出羽弘明氏の「新羅の神々と古代日本・新羅神社の語る世界」を読んで、朝鮮半島と日本のつながりを考えています。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
長い引用になってきましたが、次の描写もとても印象的で、ご紹介したく思いました。
*****
(引用ここから)
九州・福岡の博多湾の南、糸島半島とその背後地には産火火出身命とその一族を祀る神社が集まっているので、このあたりに伊都国の王国があったのであろう。
日向峠の入り口に案内板がある。
「これより伊都国・日向峠。
この峠は北西の平原遺跡によって1800年前(弥生時代)からの古代名を持つ、日本神話を伝承する土地と考えられています。
この峠から南西に韓国山、北西に櫛触山、その先に高祖山といった神話の山山が連なります。」
日向峠からははるか先に玄界灘に連なる海まで見える。
まさにこの地は古代神話のいわゆる高千穂の峰であるように思われる。
「日本書紀・古事記」の天孫降臨のくだりには、
「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天振りましき。
この地は韓国に向かい、かささの御前(みさき)にまきとおりて、朝日のただす国、夕日の日照る国なり。
ゆえ、この地はいとよき地とのたまわりたまいて、、」
とある。
日向峠は、まさにその地である。
ここにある韓国とは、もちろん南朝鮮のことであり、そこが天孫族の郷里である。
したがって天孫族である南朝鮮の半島の人々、特に新羅、加羅、加耶などの人々が早くから北九州に渡来して、新しい居住地である高千穂の峰に自分たちの郷里の山山の名を付けたのであろう。
おそらく、南朝鮮の新羅や加羅国などを中心にして、渡来の人々が高祖山とその山麓に王国を築き、鏡、剣、玉を宝器とする弥生文化が展開されたであろう。
(引用ここまで・続く)
*****
梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみたところ、この「日向神話」について述べたところがありましたので、こちらも紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「古事記」・「日本書紀」の神話は「高天原神話」、「出雲神話」、「日向神話」の三つの神話から成り立っている。
「高天原神話」は天でおこった話であるから確かめようがないが、「出雲神話」と「日向神話」は出雲や日向でおこった話であり、その神話の跡を訪ねることができる。
特に「日向神話」は、アマテラスの孫「ニニギ」が日向の高千穂に降臨して以来、三代を経て、ひ孫の神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。
いわば「日向神話」は、歴史時代に近い神話である。
わたしは平成11年に約一ヶ月間、日向の旅をすることにした。
「古事記」「日本書紀」において、「ニニギ」から神武天皇まで四代の天皇家の祖先が活躍した日向を訪ね、遺跡が多く残っていることに驚いたのである。
しかもそれらの遺跡は、神話そのものをそのまま表すような遺跡ではない。
そのような遺跡ならば、神話が作られた後にその遺跡が作られたとも考えられる。
しかし、それらは中央の歴史書にこそ書かれていないが、間接的にその神話が事実に基づいていることを示す遺跡であった。
(引用ここまで)
*****
同じ「筑紫の日向の高千穂」の風景を見て、同じ文献に当たって、
出羽氏は「日向に降り立った朝鮮から来た人々」の姿をありありと目の当たりにし、梅原氏ははっきりそうとは言明していないことも、興味深い相違であると思います。
梅原猛氏の同書「葬られた王朝」については、また改めて取り上げたいと思っていますが、梅原氏も、「日向神話」は事実に違いないという考えであることに触れておきたいと思いました。
梅原氏の同書は、「出雲神話」についての大著であり、また「古事記」や「日本書紀」の分析が大変わかりやすいことは確かだと思います。
同書の「日向神話」に関する記述をもう一箇所、少し紹介させていただきます。
*****
(引用ここから)
神武天皇は南九州において、土着の豪族の娘と思われる女性との間に二人の子どもをもうけた。
神武天皇はこの二皇子を東征に同道させていたようであるが、このような南九州の土豪の娘を皇后とするわけにはいかない。
政権を安定させるにはやはり旧オオクニヌシ政権と縁のある女性を皇后としなければならない。
そこで大伴氏と共に朝廷の軍事を司った者が探し出した女性が、三輪山のオオモノヌシの娘であり、彼女は三人の皇子をもうけた。
神武天皇が亡くなった時、継子であるタギシミミがその三人の弟を殺そうとした。
しかし三皇子の一人カムヌナカワが、タギシミミを殺した。
おそらく神武天皇の跡を継ぐ第二代の天皇に、日向の豪族の血をもつ皇子が就くことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。
明らかに出雲王朝の血をもつ皇子が第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのであろう。
(引用ここまで)
*****
もう一箇所、「古事記」などは歴史を偽造しているという津田左右吉の説に反論している部分を、梅原氏の同書から引用します。
