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ドルイド・エジプトと、マリア・・「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著(2)

2018-03-21 | 古代キリスト教


上の像は、わたしが買った、12世紀からスペインの「モンセラ」という町で祀られている「黒い聖母子像」の写しです。

毎日見ていると、お地蔵様みたいな気もしてきますが、いわゆる「西洋的マリア」とはずいぶん異なったものだと、つくづく思ってしまいます。

引き続き、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****

          (引用ここから)


「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。


しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。


「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。


ボーズ平原に奇跡のごとく建つ「シャルトル大聖堂」にも、古くから崇拝されていた「黒い聖母」があった。

それは「地下祭室」に安置され、「地下の聖母」と呼ばれている像である。

像の下に「出産を前にした聖母」と記されている。

すなわち、伝説によれば、この像はキリストが生まれる以前に制作され、「ドルイド教徒」達が崇拝していたと言われている。


いわゆる「地下の聖母」は、「ドルイド教」時代に遡る最も古いもので、彼らの「大地の女神崇拝」と結びついていたものと思われている。

「シャルトル大聖堂」の「地下の祭室」には、4世紀頃の「井戸」があるように、そこは「ドルイド教徒」たちの「聖なる水」の信仰と結びついていたのである。

この「地下の聖母」の制作年代は定かでない。

「黒い聖母像」がある所は、古いドルイド教の伝統と、新しいキリスト教が同化した場所であることがわかるのである。


しかし、これらの「聖母」はなぜ「黒い」のであろうか?

その象徴的意味は何だったのであろうか?

この奇異に思える「黒い色」の意味を、あえて「聖書」の中に探してみるならば、「旧約聖書」の中に、それらしきものが見られる。


エルサレムの娘たちよ

わたしは黒いけれども 美しい

ケダルの天幕のように

ソロモンのとばりのように

「旧約聖書・雅歌 1章5節」


異教的とも思えるこの「雅歌」の文句については、中世以来、多くの解釈がなされている。

しかし「黒い聖母」がこの文章を典拠にしているという証拠は何もない。


キリスト教以外の宗教を見れば、“死の象徴”とも言うべき「黒」は、必ずしも悪い色としてとらえられていない。

古代神話における「大地の女神」は、しばしば「黒く」表現されている。

たとえば古代エジプト神話における「地母神イシス(死者の守護神であり、豊穣神でもあり、太陽神ホルスの母)」は、「黒く」表現された。


「幼児ホルス神」を抱いて座るこの「イシス像」の中に、キリスト教の「聖母子像」の原型を見る論者もいる。

「イシス信仰」は、地中海世界に広く伝播していったと考えられている。


ギリシャ神話の「大地の豊穣神・デメテール」と、「イシス神」を同一視する人もいる。

また「世界7不思議」の一つと言われた小アジアの「エフェソスのアルテミス(ダイアナ)の神殿」には、「太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミス(古くは先住民族の「地母神」)の、「黒い像」が描かれていたと伝えられている。


「シャルトル大聖堂」の「地下祭室」にあった「黒い聖母」も、「ドルイド教の大地の女神、豊穣なる大地、その母なる女神・デメテール」の信仰を受け継いだものでなかったか?


「黒い色」は、すべて「大地の女神」に結び付いているのである。

大地は、「暗黒の闇」から「生命」を生み出す根源なのである。


また、各地に存在する「黒い石崇拝」も、これと無縁ではない。

イスラム教の聖都・「メッカ」のモスクにも、「黒い石」が「聖石」として飾られている。

興味深い現象である。


「黒い石」は、錬金術的な意味も持っていた。

錬金術師たちの最初の重要な仕事は、万有還元能力があるとされた「仙石」を作りだすことであった。

そのためには、まずその第一の原料を集める必要があった。

この原料は重く、割れやすく、その上砕けやすい、石に似た「黒い物質」であり、簡単に手に入るものとされていた。

錬金術師たちは、この最初の原料を探すためには「地下に」、「金属を含有する鉱床」に行かねばならない。

ゴール地方の錬金術師たちは、「ドルイド教」の神官を兼ねていた。

彼らは、「見者」「識者」「魔法を使う博士」であった。

彼らの儀式や仕事のためには、しばしば「地下」や「洞窟」が選ばれた。

このことも、「黒い聖母」がシャルトル、クレルモン、ロカマドール、モンセラなどのように、「地下」
や「洞窟」がある場所に見出されるという事実と一致して面白い。


「黒い聖母」は、「物質界」から「精神界」へと、我々を導く役割が担わされていた。

「黒い聖母」は大地からあらゆるエネルギーを吸収し、それを「天上界」の力と結びつける。


「緑色」は、大地から生まれてくる植物の色であり、物質と精神という異なった両者に調和をもたらす色である。

その緑色が、「聖母」の衣の色として与えられる。(後に青となったという)

他方「赤」は、太陽の色であり、愛やエネルギーを生み出す。

それは救世主キリストの衣の色となる。

すなわち「黒い聖母」は、物質界の「黒」=「現世」と、精神界の「赤」=救世主キリストとを結びつける仲介者としての役割をもっていた、とされる。


アルルの公会議(452年)、ナントの公会議(658年)、トレドの公会議(681年)、さらにカール大帝によって公布された法令(789年)などは、繰り返し、「樹木・石・泉・井戸を崇拝すること」を禁じている。

この事実は、ゴール(フランス)の地がキリスト教化された以降も、根強く「ドルイド教」の信仰が残っていたことを物語っている。

これら土着の民間信仰との衝突をさけるため、これらの地の「聖母マリア」は、「土着の地母神」との一致が求められ、あえて黒く塗られたのではなかろうか?


12世紀ロマネスク美術において、なぜこのように多くの「聖母像」が表現されるようになったのか?

そしてそれは、すでに存在していた「聖母表現」のどのタイプに従ったのか?
という問題が残っている。

「神の母」としての「聖母マリア」の「神性」が認められたのは、431年、「エフェソスの宗教会議」においてであった。

それ以来、東ヨーロッパのビザンチン世界では、「聖母マリア」表現が増えていったが、その大部分は「幼児キリストを抱いた聖母子像」としてであった。


西欧における最初の「聖母子像」は、800年頃、「アイルランド写本」の中に現れている。

その後、12世紀ロマネスク美術と共に、独立した「木製聖母子像」が現れ、またたく間に西欧中に伝播していくのである。

12世紀に西欧に現れた「聖母像」のタイプは、「玉座のマドンナ」であった。

「黒い聖母像」も、このタイプに従っている。

それはまさにヨーロッパに「聖母マリア崇拝」が高まり、「聖母マリア(ノートルダム=フランス語で「我らの貴婦人」)」に捧げられた大聖堂が建てられ始めた時と対応しているのである。

そして「聖母の衣」を保持するシャルトル大聖堂自身も、ヨーロッパにおける「マリア崇拝」の中心地になっていったのである。

            (引用ここまで)

             *****

わたしは、このテーマの本を何冊も読んだのですが、ここにも書かれているように、あのカトリックのシンボルともされる「シャルトル大聖堂」においても、「黒い聖母子像」が崇拝の対象となっているということに、非常に驚き、間違いではないかと、何度も確かめました。

wikipedia「シャルトル大聖堂」


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