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生きなければならないとすれば、それは重すぎる・・ユング派療法家樋口和彦氏のことば

2012-05-17 | メディテーション


「日本トランスパーソナル学会講演集」という本に収録されていたユング派心理療法家・樋口和彦氏のお話を紹介させていただきます。

「錬金術と心理療法」というタイトルのお話で、心の世界の深いところに沈んでゆく筆者の魂の冒険が語られています。

そしてその冒険は、愛によってなされなければならない、と筆者は語っています。


人生は、生きなければならないとしたら、それは重すぎる、という言葉が、心にしみました。

寄り添い、受け入れてくれる、ただ一言でいいから、心に添ったことばがあれば、人は生きられるのだと思いました。

読んでいると、この人の気配が部屋の中に満ちて、わたしは涙が流れました。




         *****


      (引用ここから)


錬金術と心理療法は、冥さ(くらさ)を扱うところが似ています。

そしてまたミクロコスモスを扱うというところも似ています。

コスモスにはマクロコスモスとミクロコスモスがあります。

近代というこの社会は、我々の外側に広がるところの無限の広がりと思われるような外界(マクロコスモス)を重視して、ずっと探検することにこの400年慣れてきました。

コロンブスが出発したポルトガルのリスボンの港の岬に立ってみると、確かに東洋はずっとむこうの海原の果てに広がっているように見えます。

そして港の後ろの丘には壮大な建築物があり、海のむこうの世界から奪ってきた富でそれらは出来ています。

確かに外側に展開する世界は大きい、すばらしい世界です。

コロンブスが発見した新大陸もそうです。

文明がカリフォルニアに行くまでは、無限の大きさ、無現の富があるように思われました。


しかし、カリフォルニアに到達したときに、またベトナム戦争が起きたときに、一体アメリカの若者たちはなにをしたか?

