現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

岩瀬成子「ダイエットクラブ」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-18 09:05:41 | 作品論
 1993年に、雑誌「日本児童文学」に発表されて、その後加筆修正されて雑誌「ひと」に掲載されたものを、編者の宮川健郎が転載しています。
 小さいころから肥満児(一家全員が肥満しているので、遺伝と食生活と運動不足が原因のようです)だった主人公の女の子は、五年生の時に小児科で成人病予備軍とと診断されてしまいます。
 それにショックを受けた母親は、一家でダイエットに取り組むことを宣言し、かなり極端なダイエット食と運動を開始します。
 さらに、主人公と母親は、ダイエットクラブ(肥満児とその母親(彼女自身もやっぱり太っている)たちが、たがいに励ましあってダイエットに取り組むサークルのようです)やスイミングクラブにの加入します。
 母親の食生活改善の努力と、毎朝のランニングでの父親の励ましもあって、一家全員(成長期の弟だけは免除されています)が順調に体重を減らします。
 しかし、ダイエットクラブの落ちこぼれ(みんなの努力を馬鹿にして、表向きはダイエットに背を向けています)の友だちを、ダイエットに目覚めさせようと、ショック療法的に行ったマクドナルドとドーナツショップで極端な過食したことをきっかけに、主人公はダイエットをやめてしまい、三年後の今では体重は75キロあります。
 家族では、姉(見違えるようにやせてきれいになって、やせ形のスポーツ選手との結婚も決まっています)以外はダイエットをやめてしまい、最初から参加しなかった弟も含めて、みんな鯨のように太っています。
 一方、ショック療法で立ち直った友だちの方は、ダイエットを続けてスリムになっています。
 作者は、ダイエットを続けるのがいいとか、太っているのが悪いとか決めつけずに、あるがままの主人公の気持ちを描いています。
 編者は、この作品を、小説的手法で描いて児童文学と一般文学の境界があいまいになっている作品の例として取り上げていて、作者の他の作品(「朝はだんだん見えてくる」(1977年、デビュー作)、「だれか、友だち」(「日曜日の手品師」(1989年)所収)、「迷い鳥とぶ」(1994年)、「イタチ帽子」(1995年)、「ステゴザウルス」(1994年)、「やわらかい扉」(1996年))も紹介して、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)的な「物語」から「小説」へ移行して、「児童文学」から「一般文学」へ越境しているとしています(この作品の発表媒体も、「児童文学」誌から一般紙へ移行しています)。
 例によって編者の解説は非常に適切なのですが、こうしたことが「現代児童文学」にどのような影響を与えたか(あるいはこれから与えそうか)については、言及していません。
 私見を述べれば(編者の文章より約二十年後に書いているので、当然その後の経過も含んでいます。この本が書かれた1997年ごろにすでにこのようなことを考えていたわけではありません)、こうした「小説化」は「現代児童文学」に二つの「空洞化現象」を生み出しました。
 一番目の空洞化現象は、こうした作品が児童文学読者の高年齢化を生み出し、新しい読者(主に若い女性でしたが、現在では女性全体に広がっています)を獲得した一方で、児童文学のコアな読者である小学生向けの作品が質、量ともに(特に質の面において)手薄になり、小学生(特に男の子)の児童文学離れを加速してしまいました。
 この作品でも、小学生の女の子の背後に大人の女性である作者の視線が濃厚に感じられて(特にマクドナルドとハンバーガーショップのシーンで)、この作品は児童文学ではなく、子どもを主人公にした一般小説になっています(ただし、「日本児童文学」掲載の初期形は未読のため、その時にどうだったかは検討していません)。
 編者は、「私には、子どものふりをして書きたがっているようなところがある。」(「日本児童文学」1994年10月号の共同討議「視点と語り」において)という作者の発言を紹介して、作者はそれほどまでに、主人公に密着して語り、作者自身も、主人公を相対化していないのだろうとしています。
 編者がどこまで意識して書いていたかはわかりませんが、ここにおける作者自身はとうぜん「大人の女性」で、主人公が相対化されていないとしたら、主人公もまた子どものふりをしている「大人の女性」なのです。
 こうした作品が、子ども読者(特に男の子)の児童書離れを起こしたのも、しごく当然のことかもしれません。
 二番目の空洞化現象は、優れた児童文学の書き手(特に女性)の一般文学への「越境」です。
 この問題はあまり表立って論じられることがないのですが、江國香織、森絵都、梨木香歩、湯本夏樹実、あさのあつこなど、一般文学へ越境していった例は、あげたらきりがありません。
 よしもとばなな、綿矢りさ、角田光代なども、初期の作品は児童文学で言えばヤングアダルトの範疇に入るでしょう。
 この中には、あさのあつこのように児童文学の作品も書き続けている作家もいますが、もしこれらの作家がすべてその後も児童文学を中心に書き続けていたら、子どもたちは現在よりももっと芳醇な児童文学作品群を手に入れていたことでしょう。
 しかし、これらの越境現象は、以下の理由で当然のことと思われます。
 まず第一に、彼女たちが年齢を重ねるにつれて、書きたい作品世界が児童文学の範疇に収まり切らなくなっていたであろうことがあげられます(マーケティング用語で言えば、作り手側にシーズがあったということになります)。
 次に、彼女たちの主な読者たちもまた年齢を重ねて、児童文学の範疇でない彼女たちの作品を読みたかったのでしょう(マーケティング用語で言えば、顧客のニーズがあったということです)。
 そして、一番大きな理由は、一般文学の方が、はるかにたくさん本が売れる(お金になる)ということで、プロの作家としては最も大事な点でしょう(マーケットサイズが、比べ物にならないほど大きいということです)。
 そうした状況の中で、現在でも、子どもたちを取り巻く今日的な問題を、「児童文学」(「きみは知らないほうがいい」(2014年)(その記事を参照してください)「ぼくが弟にしたこと」(2015年)(その記事を参照してください)など)として書き続けてくれている(読書感想文の課題図書にでもならないかぎりそんなに本が売れないるので、あまりお金にはならないでしょう)作者には、敬意を払いたいと思います。

児童文学―新しい潮流
クリエーター情報なし
双文社出版







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