*****
(引用ここから)
天皇家の神聖を示すためには、天皇家はずっと昔からヤマトにいたという方がより説得力をもつはずである。
天皇家の祖先が南九州の片田舎から出てきて、夷荻として軽蔑された「隼人(はやと)」の血が入ってくるような神話をわざわざ偽造する必要があろうか。
天皇家が南九州からでてきたことが事実であるから、ヤマト朝廷もそれを否定することができなかったと考えるのがごく自然である。
(引用ここまで)
*****
アマテラス・神武天皇一族は九州の「日向」の土着の豪族であり、九州からヤマトにやってきた。。
彼らは朝鮮から九州の「日向」にやってきて土着した人々である可能性も高いけれど、
彼らがヤマトに政権を打ち立てた時、その血は出雲系の母方の血で、半分に薄まった、ということでしょうか。
しかし、スサノオも朝鮮からやってきたという前出の「日本書紀」の記述を考えると、出雲族も渡来民であるので、日本の国造りを行ったのは渡来人ばかりとなり、やはり、日本という国の独自性とはどこにあるのか分からないという結論になるのでしょうか。
Wikipedia「天孫降臨」より
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話である。
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
降った場所については日本書紀に、ソホリ、二上の山等の記述もある。また、日向はヒムカと読み日向国とした記述はない。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの祖神である。
天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。
それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である「高千穂峰」と、宮崎県高千穂町の双方で、古くから天孫降臨の言い伝えがある。
ただ、高千穂峰の場合は山の名称だけで付近に「高千穂」の地名が無いため、「宮崎県高千穂町の周辺が正しい」とする意見もあるが、どちらの場所を比定しているのかは不明である。
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日本書紀 14件
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などあります。(重複しています)
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長い引用になってきましたが、次の描写もとても印象的で、ご紹介したく思いました。
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(引用ここから)
九州・福岡の博多湾の南、糸島半島とその背後地には産火火出身命とその一族を祀る神社が集まっているので、このあたりに伊都国の王国があったのであろう。
日向峠の入り口に案内板がある。
「これより伊都国・日向峠。
この峠は北西の平原遺跡によって1800年前(弥生時代)からの古代名を持つ、日本神話を伝承する土地と考えられています。
この峠から南西に韓国山、北西に櫛触山、その先に高祖山といった神話の山山が連なります。」
日向峠からははるか先に玄界灘に連なる海まで見える。
まさにこの地は古代神話のいわゆる高千穂の峰であるように思われる。
「日本書紀・古事記」の天孫降臨のくだりには、
「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天振りましき。
この地は韓国に向かい、かささの御前(みさき)にまきとおりて、朝日のただす国、夕日の日照る国なり。
ゆえ、この地はいとよき地とのたまわりたまいて、、」
とある。
日向峠は、まさにその地である。
ここにある韓国とは、もちろん南朝鮮のことであり、そこが天孫族の郷里である。
したがって天孫族である南朝鮮の半島の人々、特に新羅、加羅、加耶などの人々が早くから北九州に渡来して、新しい居住地である高千穂の峰に自分たちの郷里の山山の名を付けたのであろう。
おそらく、南朝鮮の新羅や加羅国などを中心にして、渡来の人々が高祖山とその山麓に王国を築き、鏡、剣、玉を宝器とする弥生文化が展開されたであろう。
(引用ここまで・続く)
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梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみたところ、この「日向神話」について述べたところがありましたので、こちらも紹介させていただきます。
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(引用ここから)
「古事記」・「日本書紀」の神話は「高天原神話」、「出雲神話」、「日向神話」の三つの神話から成り立っている。
「高天原神話」は天でおこった話であるから確かめようがないが、「出雲神話」と「日向神話」は出雲や日向でおこった話であり、その神話の跡を訪ねることができる。
