現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J.D.サリンジャー「ズーイ」フラニーとズーイ所収

2022-02-10 14:12:55 | 作品論

 1957年に書かれたグラス家の七人兄妹の六番目であるズーイ(作品の時代設定である1955年当時は25歳で、テレビの人気俳優です)に関する作品(ただし、語り手は次兄のバディのようです)です。
 前作「フラニー」(その記事を参照してください)で、大学や恋人の世俗主義に絶望し、ひたする祈りを捧げる念仏系の宗教(キリスト教でも仏教でもかまいません)に回帰して、精神的に参って家に閉じこもってしまった妹を、あらゆる方法(ズーイ自身としては自分の殻に閉じこもろうとしている妹を激しく批判し、次兄のバディ(当時36歳の作家兼大学教師で、サリンジャー自身の分身と言われています)を装ってフラニーへ電話をして優しく慰ぶし、それがばれてからは長兄のシーモァ(バディより2歳年上で18歳で博士号を取った、秀才ぞろいのグラス家兄妹の中でも最も優秀な天才で、他の兄妹たちに大きな影響を与えていますが、7年前に自殺しています(「バナナ魚にはもってこいの日」の記事を参照してください))の遺訓を伝えて、目指していた女優として人生を全うすることがフラニーにとっての神への祈りだということを悟らせます)を使って自閉的な状況から救い出します。
 幼いころからラジオの「賢い子」という番組に出演させられた(両親が成功した芸能人だったからでしょう)ために、異常に早熟にならざるをえなかった七人兄妹(もともと知性的には優れた資質があったのだと思われますが、特にその傾向が強かったシーモァの影響を弟妹たちが強く受けました)ことと、年が離れた上二人(シーモァとバディ)が下二人(ズーイとフラニー)の教育係をかってでて、難解な文学書や宗教書を幼い二人に押し付けたことが、フラニーの悲劇とそれを救済しようとするズーイの献身(彼がフラニーが陥っている状況を一番理解しています)を生み出したと言えます。
 彼らの両親は、かつて賢く可愛かった子どもたちを無邪気に懐かしむだけで、現在の彼らを理解することはできません。
 この時20歳だったフラニー(しかし、大学にもう4年もいると書かれていますので、シーモァほどではないにしろ、かなり早熟です)は、長兄のシーモァとは18歳も年が離れていただけに特にその影響が強かったようで、ズーイに「バディと電話で話すか?」と問われた時に、「私が話したいのはシーモァ」と答えていたのは痛切でしたが、一方で彼女の魂の救済方法を暗示していました。
 そのため、賢明なズーイはそれを察して、偽バディの電話とシーモァの遺訓によって、フラニーを救済することに成功したのでした。
 さらに、七人兄妹の中で、この二人が一番容姿に恵まれていると書かれていますので、他の兄妹にはないずば抜けた才色兼備であるがゆえの苦悩も、彼らの共通点としてあったことでしょう。
 結果として、ズーイはそれを逆手にとってテレビ俳優として成功(業界には不満があるようですが)し、フラニーも同じ道(ただし舞台女優志望のようですが)を歩もうとしています。
 なお、この作品の解説や評論には、フラニーが精神分裂症に罹ったという文章を見かけますが、正しいフラニーの状況は当時の言葉で言えばナーバス・ブレイクダウン(神経衰弱)だったと思われます。
 だから、兄妹とはいえ医学に素人のズーイ(もちろん、バディやシーモァまで繰り出した彼のアイデアは素晴らしいのですが)でも救済できたわけで、精神分裂症(現在の言葉では統合失調症)ではこんなに簡単には治らなかったでしょう。
 また、この作品では、グラス家の兄妹がシーモァ(15歳で大学入学、18歳で博士号習得)やフラニー(16歳で大学入学)を初めとして、日本にはない(現在は限定的に存在しますが)いわゆる飛び級をしていることがうかがわれますが、そのことが彼らの孤独(それゆえに兄妹のきずなは強い)にどんな影響があったかは言及されていませんが、なんらかの影響があった可能性はあると思われます。
 一方で、飛び級がないための悲劇(教育制度が平均的な子どもに合わせて作られていて、それについていけない子どもたちに対する救済策はありますが、通常の授業(私立や国立のエリート校の授業でも、その差はたかが知れています)ではすでに知っていることばかりで何も得られない子どもたちに対しては、日本では救済策はまったくありません。
 私事で恐縮ですが、私自身も小中学校では授業に全く関心が持てずに(知っていることばかりなので)、授業中に自分のやりたいことを勝手にやっていたので、毎日のように廊下に立たされたり、教室の前の方に正座させられたりしていました(今だったら体罰にあたるかもしれません)。
 受験体制をドロップアウトすることを決めて、高校で私立大学の付属校に進んでから、自分の専門分野だけを異常に詳しく教える(大学受験がないので)教師たち(全員が修士以上の学歴で、大学の研究者と掛け持ちの人たちもいました)に出会って、本当の勉強のやり方(自分でテーマを決めて、できるだけ詳しく調べて(当時はコンピュータやインターネットがないので、図書館(高校の図書館だけでなく、あちこちの公立図書館も)からできるだけたくさんの関連書籍を借りて読みあさるぐらいしか方法がありませんでした)、自分の考えを文章にまとめる)を学びました。
 三年生の時の日本史の授業では、毎学期一回、担当教師に代わって授業をヒトコマ(五十分)する機会があり、今でもその時のテーマを三つとも覚えています(一学期が「憶良と旅人」(万葉集における山上憶良と大伴旅人の比較研究です)、二学期が「記紀のヤマトタケルノミコト」(古事記と日本書紀におけるヤマトタケルノミコトの比較研究です)、三学期が「江戸の遊郭」(江戸における遊郭の制度と、文化や文学に対する影響についてです))。
 小中学校のころから、普通の教育以外に、こうした自分が興味を持てる分野の自由研究(もちろん理科系のテーマも含めて)をサポートする仕組みが公にあれば、もっと有意義な勉強を早くから受けられる子どもたちが数多くいることと思われます。
 専門家以外が英語やプログラミングを教えるなんてまったく無意味なことに、莫大なお金や時間を使うぐらいなら、比べ物にならないぐらい小さな費用で将来の日本や世界に貢献できる人材を育成できると思うのですが。

 

 









 


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