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責任の所在と、そのとり方を問う。

2013年01月22日 08時32分13秒 | Weblog
責任の所在と、そのとり方を問う。・・・(日々雑感)より


 体育顧問教諭による体罰を苦にして生徒が自殺した件で、橋下市長が「体育科」の入試の中止を求めていた。

昨日、大阪市教委は市長の意を受けて「体育科」の入試を中止することに決定したという。


 体育顧問による体罰を許してはならないのはいうまでもないが、それにより生徒が自殺に追い込まれるまで周囲の教諭や校長の誰もが気付かなかったとは言わせない。

気付いていても顧問が厳しい指導により部に輝かしい成績をもたらしていたことから沈黙せざるを得なかったとしたら、これこそ由々しき問題だ。


 その顧問が指導していたのはバスケット部だったようだが、生徒にとってバスケットが人生のすべてではない。

もちろん厳しい練習に耐えてそれなりの成果を得るのは間違っていないし、それにより生きる指針の一つを得ることもあるだろう。

しかし、いずれにしてもバスケットが生徒の命を左右するものでないことだけは確かだ。

生きるための糧を得る手段だと心して部活に臨むのが指導者の立場だ。


 同じように、市民全体の利益の為にの行政指針を示し、執行を管掌するのが市長のはずだ。

罰を与えて子供たちの学びの場を奪うのと、バスケット部顧問の暴走を黙認していた学校への処罰とどのような相関関係があるというのだろうか。


 橋下氏もバスケット部顧問と少しも変わらない種類の「暴力」を振るっているのではないだろうか。

それはある意味、理不尽な暴力だ。

顧問が目的とすべきは厳しい練習を通じて、生徒の体力の増進と仲間との切磋琢磨による人生観の涵養のはずだ。

生徒が自殺するまで追い込んでは本末転倒だ。


 橋下氏のヒステリーとも思える言動によって「体育科」の入試を中止するのは権力の暴走だ。

せめて許される範囲は顧問教諭への行政処分と、バスケット部の一年間活動停止か対外試合の自粛ではないだろうか。

それらは教育委員会で判断すべき事項であって、市長が出しゃばって顔色を変えて絶叫すべきことではない。


 同じことがこの国の政府にもいえる。

アベノミクスがしっかりとした軌道に乗る前に、早くも評論家たちが「財政規律」を声高に叫んでいる。

確かに膨大な赤字国債残はマトモな国家財政状況ではない。

これまで何年にも亙って税収以上の予算を執行し続けてきたツケが溜まりに溜まった。

それほど財政出動しても国民経済は改善されなかった。

その責任は国民にあるのではなく、財政当局と通貨当局にあるのは明々白々だが、彼らが何らかの責任を取ったとは寡聞にして聞かない。

そして必然的にツケは公的負担の増加や税金として国民が支払わされることになる。

この国の誰もが「少しおかしい」と感じないのだろうか。


 米国は「財政の壁」が存在して、国債発行の上限を決めている。

その壁を乗り越えるためには議会の承認が必要とされる。

日本でも予算の成立には国会の議決が必要だが、衆議院の過半数の議員を擁する党により首相が選出されているから衆議院が優先される予算は自動的に成立する。

ただこれまでは特例公債が衆・参の議決が必要なことから「財政の壁」は存在しているが、この国の腰抜けの国会議員たちは米国ほど熾烈なチキンレースを演じない。

つまりとことん財政削減努力を官僚たちに求めないまま財務官僚が是認した予算案に沿って赤字国債をジャブジャブ刷ってきた。

そのツケはすべて国民に回せば良いと財務官僚たちは考えているから気楽なものだ。


 由々しき事件に反応した橋下氏の「責任の所在と、取らせ方」と財務官僚とその幇間評論家たちの論旨は酷似していないだろうか。

そのことにより当事者でない受験生に決定的な影響を与えているという認識すら橋下氏にはないようだ。

「生きていればいくらでもやり直しが利く」などと恍けたコメントを橋下氏はがなっていた。

同じように「公的負担と税を増やさなければ財政は大変だ」と、幇間評論家たちは国民に乱費した覚えもないツケを支払えと迫る。

政治家たちも財務官僚の尻馬に乗って「みなさん負担して下さい」と懇願する。なぜ財務官僚に向かって「税収の範囲で予算を組め」と命じないのだろうか。一度そうしてみる必要があるのではないだろうか。

 すると社会保障費ですらバンクだ、と反論するだろうが、それは大嘘だ。

社会保障費のすべてを税収で賄っているのではない。

まずは財務省の大掃除をしてから勘定書きの明細を国民に示すのが税の負担増を求めるのよりも先だ。

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