現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

児童文学同人誌の今後

2017-02-18 09:30:16 | 考察
「児童文学を商業主義のワクの中で安っぽいものにさせてたまるかよ。志高い仲間と実践的に児童文学の地平を拓いていくしかない。」
 三十年以上前に始まったある同人誌の「創刊にあたって」からの抜粋です。
「私たちは、人間として豊かに生きるための文学を拓いていきます」
 これは、やはり三十年以上前にスタートした別の同人誌の綱領の冒頭の言葉です。
 くしくも同じ「拓く」という言葉を使っていますが、この言葉から当時の児童文学の状況と同人誌活動をスタートする意気込みが伝わってきます。
 このやや気負った言葉たちが生まれた背景には、当時の児童文学の状況があります。
 そのひとつは、1950年代にスタートした現代児童文学が、1970年代ら1980年代にかけての出版ブームにより、児童文学作品が商品化したことです。
 もうひとつは、それに伴って、既成の作家たちから革新的な児童文学が生まれてこないことに対する閉塞感です。
 そういったものを打破して新しい児童文学を創造するために、これらの同人誌は出発しました。
 これらの同人誌に直接あるいは間接的にかかわってきた自分としては、はたしてどれだけ新しい児童文学を創造できたのかと、内心忸怩たるものがあります。
 確かに、これらの同人誌は児童文学界の新しい書き手を、数多く生み出してきました。
 そういった意味では、ある程度の成果は出してきたと思います。
 ただ、現代児童文学の出発点である多くの作品(例えば、佐藤さとるの「誰も知らない小さな国」や山中恒の「赤毛のポチ」など)が、当時の同人誌によって生み出されたことと比較すると、どれほど革新的な作品が生み出されてきたかという点では、疑問符が付きます。
 「出版状況が当時とは違うよ」と言われればその通りですが、逆にその出版状況が革新的な児童文学の創造を妨げているようにも思えます。
 この三十年余りの間に、これらの同人誌は、創刊時の言葉とは裏腹に、さらに商業主義に取り込まれてしまった気がします。
 それらを象徴する事象として、同人誌の合評会への出版社の編集者の参加があります。
 作品についての編集者の意見に、さも大事な話を聞いているといった感じでうなずいている同人たちの姿を見ていると、奇異な感じを受けました。
 本来、編集者は文学作品を商品にするために存在するわけで、文学作品そのものを生み出した経験はないのです(もちろん「冒険者たち」の斉藤敦夫のように両方をやっている人もいるのですが、その場合でも編集者と作家の仕事は完全に分けてやっていたと思います)。
 こういった奇妙な状況は、同人たちの同人誌への参画意識の変化があると思われます。
 新たに児童文学を書こうという新人たちは、今までにない革新的な児童文学を創造したいというよりは、
「先生(や先輩たち)に教わって作品を書くのが少しでもうまくなり、できたら本も出してみたいな。」
 そんな感覚で参加している人が、大半なように見受けられます。
 その気持ちを百パーセント否定するものではありませんが、自分は既成の作家と違うこういう新しさがあるんだという意識なしでは、革新的な児童文学は生み出しようがありません。
 だいたい、創作をスタートする前に、児童文学のコモンセンスと思える内外の作品をどれだけ読んだことがあるのかさえ疑問もあります。
 また、すでに本を出している旧人たちも、出版前の原稿のブラッシュアップ的な感覚で同人誌の合評会に作品を提出している場合もあります。
 本来だったら、こういった作業は同人誌活動ではなく、新人は創作教室で、旧人は編集者と直接やるべきものだと思います。
 一口で言うと、児童文学の同人誌は、かつての新しい児童文学を生み出す運動体から、創作教室あるいは商品の下読み場的なものに変化しているのだと思います。
 こうした変化の原因は、同人誌の運動体としての理念がスタートする時に十分にすり合わされなかったことと、その理念を常に見直していく努力を怠っていたためだと思われます。
 そのために、いつの間にか同人誌が商品のショウケース化し、革新的な作品を生み出す場ではなくなったのでしょう。
 もう一つの大きな変化が、同人誌における評論の衰退です。
 1950年代、1960年代では、児童文学上の大きな論争には、同人誌も大きな役割を果たしていました。
 しかし、今では、同人誌に論文が載ることはほとんどなくなり、あるいは現在の児童文学の問題とは関係のうすいものがたまに載ることがあるだけです。
