ここであげられている映画は、賢治の没後の1940年に作られた「風の又三郎」を除くと、賢治が見たと推定される映画のようですが、具体的な根拠が示されていないので真偽のほどは定かではありません。
制作年ごとに並べると、
「プロテア」1913年
「クオ・ヴァヂス(何処へ行く)」1913年
「ポンペイ最後の日」1913年
「新馬鹿大将」シリーズ1913年
「名金」シリーズ1915年
「不如帰」1915年
「快漢ロロー」シリーズ1916年
「毒杯」1916年
「ミラクルマン」1919年
「肉体の道」1927年
「紐育の波止場」1928年
「四人の息子」1928年
「不如帰」を除くと洋画ばかりで、連続活劇が多いですが、史劇や社会劇や喜劇の映画も含まれています。
ほとんどの作品は作られた年もしくは翌年には日本で封切られていて、その点では現代とあまり変わらなかったようです。
ただし、賢治が1921年に上京していた時を除くと、岩手県の花巻か盛岡(まれに宮城県仙台)で映画を見たと思われるので、実際にいつごろ賢治が見たかは不明です。
これらの映画は賢治の一部の作品に直接的な影響を与えたかもしれませんが、それはそれほど多くないと思います。
それよりも、映画という新しいメディアの持つ映像的な表現や音楽性などが、賢治の創作技法自体に大きな影響を与えた事の方が重要だと思われます。
制作年ごとに並べると、
「プロテア」1913年
「クオ・ヴァヂス(何処へ行く)」1913年
「ポンペイ最後の日」1913年
「新馬鹿大将」シリーズ1913年
「名金」シリーズ1915年
「不如帰」1915年
「快漢ロロー」シリーズ1916年
「毒杯」1916年
「ミラクルマン」1919年
「肉体の道」1927年
「紐育の波止場」1928年
「四人の息子」1928年
「不如帰」を除くと洋画ばかりで、連続活劇が多いですが、史劇や社会劇や喜劇の映画も含まれています。
ほとんどの作品は作られた年もしくは翌年には日本で封切られていて、その点では現代とあまり変わらなかったようです。
ただし、賢治が1921年に上京していた時を除くと、岩手県の花巻か盛岡(まれに宮城県仙台)で映画を見たと思われるので、実際にいつごろ賢治が見たかは不明です。
これらの映画は賢治の一部の作品に直接的な影響を与えたかもしれませんが、それはそれほど多くないと思います。
それよりも、映画という新しいメディアの持つ映像的な表現や音楽性などが、賢治の創作技法自体に大きな影響を与えた事の方が重要だと思われます。
宮沢賢治の映像世界―賢治はほとんど映画だった | |
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キネマ旬報社 |