すなわち心を入れかえるのである。

階級闘争や有色人種運動の指導者が、資本家や白人に対する憎しみを捨てるのである。

 近ごろの流行語でいえば“洗脳”だ。

/中国では、革命に協力しない反動分子を“思想改造所”という監獄に入れて“洗脳”を行っているが、MRAでは、ありったけのぜいたくをさせることによって同じ目的を達しようというのである。

ただしその手段が全然逆であるとともに、チェインジさせる方向も正反対である。」

 教祖のフランク・ブックマンには後に日本政府から勲章も授与され、中学の道徳の教科書にも載っている。

 MRAによる日米間の文化交流プログラムは、国防総省やCIAの秘密のミッションの隠れ蓑にもなっていた。

 CIAのエージェントで、レバノンやベイルートで長くビューローチーフを務めたマイルス・コープランドJr.(ロック・グループPOLICEのスチュワート・コープランドの父)の著作によれば、MRAは明確にCIAのコントロール下にあったという。

 70年代以降、日米間の複雑に入り組んだネットワークの中枢を担ったのが、MRAの本部も兼ねていた日本国際交流センター(JCIE)だった。

JCIEは、デヴィッド・ロックフェラーが委員長を務める日米欧委員会(三極委員会=トライラテラル・コミッション)の事務局を兼ねており、日本におけるロックフェラー財閥の代表機関になっていた。

 JCIE理事長の山本正は、「ロックフェラーの日本秘書」とも呼ばれ、一時期は「全ての事が山本を経由する」と言われるほど日米間のパイプを押さえていたという。

デヴィッド・ロックフェラーやヘンリー・キッシンジャーをファーストネームで呼ぶことができる唯一の日本人とも言われた。

 安倍晋三の祖父でCIAのエージェントだった岸信介もMRAにも深く関わっていた。

 岸は、首相就任直後の1957年に2度にわたりアメリカを含む東南アジア・大洋州15カ国を訪問して、日本の過去の戦争について謝罪して回った。

特に2回目の訪問国には、フィリピンやオーストラリアなど反日感情の強い国々があった。

オーストラリアの在郷軍人会は岸を戦犯として批判していたが、ブックマンと親しい外交官アラン・グリフィスらの説得によって、訪問受け入れに転換した。

 岸は、首相在任中の1960年に日本を訪れたMRAの代表団に、「諸君は全世界に対して道徳的バックボーンを与えるようにしておられる。

私はMRAが6週間にわたって我が国に与えた圧倒的な影響力に対して感謝の気持ちを表明したい。」と挨拶した。

当時は60年安保運動で岸打倒の声がまさにピークに達していた時であり、MRA代表団の訪日のタイミングは絶妙なものだった。

 MRAの日本導入の立役者は、現首相の福田康夫の父で後に首相になる福田赳夫であったと言われている。

1961年、岸は福田と共にコーのMRA世界大会に参加した。

MRAは、権力回復に野心を燃やす戦犯たちに、公開贖罪の場を提供していた。

岸も他の悔悟者とともにMRAの国際会議場で涙を流してみせた。

 しかし、岸は戦後日本で最も反動的な首相であり、わずか3年間の短い在任中に、警察官の権限を拡大強化する警察官職務執行法改正案、紀元節の復活といった史上稀に見る反進歩的な法案を提出した。

 岸は韓国のカルト宗教・統一教会、アジア人民反共連盟(APACL)などの右翼組織やCIAのフロント組織をバックアップし、日本郷友連盟や祖国防衛同士会などの極右団体の顧問もつとめた。

