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秦氏はユダヤ民族か?・・日ユ同祖論の検証(3)

2015-05-27 | 古代キリスト教


M・トケイヤー著「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


先日わたしは最近刊行された「日本の歴史」という本を読んでいた。

これは小学館から発行されている歴史書で、「古代豪族」という巻に大変興味深い話を見出した。

「日本書紀」の「皇極記」に「常世の神と秦河勝(はたのかわかつ)」という話があり、「「常世の神」というカイコによく似た虫を祀ると富と命が授かるだろう」と世の人々を惑わしていた大生部多(おおうべのおお)という人物が、秦河勝に打ち据えられた」という話である。

著者はこの話について、「秦河勝は仏教の得心者であるから、殴打するなどというのはおかしい」とし、何よりもこんなつまらない事件に中央の朝廷豪族である秦氏が乗り出したというのもおかしい」と疑問を呈している。


著者は大変慎重に書いているので何の結論も出していないが、私はひとつの想像がすぐに浮かんだ。

大陸からやって来た中国系の秦氏の中心人物が、カイコに似た虫を中心として起こった事件に乗り出して、その首謀者を打ち据えたというのは、秦氏がカイコと関係ある何かを握っていたのではないか?

もし秦氏が中国系ユダヤ人ならば、絹とそれに関する産業技術者であると推理することができる。

そして絹とそれに関する技術を独占していた秦河勝は、カイコに似た虫をもてあそんだ人物に対して、何らかの権利をもっていたのではないか、という考えである。

もしわたしの推理が正しければ、秦氏は完全に中国系ユダヤ人ということができるのではないだろうか?


それとは別に、わたしはまた、一人の興味ある人物について語りたい。

中田という日本人がいた。

彼はアメリカに留学し、キリスト教の神学を学んだ。

彼の習ったキリスト教聖書学は、やや初歩的なものであったらしい。

そして彼は非常に原始的なキリスト教徒となった。

日本に帰国してから、彼は自分自身を「僧上」と自称するようになった。

つまり自分のことを「中田僧上」と呼ぶようになったのである。

そしてキリスト教会を作ったのである。

彼は自分の教会を「聖なる教会(きよめ教会)」と命名した。

だがここで中田僧上は非常に不思議なことをしたのである。

1930年当時、まだドイツにはナチスが興っていなかった。

それなのに、中田僧上と彼の信者たちは毎朝、ユダヤ人の安全のためにお祈りを唱えていたのである。

これは非常に不思議なことと言わなければならない。

戦争が終わって1948年に、中田未亡人は日本の占領軍総司令部であるGHQに赴いた。

そこで未亡人は「イスラエルの首席・ラビを祝福したい」と申し出たのである。

「古代ユダヤが崩壊してから数千年の後に、ついにイスラエルの国家が建設されたことを祝いたい」という趣旨であった。

一体こうしたことを申し出るに至るまで、中田家においてはどんなことが行われていたのであろうか?


中田僧上は、1700年前に応神天皇がユダヤ人と接触していたと信じていた。

そして当時、中国大陸から「弓月」と呼ばれる種族が3500人の家族を従えて来日した。

これは「日本書紀」にも記録されているが、その時この「弓月」の人々は初めて日本に絹の織物を持って来たと伝えられている。

その後、仁徳天皇・雄略天皇の時代にも、さらにユダヤ民族の移民が日本にやって来たと彼は信じていた。

これが日本古代史における「秦氏」と呼ばれる人たちであると、彼は考えたのである。

この「秦(=機)」という氏族の名前を、彼は「織物の部族」だと理解したのである。

また「秦氏」の「秦」という字は、秦の始皇帝の「秦」と同じである。

そして「秦氏」は秦の始皇帝の子孫であり、秦の朝廷は古代ユダヤ民族の子孫であると彼は考えたのであった。

これらの「秦氏」は、現在京都にある「太秦(ウズマサ)」の地に移住して生活することになった。

その太秦の「ウズ」は「ユズ」という意味であり、これは「弓月の民」の「ユズキ」から来ているものと考えたのである。

古代中国においては、現在のローマ帝国の首都・ローマを「大秦」という名前で呼んでいた。

これは今述べた京都の「太秦」と大変よく似た漢字が当てはまるのである。

また広隆寺には昔、「大秦寺」という名前がつけられていたそうである。

つまりこれは「古代ユダヤの寺」という意味にも理解できるわけである。

またこの「太秦」の地には「大辟(おおさけ)神社」とよばれる神社がある。

この「大辟」という漢字は、中国語訳「旧約聖書」の「ダビデ」と全く同じ字なのである。

また「太秦」の地には、「イスライの井戸」と呼ばれる井戸が現在でも存在している。

これは恐らく「イスラエル」という言葉から命名されたのではないかと、彼は考えている。

つまり彼の結論によれば、秦氏はユダヤの移民たちであり、その人たちの住んだ京都の「太秦」を、古代ユダヤ人の居留地であったと考えたのである。


「太秦」では、毎年9月になると「牛祭り」というお祭りが行われる。

そしてこの「太秦」で行われる「牛祭り」のときは、面をかぶった踊りが行われる。

この面の顔は、完全に外国人の顔つきなのである。

その時、牛を追い払う行事も行われる。

これと同じような行事はユダヤ民族のなかにも行われている。

ユダヤの暦で、毎年9月の新月の10日後に行われる祭りである。

これは「ヨンキプア」とよばれる贖罪の祭りである。

この祭りのとき、午後に2頭のヤギが引き出され、1頭をユダヤの寺院に連れて行き、もう1頭のヤギを追い払うのである。

「太秦」で現在も行われている「牛祭り」は、これと全くよく似た内容をもっているのである。
            
  
               (引用ここまで)


                 *****

これは大変興味深い話で、ぜひ調査したいと思いました。

当ブログでは、古代の朝鮮半島との関わり、天台宗の〝後ろ戸の神”のこと、オリエントのミトラス神信仰、アジアの弥勒信仰の系譜、など、これに近いテーマをたくさん扱っているので、ますます複雑になってきて、まとめようがないような感じになってきました。

どれかが正しい、とすると、どれかは間違っている、ということになるわけですが、わたしはそうはしたくないと思っています。

歴史の闇、歴史の混沌、あらわになったものと隠されているもの、どれも大切で愛しいと感じます。



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