 現在では児童文学の評論をする人も少なくなり、また評論をする人たちはその人たちだけでかたまって活動する傾向が強いので、なかなか同人誌から良い評論が生み出しにくくなっています。
 これには、同人誌の編集上の問題もあります。
 ある大きな同人誌では、会員から創作だけでなく評論も募集していて、編集委員が協議して掲載するかどうかを決めています。
 ところが、その編集委員の中に現代児童文学の評論をやっている人が誰もいなくて、一度もまともな評論を書いたことがない人が応募されてきた評論に対してトンチンカンな選評を書いているのを読んで、驚愕したことがありました。
 現代児童文学の作家があまりお金にならないことは別の記事に書きましたが、評論や研究はさらにお金になりません。
 しいていえば大学の教員になることでしょうが、日本の大学院で児童文学の専攻があるのは二か所しかなく、いずれも女子大です(ただし、そのうちのひとつは、大学院だけは共学です)。
 それも、学生の興味の変化に合わせて、いわゆる児童文学だけではなく、アニメやライトノベルを対象にする講義も増えています。
 あとは、小学校や幼稚園の先生、図書館司書などを養成する大学の学部や専門学校で、ほとんど児童文学を読んだことのない学生相手に、初歩的な児童文学の講義をするぐらいでしょう。
 文学系の学部や学科が減少しているのでそれらの仕事も年々減ってきていて、児童文学を専攻してもなかなか仕事は見つからないと思います。
 いわゆるオーバードクターとかポストドクターになっている人もたくさんいるでしょうし、よくても非常勤講師という名の非正規労働につくぐらいでしょう。
 これでは、児童文学を専攻しようという学生はごく限られてしまうのが現状です。
 話は変わりますが、総合的な児童文学の同人誌の問題として、児童文学ならばなんでも(いわゆる現代児童文学、エンターテインメント、幼年童話、ナンセンス、メルヘンから、はては絵本まで)一つの同人誌でカバーしようとする現状にはかなり無理があると思います。
 先ほど、同人誌の創作教室化について述べましたが、指導する立場の人たちがエンターテインメントを書いた経験が乏しい同人誌に、エンターテインメントの書き手を目指す新人が参加しても得るものは少ないでしょう。
 また、その逆のケースも同様です。
 同人誌の中には、ジャンルを絞って成果を上げているところもあります。
 また、定期的に同人誌を発行するという形態も、すでに制度疲労している気がします。
 決して安くない印刷費用をかけて同人誌を発行しても、関係者以外でどこまでまじめに読まれているかは疑問です。
 今でも、同人誌評という労力の割に報われない活動を続けてくれている組織もいくつかはありますが、出版社などはおそらくほとんどスルー(あるいは既成作家の作品だけを拾い読みする程度)でしょう。
 それならば、いっそ同人誌の発行はやめて、活動は合評だけにしてみてもいいかもしれません。
 それも、一か所に集まって合評会をやるのではなく、電話会議やネットミーティングでやれば、地域を限定せずに全国から同好の仲間を集められるので、ジャンルも絞りやすいです。
 現代児童文学、エンターテインメント、ファンタジー、絵本、詩、メルヘン、幼年童話、ライトノベルなど、いくらでもジャンルを細分化できます。
 同人の成果も、定期的にホームページに載せれば、一般の人にも見てもらえるチャンスが今よりも多いと思います。
 さらに、同人誌を電子書籍化して課金することも考えれば、会運営の経済的な問題も解決するかもしれません。
 最近の新しい動きとして、同人誌で本を共作して出版する動きがあります。
 これらにも自己負担金はあるので、完全な商業出版ではないのですが、増刷されるケースもあり、読者である子どもたちにある程度手渡されているようです。
 ただし、これらの作品集の中には、作品の出来にばらつきのあるものもあり、個々の作品の品質に対して同人たち自身が厳しく対応しないとじり貧になってしまう心配はあります。
 
日本児童文学 2008年 12月号 [雑誌]
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小峰書店


スノードームにさ・し・す・せ・そ (おはなしトランク おもちゃがいっぱい)
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国土社

 
 




 
 



 

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