とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

私がツァラトゥストラの読了を途中で中止した訳

2022-02-11 17:08:08 | 雑感
以前も記載したが、私はツァラトゥストラの読了を途中で中止した。その理由を改めて書いておく。

1.直接原因
私はツァラトゥストラを読んだのは永劫回帰の具体的な中身を確認したいと言う資料としての読み物として読んだ。その部分が完了したので、途中でその読了を終える形とした。

2.根本原因
読書とはその人間の血肉とならなければならない。
その血肉に変換するには、ツァラトゥストラは重すぎる。
例えば、「おまえはわたしの目には、まだ十分に謙遜ではない。謙遜は最も堅い皮をもつものだ(5)」(手塚富雄訳 P328)での解説での「驢馬のように黙々と困難を引き受けてこそ、真の謙遜である。」の文章のように、もしこの言葉に感銘して、それを自分のものとして血肉とし、体得したいのならば、死の間際までそれを行う必要がある。
自分が死んで、自分の人生で「ああ、黙々と困難を引き受けて、謙遜が成就したなあ」と思った時に、それは真に体得したと言え、この文章を読んだと言えるのだ。
私はそこまで行える精神的体力があるとは思えない。
思えば私の父が、黙々と困難を引き受けたタイプの人間で、尋常ならざる人生を送ってきたからこそ、私には無理だと思うようになったのだと考える。
なので、「考えなくてええ! 完璧でなくてええ! 適当でええ! 」と言う言葉には気が軽くなる。
なので、それを行う人間的度量が絶望的になく、その目標到達点には決して至らぬことがもうはっきりと分かったので、私はこの読書と、その体得と、その言葉の現実的履行を諦めた。
情けないとは言うものの、人間にはどこかに限界があるのではないか。
私は何度かそれに到達したことがある。個人的努力は組織構造・社会構造を超えることはないのだ(それを超えるケースもしばしば目にしたが、それは特殊解なのであって一般解ではない)。
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