とめどもないことをつらつらと

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ギリシャと言う地域の成立の欺瞞

2018-06-16 18:33:58 | 海外・国内政治情報等
大国の掟 佐藤優 P82

 古代ギリシャの滅亡以降、ギリシャの地は、マケドニア、ローマ帝国、ビサンツ帝国(原文ママ)、オスマン・トルコの順番で支配され続けていました。つまり「ギリシャ」という国は、ずっと存在していなかったのです。
 ギリシャという国家は、一八二一年のギリシャ独立戦争が発端となって誕生します。オスマン・トルコの支配下にあったギリシャが独立を求めて蜂起したのですが、独立戦争の陰の主役は、イギリスとロシアです。ギリシャは一九世紀に恣意的につくられた国家と言ってもいいでしょう。
 一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて、イギリスとロシアは中央アジアの覇権をめぐって対立していました。そのなかでオスマン帝国をいかに解体していくか、という戦略の一環としてギリシャがつくられたのです。
 具体的には以下のプロセスです。
 独立運動の中心になったのは、当時、ロシア領の黒海沿岸に住んでいたギリシャ人でした。彼らは「ギリシャ人だ」という自己意識をある程度もっていたため、ロシア帝国の支援を得て、ギリシャ独立運動を展開していくわけです。
 一方、オスマン帝国の現在のギリシャに相当する地域に住んでいた人々は、帝国内のキリスト教のミレット(共同体)に入っていたため、「ギリシャ人」というより、「オスマン帝国のギリシャ正教徒」というアイデンティティが強かった。そこに黒海沿岸のギリシャ人たちが入ってきて、「あなたたちは、古代ギリシャから連綿とつながってビザンツ帝国を形成していた偉大なギリシャ人の子孫なんだ」と働きかけました。
 ペルシャやインドにおいては、ロシアと対立する関係にあったイギリスも、オスマン帝国の解体ということに関しては、利害が一致するので、ギリシャ独立戦争を全面的に支援しました。
 こうして一八二九年に独立したところから、現代のギリシャがはじまります。国王にはドイツのバイエルンの王子オットーを迎えましたが、オットーはあまりにも専制的だったため、一八六二年に革命が起きて追放されました。その代わりに連れて来られたのが、デンマークの王子です。
 独立したギリシャにおいて、なぜドイツやデンマークの王子が国王になるのかと、不思議に思う人もいるかもしれません。でも戦術したように、ギリシャは列強の介入によってつくられた人工国家ですから、誰を国王とするのかも列強の意のままでした。列強にとってギリシャは、西側のキリスト教文明の橋頭堡であるという位置づけのほうが強かったから、国王がドイツ人だろうとデンマーク人だろうと、かまわないのです。



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