現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

宮川健郎「<子ども>の再発見」講座昭和文学史第3巻所収

2020-09-19 09:40:06 | 参考文献

 1959年にスタートしたと言われる(私はそれよりも早く少なくとも1950年代半ばには始まっているという立場をとっています)「現代児童文学」(一般的には2010年に完全に終焉したとしていますが、私はそれよりもずっと早く1990年代半ばには終焉していたという立場です)の特質である「散文性の獲得」、「変革の意志」、「子どもへの関心」のうちで、特に「子ども」を中心にまとめた論文です。
 特に新しい意見はないのですが、児童文学における「子ども」についてのいろいろな論が要領よくまとめられています。
 近代童話において小川未明らが主張した「童心」という観念の中の子ども、「無知」「感覚的」「従順」「真率」な子どもは、「現実の子ども」「真の子ども」「生きた子ども」ではないと、「現代児童文学論者」たちは主張しました。
 しかし、この「現実の子ども」などもまたひとつの観念であり、「子ども」という概念自体、近代(日本の場合は明治以降)に発見されたものにすぎないと、柄谷行人の「児童の発見」(「日本近代文学の起源」所収、その記事を参照してください)の中で批判されています(この論は、アリエスの「<子供>の誕生」に基づいて書かれたと言われています)。
 このように、児童文学における「子ども」の位置づけは、非常に流動的で相対的なものであると思われます。
 児童文学の創作においてよく問題になるのが、児童文学を書くのは「子どものためなのか」、それとも「作者の自己実現のためなのか」ということです。
 私自身の創作体験や同人誌活動などで実際に観察した他の書き手たちにおいては、これはどちらかひとつということではなく、両方を含んでいると思われます。
 ただし、その割合は書き手によって様々でしょう。
 私自身の場合は、創作活動は「自己実現のため」でもあり、「内なる子ども(過去の自分でもあり、今現在の自分の中に残っている子どもの部分でもあります)のため」でもあったと思います。
 実生活で自分の子どもたちを得てからは、「その子たちのため」であったり、「その子たちの姿を残すため(創作では写真やビデオではできない内面まで残すことができます)」だったと思われます。
 雑誌「日本児童文学2013年5-6月号」において、児童文学研究者の佐藤宗子は「一つの終焉、そのあとに」という文章(その記事を参照してください)で、「現代児童文学」が終焉した後の「<児童文学>は、大人にも子どもにも共有される、広義のエンターテインメントの一ジャンルになりつつあるのではないか。」と述べています。
 私は「女性のみの」という留保付きでその意見に賛成なのですが、そうしてみるとすでに児童文学において「子ども」とは何かという問い自体が意味を失っているのかもしれません。
 話は飛びますが、「現代児童文学」が1950年代半ばから1990年代半ばまでであった背景としては、現代日本史のひとつの区分である「55年体制確立からバブル崩壊まで」の日本の「工業化社会」時代と関係があると、私は考えています。
 おそらく、それには、「工業化社会」に伴う「資本家階級と労働者階級の対立」、「一億総中流化」、「専業主婦の出現」などが強く影響していると思われます。

 

抑圧と解放 戦中から戦後へ (講座 昭和文学史)
クリエーター情報なし
有精堂出版

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