始まりに向かって

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神はあらゆる方法で浄化をおこなう・・Oshoの「アカップオブティー」

2008-10-29 | メディテーション

1962~1971年にoshoから弟子と友人たちに向けて送られた書簡集より。
十字架としての愛、、感慨深いものがあります。。

       ***


Love

神はあらゆる方法で浄化をおこなう
浄化のために火をくぐらなければならないのは黄金だけではない
人間も同じこと・・
人間にとってこの火は愛の苦悩だ
ひとりの人間の生にこの火が入ってきたとき
それはひとつの祝福だと言える
それは数限りない祈りの成果
数かぎりない誕生の成果なのだ
強烈な渇きが最後には愛と化す
だが不幸なことに、それを歓迎できるものは数少ない
苦悩という形をとった愛を認識できるものは少ないからだ

愛は玉座ではない
それは十字架だ
しかし、喜んでおのれをその十字架にかける者は
まさに最高の玉座に達することができる
十字架は目に見える
が、その玉座は目に見えない
それはつねに十字架のうしろに隠されている
そして、イエスでさえこう叫んだ
「父よ、なぜわたしを見捨てたもうたのですか?」
しかし、次の瞬間
彼は思い直して言った
「御心のままに」と
それで充分だった
十字架は玉座となり
そして死が新生となった
最初の言葉と次の言葉にはさまれた革命の瞬間に
キリストがイエスのなかに降臨したのだ

あなたの苦しみは激しく、新生は間近い
喜びなさい
感謝するがいい
死を恐れないこと
ありがたく思うのだ
それは新生の吉報だ
新しきものが生まれるためには古きものが死ななければならない
花が咲くためには種子は壊れねばならないのだ

         「ア カップ オブ ティー140」



Love

われわれ(ひとびと)は自分たち自身に向かってひざまずく
というのも、われわれ(ひとびと)は
自分たちの経験や欲望や夢の数々から
あるいは、いわゆる論理や愚かしい議論の数々から
自分たちで創り上げた神々に向かってひざまずいているからだ
こんなものは謙遜でもなければ、祈りでもない
反対に、ありうべきもっともエゴイスティックな態度だろう
真の宗教心とはただひざまずくことを言う
誰に向かってでも、特別どんな像に向かってでもなく・・・
こうしてひざまずくことは
そのひとの全面的な「無」の開花以外の何ものでもない
そうしたとき、ひざまずくことは内なる生き方となる
そして、祈りがそうしたものでないかぎり
それは祈りとは言えない
人は祈ることはできない
祈りに満ちてあることができるだけだ
     
       「ア カップ オブ ティー・276」




Love

生はひとつの垂訓だ
存在はそれ独自の説法をする
ただし、いつも婉曲に・・
そして、それがその美しさなのだ

自然の調和は
いかなる意図もなく
生における均整を教えてくれる
翼をひろげた鳥をみてごらん
あなたは努力しないでも瞑想のなかに入ってゆけるだろう
あるいはその鳥の歌声を聞いてもいい
すると、あなたのハートは
どんな動機もなしにその声といっしょに舞い上がるだろう
そして、あなたの側になんの努力もないとき
瞑想は深まり、忽然としてあなたを変容させる
そして、そこになんの動機もなしにあなたが動くとき
その動きは聖なるもののなかにある

        「ア カップ オブ ティー・268」





Love

あなたはわたしの声が聞こえるだろうか?
わたしの姿が見えるだろうか?
わたしは戸口に立って、ノックしている
それはいつか別な時代、いつか別な生でした約束のためなのだ
       
        「ア カップ オブ ティー・296」
 
   

         ***
コメント (2)
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