特に「日向神話」は、アマテラスの孫「ニニギ」が日向の高千穂に降臨して以来、三代を経て、ひ孫の神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。
いわば「日向神話」は、歴史時代に近い神話である。
わたしは平成11年に約一ヶ月間、日向の旅をすることにした。
「古事記」「日本書紀」において、「ニニギ」から神武天皇まで四代の天皇家の祖先が活躍した日向を訪ね、遺跡が多く残っていることに驚いたのである。
しかもそれらの遺跡は、神話そのものをそのまま表すような遺跡ではない。
そのような遺跡ならば、神話が作られた後にその遺跡が作られたとも考えられる。
しかし、それらは中央の歴史書にこそ書かれていないが、間接的にその神話が事実に基づいていることを示す遺跡であった。
(引用ここまで)
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同じ「筑紫の日向の高千穂」の風景を見て、同じ文献に当たって、
出羽氏は「日向に降り立った朝鮮から来た人々」の姿をありありと目の当たりにし、梅原氏ははっきりそうとは言明していないことも、興味深い相違であると思います。
梅原猛氏の同書「葬られた王朝」については、また改めて取り上げたいと思っていますが、梅原氏も、「日向神話」は事実に違いないという考えであることに触れておきたいと思いました。
梅原氏の同書は、「出雲神話」についての大著であり、また「古事記」や「日本書紀」の分析が大変わかりやすいことは確かだと思います。
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神武天皇は南九州において、土着の豪族の娘と思われる女性との間に二人の子どもをもうけた。
神武天皇はこの二皇子を東征に同道させていたようであるが、このような南九州の土豪の娘を皇后とするわけにはいかない。
政権を安定させるにはやはり旧オオクニヌシ政権と縁のある女性を皇后としなければならない。
そこで大伴氏と共に朝廷の軍事を司った者が探し出した女性が、三輪山のオオモノヌシの娘であり、彼女は三人の皇子をもうけた。
神武天皇が亡くなった時、継子であるタギシミミがその三人の弟を殺そうとした。
しかし三皇子の一人カムヌナカワが、タギシミミを殺した。
おそらく神武天皇の跡を継ぐ第二代の天皇に、日向の豪族の血をもつ皇子が就くことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。
明らかに出雲王朝の血をもつ皇子が第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのであろう。
(引用ここまで)
*****
もう一箇所、「古事記」などは歴史を偽造しているという津田左右吉の説に反論している部分を、梅原氏の同書から引用します。
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(引用ここから)
天皇家の神聖を示すためには、天皇家はずっと昔からヤマトにいたという方がより説得力をもつはずである。
天皇家の祖先が南九州の片田舎から出てきて、夷荻として軽蔑された「隼人(はやと)」の血が入ってくるような神話をわざわざ偽造する必要があろうか。
天皇家が南九州からでてきたことが事実であるから、ヤマト朝廷もそれを否定することができなかったと考えるのがごく自然である。
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アマテラス・神武天皇一族は九州の「日向」の土着の豪族であり、九州からヤマトにやってきた。。
彼らは朝鮮から九州の「日向」にやってきて土着した人々である可能性も高いけれど、
彼らがヤマトに政権を打ち立てた時、その血は出雲系の母方の血で、半分に薄まった、ということでしょうか。
しかし、スサノオも朝鮮からやってきたという前出の「日本書紀」の記述を考えると、出雲族も渡来民であるので、日本の国造りを行ったのは渡来人ばかりとなり、やはり、日本という国の独自性とはどこにあるのか分からないという結論になるのでしょうか。
Wikipedia「天孫降臨」より
天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話である。
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
降った場所については日本書紀に、ソホリ、二上の山等の記述もある。また、日向はヒムカと読み日向国とした記述はない。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの祖神である。
天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。
それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である「高千穂峰」と、宮崎県高千穂町の双方で、古くから天孫降臨の言い伝えがある。
ただ、高千穂峰の場合は山の名称だけで付近に「高千穂」の地名が無いため、「宮崎県高千穂町の周辺が正しい」とする意見もあるが、どちらの場所を比定しているのかは不明である。
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