MRAもそうした右翼組織のひとつだった。

 岸が、右翼の大物・笹川良一やフィクサー・児玉誉士夫と共に、統一教会の別組織である国際勝共連合の生みの親であったことはよく知られている。

統一教会は、軍事政権下の韓国の韓国中央情報局(KCIA)が直接組織した団体だったが、その教祖の文鮮明は、実はMRAを参考にして統一協会を作ったと言われる。

統一協会・勝共連合は、MRAの「鬼っ子」だったのだ。

 統一協会が軍事政権や自民党右派などの排他的右翼政治勢力と組んだのに対し、MRAは民族融和を標榜し、財界と結びついた点に大きな違いがあった。

 年に1回、コーで開かれているMRAの日米欧経済人円卓会議は、経団連の土光敏夫や奥田碩が代表を務めている。

経団連はMRAの別働隊であるとさえする見方もある。

 戦後日本の政治家の中でMRAの影響を最も強烈に受けたのは、後に民社党(現在の民主党)に連なる社会党右派だった。

 60年安保当時、東京のMRAハウスは既に自民、社会両党議員の交流の場にもなっていた。

 日本社会党右派→民社党と移り、内閣総理大臣も務めた片山哲も、戦後すぐにコーのMRA本部に詣でた一人だった。

 片山は当時ろくに収入が無かったが、MRAに飛行機代を全額出してもらい、三井財閥の三井高維らご一行と共に仲良くコーで開かれたMRA世界大会に夫婦で出席して、「MRAの機動部隊を日本に派遣されたい」などとおべんちゃらを言った。

 共産党の宮本顕治の妻でプロレタリア作家の宮本百合子は、『再武装するのはなにか』と題された文章の中で、そんな片山とMRAのウサン臭さを痛烈に批判している。

しかし片山はもともとクリスチャンであり、キリスト教的人権思想と社会民主主義の融合=キリスト教社会主義を実践した人物だった。

弁護士時代はYMCA(キリスト教青年会)の寄宿舎を借りて事務所を開いていたぐらいだから、MRAとは相性が良かったのだろう。
 
 元首相で民主党議員の羽田孜と民主党創設者の鳩山由紀夫は、前述の尾崎行雄の娘・相馬雪香らと共に97年にコーのMRA国際会議に出席してスピーチをしている。

羽田は尾崎行雄記念財団副会長も務めているが、どうも尾崎行雄というのは日本のMRA受容史の中で重要な名前であるらしい。

 コー日米欧経済人円卓会議のコーディネーターを務めているのも、藤田幸久という民主党議員だ。

この男の経歴は、戦後日本のMRAと社会党右派~民社党~民主党政治家の蜜月を象徴している。

 民社党は労使協調の第二組合をバックボーンに持つ政党であり、まさにMRAの申し子だった。

統一教会は自民党と組み、MRAは民社党と組んだとも言える。

 MRAが巨大な影響力を及ぼしている日本の政治勢力はもうひとつある。

 松下政経塾出身のネオリベラル(新自由主義)/ネオコン政治家たちだ。

 松下政経塾は、松下電器の創業者・松下幸之助が、1980年に湘南・茅ヶ崎に私財70億円を投入して設立した私塾で、次世代のリーダーとしての政治家・経営者の育成を目標としている。

設立にあたっては吉田松陰の松下村塾をイメージしたとも言う。

 塾は全寮制で、毎年22才から35才までの男女を公募、年間1期わずか30人を厳選し、政治・経営リーダーの卵として3年間訓練・養成する。

カリキュラムは早朝清掃や早朝ウォーキングに始まり、伊勢神宮への参拝、書道、剣道、儒教講話など日本の文化や精神の学習、松下電器の工場での製造作業や店舗での営業販売体験、自衛隊への体験入隊、三浦半島100kmを一日で一周する「100キロ行軍」などが含まれる。

塾設立当初は、松下幸之助も塾生と一緒に風呂に入って背中を流し合ったり、寝食を共にしたという。

 塾生には1年目は研修資金月額20万円、2年目からは研修資金月額25万円の他、活動資金が年額125万円~175万円が支給され、寮費はわずか月額 4,500円だという。

 松下政経塾の原点は、共産主義から自分の企業を守るにはどうしたらいいかを真剣に考えた松下幸之助が、アーノルド・トインビー(007で有名なイギリスの諜報機関MI6の創設者でもある)にその研究委託をしたところ、ロックフェラー系の研究所の指南・報告を受けて、MRAに加わるようになったことにある。

