「マンダ教」について書かれた「グノーシス」の本をご紹介しましたが、マンダ教は「洗礼のヨハネを祖とする宗教」であるということから、ヨハネと原始キリスト教について、考えた本を読んでみました。
「キリストと黒いマリアの謎」清川理一郎氏著という本から、「洗礼者ヨハネとマンダ教の謎」という箇所をご紹介させていただきます。
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(引用ここから)
「イエスはヨハネから洗礼を受けなかった」と言ったら、読者はおそらく、そんなことはありえないとお思いであろう。
なぜなら、「新約聖書」の「マルコによる福音書」1・9に「その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマ(洗礼)をお受けになった」と明記されている。
また、「マタイによる福音書」3・15も、はっきりと、キリストがヨハネから受洗したことを記しているからである。
しかしながら、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」には、ヨハネによるキリストの受洗について、ヨハネあるいはキリスト、各片方しか、記されていない。
つまり、ヨハネが誰に洗礼をしたのか、またキリストが誰から洗礼を受けたのか、明確でないのである。
さらに、「ヨハネによる福音書」には、ヨハネによるキリストの受洗のことはまったく述べられていない。
「ヨハネによる福音書」には、洗礼者ヨハネ独特の事績を伝える記述が見えるが、〝ヨハネがキリストに洗礼を行った″という、最も重要なことは述べられていないのだ。
つまり、イエスがヨハネから洗礼を受けたという根拠は、「マルコによる福音書」と「マタイによる福音書」だけだということがわかる。
「ヨハネによる福音書」が書かれたのは、西暦100年頃で、「マルコ」「ルカ」「マタイ」の3つの共観福音書よりも新しい。
書いた人物は洗礼者ヨハネではなく、長老ヨハネと考えられる。
「ヨハネによる福音書」は、他の福音書と比べて、イエスと同時代の人々の伝承や、他の3福音書の著者が利用できなかった資料を使っているという特徴がある。
たとえば、「共観福音書」では、北部ガリラヤ地区でのイエスの活動に主な焦点が当てられており、南部のエルサレムの出来事は、メシアの受難も含めて、副次的にしか扱われていない。
これに対して「ヨハネによる福音書」は、ガリラヤについてはほとんど何も伝えておらず、イエスが生涯を終えたユダヤとエルサレムの出来事に集中している。
「ヨハネの福音書」のみに描かれている逸話がある。
それは「カナの婚礼」、「ニコデモの物語」、「ラザロの蘇り」などだ。
また逆に「ヨハネによる福音書」に書かれていない逸話は、前述の「洗礼者ヨハネによるキリストの受洗」である。
クリスファー・ナイトとロバート・ロマス共著の「封印のイエス」の中で、両著者は、
「「新約聖書」において、ヨハネがイエスに洗礼を施したというが、
それは、ギリシア世界の人々の心を捉えようとして、後の福音書の書記たちが、この出来事をより魔術的な意味を持つものに仕立て上げるために、意図的に強調したものである。
すなわち、ヨハネがイエスを洗礼したとか、ヨハネ一人だけがイエスを真の師と認めたという話は、マルコ達がねつ造した考えだ」と述べている。
「バプテスマ(洗礼)」の起源は定かでないが、おそらくメソポタミア古来の、川の流れや水による民俗宗教の「清めの儀式」が、そのルーツと思われる。
「マンダ教」は、「バプテスマ」を中心儀礼とする宗教で、現在もイラク南部に存在する。
「ユダヤ教」及び、紀元後すぐの「初期キリスト教」時代の「バプテスマ」はどのようなものだったのだろうか?
「旧約聖書」には、「バプテスマ」の記述は少ないが、「列王記2」5・14に、「アラム王がヨルダン川に、持病のライ病を治すために、身を浸した」と記されている。
一方、「新約聖書」には、ユダヤ教の流れを汲む洗礼者ヨハネの、「水によるバプテスマ」の記述がある。
それは「ヨハネはヨルダン川で洗礼を行った」というものだ(「マルコによる福音書」15・9)。
また「初期キリスト教」の時代には、「キリストの聖霊によるバプテスマ」がある。
洗礼のヨハネが「バプテスマ」を授けた時期と、キリストが「バプテスマ」を授けた時期は、ほぼ同時代とされている。
ヨハネの「水によるバプテスマ」は、自己の罪を悔い改め、罪などの不浄なものを水に流すことである。
他方キリストの「聖霊によるバプテスマ」について、「新約聖書」の「ローマ人への手紙」には、
・・・
それとも、あなた方は知らないのか?
キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、
彼の死にあずかるバプテスマを
受けたのである。
すなわち私たちは、その死にあずかるバプテスマによって、
彼と共に葬られたのである。
それはキリストが 父の栄光によって
死人の中から蘇えられたように、
私たちもまた、新しいいのちを生きるためである。
・・・
「コリント人への手紙」は、
・・・
なぜなら私たちは皆、
一つの霊によって、
一つの体となるように
バプテスマを受けた
・・・
と述べている。
上の二つの聖句から分かることは、キリストの十字架上の死とその後の復活にあずかるために受ける「洗礼」は、「キリストの聖霊によるバプテスマ」であり、それは聖霊によってキリストと一体化する、ということである。
このコンセプトは、後世に、ローマ・キリスト教の指導的教理となったアタナシウス派の「三位一体」思想が普及する以前の、「初期キリスト教」時代のものであり、この思想が後に「三位一体」思想に発展するのである。
ヨハネの洗礼とキリストの洗礼を見ると、それぞれのコンセプトの違いは、2つの異なる宗教の存在を示唆する。
つまり「初期キリスト教」の時代、「バプテスマ」をめぐる思想の違いから「ヨハネ教」と「キリスト教」という2つの異なった宗教が存在したのである。
わたしは「バプテスマ」のルーツは、「マンダ教」が生まれたシュメール・バビロニア系の宗教風土に求められると考える。
その理由は、「旧約聖書」には「バプテスマ」の記述が少なく、「キリストの聖霊によるバプテスマ」は、「バプテスマ」本来の「水によって行われる「洗礼のヨハネ」のもの」と、そのコンセプトが根本的に相違するからである。
洗礼者ヨハネは、確かに存在した。
しかしそれは、「初期キリスト教」とは全く違った宗教だった。
したがって、ヨハネはキリストの露払いなど行わなかった。
ヨハネは自分の「ヨハネ教」の布教をして、「水による洗礼」をしていたのである。
このように考えると、今まで信じられ、描かれてきたヨハネのプロフィールのかなりの内容に、大きな疑義が生じることは避けられない。
疑義の最大のものは、ヨハネとキリストとの超親密な関係だ。
これも後世のキリスト信奉者によるねつ造の可能性が極めて高い。
(引用ここまで)
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ちょっと分かりにくい文章なのですが、要点は以下のところだと思います。
・・・
>つまり「初期キリスト教」の時代、「バプテスマ」をめぐる思想の違いから「ヨハネ教」と「キリスト教」という2つの異なった宗教が存在したのである。
わたしは「バプテスマ」のルーツは、「マンダ教」が生まれたシュメール・バビロニア系の宗教風土に求められると考える。
その理由は、「旧約聖書」には「バプテスマ」の記述が少なく、「キリストの聖霊によるバプテスマ」は、「バプテスマ」本来の「水によって行われる「洗礼のヨハネ」のもの」と、そのコンセプトが根本的に相違するからである。
・・・
普通、ヨルダン川の洗礼のヨハネは、イエスに洗礼を授けた人で、かつ、イエスの前にへりくだった態度で、自分のことを「主の道を整える者」と言っている人だと考えますが、
また、「外典福音書」を見ると、初期キリスト教は、濃厚にグノーシス的な背景を持ち、ヨハネ教団の影響が考えられる、と考えますが、
また、「聖霊によるバプテスマ」は、「水によるバプテスマ」からの比喩であろう、と考えますが、
著者・清川氏は、異説を唱えておられます。
本のタイトルは「キリストと黒いマリアの謎」で、「黒いマリア」の「黒」と、「マンダ教」がるると述べる「この世の闇と黒い水」の「黒」が、キーワードとなって、話が進められます。
奇譚かと思うと、そうでもなく、これはたいへん壮大なテーマであり、非常に興味深いものがあります。
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