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最古の稲作の血の儀礼跡・・「長江文明の探求」(2)

2013-02-10 | その他先史文明

引き続き、梅原猛・安田喜憲氏共著の「長江文明の探求」を紹介します。

今度は安田喜憲氏という環境考古学者の文章です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)


最古の稲作儀礼

城頭山遺跡の城内に設けられた水田と祭壇は、稲作の豊穣を祈る農耕儀礼と深く関わっているとみなされる。

当然本来の生産用の水田は城外にあり、この城内の水田は何らかの儀礼用であったとみなされる。

しかも大量の稲モミのプラントオパールが検出されたことから、稲モミに関わる祭祀が行われていたのではないかとみなされる。

その儀礼は、現在の日本各地に残る稲モミや稲穂に関わる祭祀から推定すれば、翌年の種モミを収穫し、分配する儀礼であった可能性が高い。


牛の下あご骨が、人骨と同時に埋葬されていること、

サイの骨には焼けた跡があること、

また日本の弥生時代においても聖獣とみなされた鹿の仲間が人骨の上部から発見されることなどから、

これらの動物は稲作農耕儀礼に捧げられた生贄ではなかったかとみなされる。


またサイの骨と一緒に大量の炭化米も発見されたことから、動物の霊力とともに稲魂を送るという、

今日において雲南省や日本各地の民族事例で見られるような、稲魂の儀礼の原初的なものが行われていたのではないかとみなされる。

「播磨国風土記」などには、生きた鹿の血を稲の種モミにかけて豊穣を祈ることが書かれ、さらに東南アジアやインドにおいては、現在においてもこうした稲作儀礼は広く認められている。


今回発見された城頭山遺跡の断層はそうした最古の稲作の血の儀礼を行った祭壇ではなかったかとみなされる。

稲の種籾に鹿類や牛類の血を塗ったり、あるいは血に漬けたりすることによって、豊穣を祈り、稲魂を送ったのではあるまいか。

人と牛やキバノロ(鹿の一種」を一緒に埋葬して豊穣を祈ったのではあるまいか。


これまでこうした血の儀礼の起源は東南アジアとみなされていたが、やはり最古の稲作の起源地である長江中流域において、すでに6000年以上前から存在していたのである。

さらにそれはまた日本の新嘗祭の原型にあたるものではないかとみなされ、日本文化の源流を考える上でも見過ごすことのできない画期的な発見である。


               (引用ここまで)

         
                 *****



wikipedia「大嘗祭」より

本祭の儀式

祭の当夜、天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御し、小忌御湯(おみのおゆ)で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿(ゆきでん:千木は伊勢神宮外宮と同じ外削ぎ)に入る。

悠紀殿には、南枕に布団(衾)が敷いてあり、沓と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。布団に置いてある枕の名は坂枕(さかまくら:逆枕の意味か?)という。

この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない。

悠紀殿では、神饌を神に供し、告文を奏して神と直会(なおらい)、つまり神に献じた神饌を、天皇親ら(みずから)聞こし召す(食べる)のである。

廻立殿に戻り、次いで主基殿(千木は伊勢神宮内宮と同じ内削ぎ)に入り、悠紀殿と同じことを行う。



wikipedia「播磨国風土記』」より

讃容の郡 

 玉津日女命が、鹿の腹を割き、その血に稲をひたして蒔いた。

一夜で苗が生じたので、ただちにこれを取って植えさせた。




思わず、ほぉ~、と言ってしまうような、大変興味深い論考だと思います。

以前調べた諏訪大社のご神事のことを思い出しました。

諏訪大社のご神事では、神だなに鹿の生首をたくさんお供えしている様子に、大変驚きました。

その時には、その風習はイスラエル伝来のものだとする説もあったことを思い出しました。

しかしこのような、生血を用いる祭祀というような、グロテスクでエネルギッシュな祭祀こそが、意外にも、東アジア本来の、純日本的な、日本の基層文化なのかもしれません。



wikipedia「諏訪大社 諏訪大社上社 年間祭事一覧」より

蛙狩神事

元日の朝に上社本宮で行われる神事。

まず御手洗川の川底を掘り返し、蛙を捕らえる。

その後拝殿正面にて矢を以てこの蛙を射抜き、生贄として神前に捧げ、宮司が祝詞を捧げ国家平安と五穀豊饒を祈願する。

蛙を供えるのは、諏訪大社の本来の祭神が、蛇神とされるソソウ神や、諏訪地方ではソソウ神と同一視されやはり蛇神とされたミシャグジ神であったとされ、蛇神に捧げる(蛇は蛙が好物)意味があるとされる。

御頭祭

4月15日に上社で行われる祭。

別名「酉の祭り」「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」「大立増之御頭」と言われている。

現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている。

また諏訪大社七不思議の1つとして「耳裂鹿」というものがある。

これは生贄の鹿の中で、必ず耳が大きく裂けた鹿がいるというものであるという。

御射山祭 (みさやまさい)

上社の狩猟神事。

中世には年4回八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く5日間続いた。

青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。

鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという。

またこの祭の起こりとして、南北朝時代の神道集『諏訪大明神秋山祭のこと』では、 「平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため信濃まで来た際、諏訪明神が一人の騎馬武者に化身して軍を先導し、蝦夷の首領悪事の高丸を射落としたので田村将軍がとどめを刺すことが出来た。

将軍がこの神恩に報いるため悪事の高丸を討ち取った日を狩猟神事の日と定め、御射山祭の始めとなった。

この縁日(旧暦7月27日)になると討ち取られた高丸の怨霊が嵐を起こすといわれる」 という伝説を伝えている。

現在はこの祭はずっと小規模になっている。


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