その設立の動機には、創価学会と公明党を自由に操る友人・池田大作へのあこがれがあったとも言われる。

 松下政経塾の講師陣は、PHP総合研究所の研究員が務めていると推定される。

(右寄りで知られる漫画家の弘兼憲史や「新しい歴史教科書をつくる会」の佐藤欣子なども講師を務めているらしい。)

 PHPは松下政経塾と姉妹関係にあるシンクタンクで、出版事業が業績の9割以上を占めており、右翼論壇誌「Voice」やビジネス書を中心に、「お水教」の教祖・江本勝の『水からの伝言』などのオカルト/擬似科学系の出版物も多数出している。

 MRA日本協会理事だった山崎房一も、『きっと、自分を好きになる』『心が軽くなる本 「不安」を「安らぎ」に変える57のヒント』などというウサン臭い本を出している。

PHPとは「Peace and Happiness through Prosperity(=繁栄による平和と幸福)」の略で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」というコンセプトを表している。

 松下はこのPHP理念でもって、企業と激しく対立する共産主義系の組合活動家たちを押さえ込んだ。

この中から、民主社会主義協会=民社党/友愛クラブ、JC中立労連が生まれ、日本の労使協調/反共労働運動の流れがスタートした。

日本最大の労働組合の全国組織「連合」(日本労働組合総連合会)がそのゴールだった。

PHP理念は、まさにMRA思想の松下版と言える。

 松下政経塾は、非二世議員の人材供給源として、政界・財界に塾生を多く送り込んでいる。

 現在、同塾出身の政治家は衆議院議員28名、参議院議員2名、都議会議員15名、市区町村議会議員13名、知事2名、市長・区長9名。

出身者に対する政治家の割合は、単一の組織としては世界一だという。

所属政党は、国会議員で自民党13人、民主党17人と党派を問わず分布している。

自民党は逢沢一郎や小野晋也、高市早苗、赤池誠章など。

民主党は前原誠司前代表や野田佳彦、拉致議連の松原 仁、原口一博がよく知られている。

稀にリベラル派もいるが、ほとんどがファナティックな市場原理主義の親米保守派だ。

 神奈川県は県知事と最大の市である横浜市の市長が共に松下政経塾出身で占められている。

 県知事の松沢成文は、小泉純一郎と共に郵政民営化研究会を立ち上げた「同志」であり、99年には小泉との共著『郵政民営化論』をPHP研究所から刊行している。

 「堀江偽メール問題」で、民主党を自滅寸前にまで追い込んだ前原誠司も、郵政民営化研究会のメンバーだった。

 雑誌「噂の真相」の名物編集長・岡留安則は、「噂の真相」の休刊にあたって「松下政経塾に気をつけろ!」という言葉を残したという。

 松下政経塾とは、その母体になったMRAとは一体何なのか。

 今後も日本の政局に重大な役割を果たしていくであろうこの集団の真の目的は未だ判然としないが、その母体となったMRA、その影で蠢く統一教会、ロックフェラー財閥とアメリカ政府の姿を眼をこらして見れば、朧げながらその危険な牙が見えてくる。

 そして日本にネオリベラリズムを導入した最初の首相である中曽根康弘は、MRAと統一教会に深く関わっていた。

 今後の日本の政局の最大の焦点は、民主党内のネオリベ/ネオコン寄りの分派が、民主党を離脱して自民党と連合するかどうかだと言われている。

 その時には、前原誠二を中心とする松下政経塾出身者がその主役になるだろう。

 湘南方面から吹きつける不吉な風には、今後も注意が必要だ。

 松下政経塾出身者の変わり種としては、サラ金業者・武富士の武井前会長の娘婿になった高島望という男がいる。

この男、退役軍人の集まりである社団法人「日本郷友連盟」の参与でもある一方で、「全裸SEX教団」として最近週刊誌で話題の新興宗教団体  「ザイン」の特別顧問にもなっており、「大公爵」という称号を持っている。

この「ザイン」は、代表・小島露観が「自衛隊はシビリアンコントロールから脱せよ」(http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2005/06/post_adec.html)

と主張する極右カルトで、なんとクーデターのために軍事訓練までやっていたという。

まさにカルトはカルトを呼ぶ。  

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