現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

村松友視「力道山がいた」

2017-01-30 09:25:10 | 参考文献
 2000年4月に出版された、プロレスファンの直木賞作家によるドキュメンタリーです。
 他の記事に書いた増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」とあまりにも対照的なので、取り上げてみます。
 まず、視点が真逆です。
 増田のドキュメンタリーは木村政彦(つまり柔道側)の立場で書かれているのに対して、村松のこの本は自称力道山フリークの立場で書かれています。
 村松には、ベストセラーになった「私、プロレスの味方です」など何冊かのプロレス関連の本がありますが、プロレス業界の人間ではなくあくまでもファンの立場です。
 それに対して、増田は柔道経験者でかなりその世界の内部の人間です。
 次に手法の違いがあります。
 増田は1965年生まれなので、当然木村や力道山の現役時代は見ていません(力道山などは増田が生まれる前の1963年に亡くなっています)ので、膨大な文献の調査と関係者への取材を行っています。
 それに対して、村松は1940年生まれなので、柔道時代の木村は見ていませんが、プロレス時代はリアルタイムで見ています(しかも、叔父が当時のプロレスを主催していた毎日新聞社に勤めていた関係で、プラチナチケットだった入場券を入手でき、問題の昭和の巌流島の対決と言われた、力道山対木村政彦戦も生で観戦しています)。
 そのため、村松は関係者に取材をすることもなく、自分の13歳から23歳までのプロレス体験(会場での実際の観戦、テレビ観戦、一般の新聞とプロレスマスコミ(新聞や雑誌))を中心に、それを補う形での文献を参照する形で書いています。
 最後に、対象への思い入れの違いがあります。
 増田は柔道の世界の内部の人間であり、そこで「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と神格化されている木村政彦に対する過度の思い入れがあって、作品が客観的になっていません。
 それに対して、村松は初めこそ力道山フリークであったものの、変質していく力道山プロレスに対して、だんだん批判的な目も養われていきます。
 これは、世間一般のプロレスに対する視線とも関連があると思われます。
 私は村松と増田の中間の世代にあたりますので、1954年の力道山対木村政彦戦はちょうど生まれた年で知りませんが、後期(1962年の力道山対ブラッシー戦(視聴率70%以上)や1963年の力道山対デストロイヤー戦(視聴率64%))をテレビで見た記憶は鮮烈に残っています。
 私の家では、高校教師の父親はプロ野球中継は熱心に見ていましたがプロレスは「八百長」だと馬鹿にしていて、私はプロレスの時だけは二階に同居していた町工場をやっていた母方の祖父の部屋のテレビで見ていました。
 これは、以下のような世間一般のプロレスに対する視線を表していたのでしょう。
 いわゆるインテリはプロレスを馬鹿にし、庶民は熱狂していました。
 私も遅ればせながら力道山フリークだったので、力道山の突然の死を知った時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
 その朝、起こしに来た母から「力道山が死んだ」と聞いたとき、私は小学校三年生で、下の姉の部屋と私の三畳の部屋とで両側から入れ子になっている奇妙な二段ベットの上にいて、青いパジャマを着ていました。
 私は、その後もジャイアント馬場とアントニオ猪木がまだタッグを組んでいたころまでは、祖父とプロレスを見ていましたが、力道山のころのようには熱中できずに大学生になるころにいつのまにかその世界を離れました。
 こうして二つのドキュメンタリーを読み比べてみると、それぞれの手法や視点の長所や欠点が良くわかり、児童文学の研究方法を考える上で参考になりました。


力道山がいた
クリエーター情報なし
朝日新聞社

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