現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J.D.サリンジャー「フラニー」フラニーとズーイ所収

2022-02-11 14:40:00 | 作品論

 サリンジャーの作品全体の大きな転換点になった作品で、グラス家サーガ(年代記)にとっても重要なポジションを占めます。
 東部の名門女子大生のフラニー(グラス家の七人兄妹の末っ子)は、イェール大学との対抗戦(おそらくアメリカンフットボール)が行われる週末に、恋人の大学生(おそらくプリンストン大学)を訪ねます。
 冒頭のプラットフォームでの再会(恋人がフラニーからの手紙を読むシーンも含めて)を除くと、こじゃれたレストランでの二人の会話(恋人は旺盛な食欲を示しますが、フラニーはマティーニを二杯飲んだ以外は何も食べずに、煙草を吸い続けていました)だけで構成されています。
 フラニーは当時のエリート層における完璧な服装をした美人なのですが、ここでは手紙と再会シーンで示した久しぶりに恋人に再会する若い女性らしいかわいらしさはみじんもなく、世俗的な人々に囲まれた大学生活に絶望し、宗教(キリスト教でも、仏教でもかまわないのですが、ただひたすら祈りを捧げる、仏教で言えば念仏宗的な素朴なものに魅かれています)に回帰しようとしています。
 そうしたフラニーを、世俗的人物の典型(決して悪い人間ではないのはところどころに現れる彼の素の部分に現れているのですが、他の大学生や大学の教員たちと同様に、エリート主義あるいは教養主義の鎧でガチガチに身を固めています)として描かれている恋人にはまったく理解不能です。
 こうした作品が1955年に発表されたことは、二重の意味で重要です。
 ひとつは、サリンジャー自身の体験や当時彼が置かれていた状況です。
 1951年に出版した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)が大ベストセラーになり、サリンジャー自身も超有名人になって、それをめぐる周囲の大騒ぎに巻き込まれたことに嫌気がさしていました(一時ヨーロッパへ避難したり、帰国後もニューヨークから転居したりしていました)。
 また、転居先では周囲(高校生や大学生が中心)と交流していましたが、彼らとの信頼関係を裏切られる事件があって、周囲との関係を断ちました。
 その一方で、周囲と交流中に知り合った女子大生(フラニーのモデルの可能性もあります)と結婚(「フラニー」は彼女への結婚プレゼントとも言われています)して、子どもも生まれました。
 もう一つの意味は、当時のアメリカ、特にエリート層の状況です。
 他の記事にも書きましたが、当時のアメリカは「黄金の五十年代」と呼ばれる空前の好況期にあって、田舎町の高校生でも自分の大きなアメ車(当たり前ですが)を乗り回していました。
 映画「アメリカン・グラフィティ」の世界(ただし、ルーカスは1944年生まれなので、時代は1960年ごろと思われます)ですね。
 ボブ・グリーンの「17歳」という小説の時代はやや後の1964年ですが、もっと詳しく同様の様子が書かれています。
 ましてや、エリート層の子弟たちは、この作品で描かれているような鼻持ちならない暮らしぶりだったのでしょう。
 大学(いわゆるアイビーリーグの有名私立大学)に通うにしても、現代のように、MBAを取ったり、医者や会計士の資格を取ったりするばかりが目的でなく、ここで描かれたような文学論、演劇論、宗教論を戦わす教養主義真っ盛りの時代だったので、大学では将来の社交に必要な教養を学んで、卒業後は家業を継ぐ男性たちが多かったと思われます(サリンジャー自身もその一人です)。
 女子大生が大学に通う目的も、将来の職業のためよりも、同じようなエリート層の男性と知り合って結婚し(サリンジャーの妻も同様の早い結婚を経験しています)、卒業後は彼と一緒に社交をこなすための教養が必要だったのです。
 こうした状況に適応できなかったフラニーが、素朴な宗教(質よりも量を重視して、ひたすら祈ります)に回帰したのも無理のないことです。
 さて、この本が出版されてから60年以上がたち、日本だけでなくアメリカでも教養主義は見る影もなく衰退してしまいました。
 竹内洋「教養主義の没落」(その記事を参照してください)によると、日本の大学での教養主義の時代は1970年ごろまでだったそうです。
 それはアメリカも同様で、1980年代の初めにアメリカの会社の研究所に行っていた時に知り合ったアメリカ人(WASP(白人(ホワイト)で、アングロサクソンで、プロテスタント))の友人は、理系の博士号を持っていましたが、専門書以外の本はほとんど読んだことがないと言っていました。
 こうした状況の現代の読者がこの作品を読んでも、フラニーや恋人の人物像を正しく理解するのは難しいかもしれません。
 しかし、フラニーが陥った現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きていくリアリティの希薄化、社会への不適合など)は、形を変えて現在ではより広い社会層や年代の人たちにも広がっています。
 そうした点では、グラス家サーガでこうした問題を描こうとしたサリンジャーの作品について考えることは、新たな意味を持っていると思っています。




 

 


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