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火祭りは、たたらの火か?・・天狗が荒れるお燈祭り(熊野・5)

2010-02-21 | 日本の不思議(古代)
熊野の壮大な火祭り「お燈祭(おとうまつり)」が行われるのは、熊野速玉大社の摂社である神倉神社です。

神倉神社はたいへん古い神社で、熊野三山の中で最も古い神社だということです。
Wikipediaには次のようにまとめられています。

*****

神倉神社

創建

神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。

『古事記』『日本書紀』によれば、神倉神社は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。

このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏(ヤタガラス)の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

熊野信仰が盛んになると、熊野坐神が諸国を遍歴した末に、阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとされるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。

この記述に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院とも称された。

また、熊野速玉大社の運営にあたった修験者の集団・神倉聖(かんのくらひじり)が本拠地としたのもこの神社である。


境内

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られており、この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土している。

この経塚のさらに下層の地層からは、銅鐸片や滑石製模造品が出土している。

立地と出土品の様式から、経塚築造の際に銅鐸が破壊されたものと考えられることから、神倉神社の起源は、磐座信仰から発した原始的な自然信仰だと考えられている。

そうした自然信仰のかたちを現在に伝えるとともに、熊野信仰の最も古い層に関係しているという点で貴重な神社である。

現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いである。

御朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っている。
御朱印には「熊野三山元宮」と記載されている。



*****


この神倉神社の火祭りについて、澤村経夫氏の「熊野の謎と伝説」に貴重な一文がありました。
以下抜粋して引用します。


*****


(引用ここから)

熊野地方史研究会発行の「熊野誌」にあった報告。
神倉神社のお灯祭りのすでに断絶した伝承として、明治2,3年ごろの話として収録されたもの。

聖さまを知る人により書かれた「火をきる聖」と「天狗が荒れる」からの引用。


・・・・・


聖さまは49日の間、山にこもり、水だけを飲んで断食し、満願の日が「お灯祭」の日であった。

へとへとになった聖さまは、社家衆(シャケシ)の方にささえられて、清水の湧く谷におりて、赤土でにごった水を飲んだ。

こうして生き返った聖さまは、神倉神社の参道の途中にある「中の地蔵」というお堂の中で、古式によって火をきった。

火をおこしたのである。


お堂の前の薪火にその火が移されると、鐘が鳴り、それを合図に山の下の大鳥居の前に待っていた「上り子」たちは、どっと駆け上がり、その聖火を自分の松明に移し、山頂のゴトビキ磐の拝殿の中に閉じこもる。


「上がり子」たちは松明を差し上げたまま全部、この籠りお堂の中に押し込められた。

シャケシが大とびらを閉める。

とたんにそれまで夜空をこがしていた松明の光が消えて、神倉山は黒一色につつまれる。


突然、全山を揺るがす大音響がとどろく。

雷鳴か、落雷か、籠り堂の「上がり子」も山麓の見物衆も一瞬恐怖におそわれて、シーンとなる。

その轟音は初野地辺まで聞こえた。

・・・


天狗様が荒れる。

この怪音の秘密は、地蔵堂の中にある。

その中には一体三面の異形の三面大黒が安置されていた。
聖さま以外の誰も拝んだことがない。


天狗は現代の私たちから見れば、想像の産物であるけれど、昔の新宮の人たちにとっては、「天狗荒れ」は恐怖の大音響であった。

今日ではこの「お灯祭り」は毎年2月6日、速玉大社の前を、鉾を先頭に、御幣、宮司、祭員と、神倉山に行列で進むが、その中に長さ一間半の迎火松明を持っている者と、「まさかり」をもった者がいる。

この「まさかり」は、鍛冶神としての高倉下命を示している貴重な一つの証拠である。

行列は神倉神社に着き、神前で斎火を迎火松明につけて中の地蔵に下り、そこで待つ「上がり子」の松明に火が着けられる。

「上がり子」たちは、神倉神社の門内に登って、閉じ込められ、介錯(かいしゃく)人の手で門が開けられる。

松明を手にした「上がり子」たちは、いっせいに石段をかけおりて、火の竜となるのである。


神倉山の「お灯祭り」は49日前の聖さまの断食から始まっているのであるが、その神事の中心は「火をきる」ことにある。

松明をつけた「上がり子」が駆け下りる「お灯祭り」のクライマックスは聖火を家に持ち帰るための行事にすぎない。

(引用ここまで)


*****


この本の著者は、熊野の火祭りの“火“は、太陽信仰というよりは、古代の製鉄技術と関連があると考えています。

そして熊野の歴史全体を、製鉄という火起こしの技術を持った者の系譜として考えています。

天狗が荒れる山であったという神倉山。

太陽と火と鉄と、、熊野の地が秘める途方もなくプリミティブなエネルギーが噴き出しているように思います。

澤村氏の「火=たたらの火」説を、もう少し見てみたいと思います。

また


>天狗は現代の私たちから見れば、想像の産物であるけれど、昔の熊野新宮の人たちにとっては、「天狗荒れ」は恐怖の大音響であった。

といった描写は、わたしが感じるホピ族のありようととても近いものです。

いろいろな観点から、熊野の地の習俗は大変興味深く思えます。



和銅博物館HP たたらの話
http://www.wakou-museum.gr.jp/tetsu1.html


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「ワタリガラス」
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「熊野」などで、関連記事があります。(重複あり)


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