そのとき彼らは、外側に広がるところのアメリカではなく、「わが内なる汚れたアメリカ」を探求し始めたのです。

ある者は「内側」に行こうとし、ある者は「東洋の知恵」を借りようとしました。

自分の内的世界(マクロコスモス)を探ろうと努力していたわけです。

そして自分の中にそれを見た時、外側と同じ比重と広さをもった世界がそこに開けていることを発見したのです。


われわれの心の中には、語っても語り尽くせない何かがあると思うのです。

そして大切なことは、最初に言葉よりも深いところからまずイメージが出てくるということです。


道端で、誰にもみつからずにある石。 。


本当の錬金術師というのは、石を選ばず、どの石の中にも「金」はあるのだと考えている。

そして「金」自身はその石の中から“救出”されることを願っている。


ディズニーの白雪姫の中に、老人の小人がたくさん出てきますが、あれは鉱山の石を探す小人で、「ハイホー、ハイホー」と言って、並んでやっています。

あれはなにをやっているのかというと、地中に閉じ込められたところの鉱石や宝石や金属を探しているのです。

昔は鉱山師というのは山師でしたから、スピリットの居そうな所をずっと巡り、岩の裂け目から“救出”されたがっている鉱石の声を聞くのです。

とんとんと叩いてみて、その音を聴く。

そうすると、ここにダイヤモンドがある、ここに何々があるというふうに分かるのです。


錬金術師は実験室を持ちますが、外見の立派な場所でなくてもいいのです。

その人の心の中に、他人の心を入れる場所があればいい。

その場所の中に入った時、その人はなんでも言えるし、自分の秘密を共有できる。

そしてなによりもそこでセキュリティ(安全)が得られるということでしょう。


安心して持続的に安定した人間関係が持てる自由な空間です。

そして、そこの中に入っていられる。


そしてそこで焚かれるのが「愛」という火です。

実はこの火の焚き方が難しいのです。

セラピストの一番大切なことはこの火の焚き方です。

「よし、俺は今分析家の資格を取ったばかりだ。一生懸命やる。」

と言ってゴ―と火を焚いたら、相手は焼け死んでしまいます。


この火はまた、持続的な火でもなければいけません。


ギリシア人たちは、魂には故郷があると考えた。

所属すべき場所があり、帰るべき場所があり、源泉があると。

それがアルケー、つまり始原の、最初の所です。


青年のアレキサンダー大王は、これを求めて遠い旅をしたわけです。

しかし彼は行けども行けども途上人、最後まで道の上の人でした。

彼はある土地にいても、そこは自分が本当に所属すべき場所ではないと思う。

また次に行く。

そして道の上で死ぬわけです。


いつも青年というのは、ある意味ではそうです。

自分の心というのはどこに所属しているのか、ということを考えているのです。

だから自己を訪ねて旅に出る。

自分の魂が所属している所を尋ね、探し出すまで歩き続けてしまうのです。


では分析というのは、最後はどう完成させればいいのか。

いろいろな目標があります。

ユングはそれを「個性化過程」という一つの語で表現しました。

つまりプロセスであって、自分は故郷に来たかと思うと、また向こう側に山があったというような、彼はむしろそのプロセスの方が大切だと言いました。


わたしはいつも思う事があります。

それは自分を導くイメージの事です。

自分が作りだしたイメージの中に入った時に、いつも私がはっと思うのは、こういうふうに自分に旅をさせているのは何か、ということです。

そのイメージは自分が作り出したり、所有したりしたのではなくて、もっと大きなイメージの中で、自分は今まで生かされてきたのだということです。

現代人は、魂というのは自分で所有できる何か、あるいは自分が勝手にできる何かだと思っているのですが、それは誤りです。

人間は勝手に自分で夢を見られると思っている。

しかし夢を見ても、その夢は誰の所有でもありません。

そしてやがてこれは自分が所有しているのではない、より大きな魂の中に日々生かされているのだということ分かってくるのです。


私は人生というのは、「生きなければならない何か」であるとするならば、それは重すぎると思います。


幸福に見える人でもそうです。

わたしが言いたいのは、もっと大きなものの中で、自分は許されて生きているのだと知ったときに、人は生きられるのではないか、ということです。

人生は生きるべき何かではなくて、生きることが許されている何かである、というのが今の私の実感です。

つまり、この宇宙の中で自分はその一部として支えられていることを感じるようになる瞬間がありますが、

これが「現代の錬金術」ではないかと、私は今、密かに思っているのです。


錬金術師はいろいろな小道具を使いました。

火のお話、、実は愛情というのは「火」であるというお話をしました。


このような「火」を使うときに、彼らはフイゴを使いました。

要するに錬金術師は昔の加治屋さんなのです。


心理療法家もどこかにフイゴを持っていて、時に風を送り、煽るわけです。

アジテーションというのは錬金術師の一つの術なのです。

政治家なんかがよく使うのは、真実は少しで空気がたくさんある。

で、吹くことによってプロセスを加速させていく。

自然の速度に加速度を加えることなのです。


どうしてもその方が生きる意欲を失って、どんどんか細くなっておちこんでいる、という時には、このフイゴをある程度吹かないといけません。

本当に危ない時に「あなたは危ない」、と言ったら、本当に死んでしまいますから、

「あなたは大丈夫、あなた天才みたい。フー、フー」と吹かす。

真実という塩と、硫黄のような能動的で可燃性のあるものを混合するか、、その調合は難しいもの
です。

水銀は反対に、受動的で揮発性を持ちますから、これまた使い方が難しい。

つまり、硫黄と塩と水銀という3つの要素を頭にイメージとして描きながらやっていきます。


錬金術の作業の過程は、いろいろな色の段階を通っていく。

最初は黒の段階。それから白の段階、そして茶色の段階もあります。

次が赤で、最終的に金の段階を通っていく。


その色のシンボリズムは非常に大切になってきます。

錬金術師の使った色というのは、自然の色ですし、それはわれわれにとって無限の意味を投げかけてくるものなのです。

夢の中の色、それから話して下さるトーン(色調)というのも、大変重要です。


         (引用ここまで)


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