始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ふつうのこと・・ふつうの唄を聞ける暮らしへの雑感

2008-10-08 | 心理学と日々の想い



山根麻以さんの「ふつうの唄」、いいですね。

老人ホームに暮らす母の歯茎がやせて、入れ歯がうまく合わなくなってきた。
口の中の入れ歯がうまくはまらないというのは、想像の外やっかいなことのようで、
口をあけると歯が落ちてくるので、食べることも話すこともすっかり難儀になってしまったようだ。

だんだん口数が少なくなって、姿はまた少し小さくなった。

吸飲み(すいのみ)で牛乳を飲ませてあげながら、あぁお母さんは赤ちゃんになっちゃったんだ、、と思った。

飲み込みが困難なので、生まれたての赤ちゃんの方がずっと上手だ。

かつてお母さんの乳房からお乳を飲んだであろう自分を思った。

十数年前わたしの乳房からお乳を飲んだわたしの子ども達のことも思った。

母とわたしとこどもたちと、まだ見ぬ彼らのこどもたちと。。

たくさんの顔が流れるように現れて消えていった。

だれかの子どもになり、だれかの親になり、年老いて、土にかえり、、それからまた、
その土の上に生まれて、だれかに育てられ、だれかを育てて、土にかえる。。

わたしが今生きているのは、そんな生なんだ、と改めてもう一度思い直した。



先日新聞に上のお子様を亡くされた小学生のお母さんの投書があった。

「娘が亡くなってから、小学校は苦手な場所だった。
痛々しい娘の姿を思い出してしまうから。
息子の入学式。意を決して出席した。
平常心でいられるのか、自分のことが心配だった。
けれど息子の姿がとてもまぶしく輝いて見えた。
娘が泣いてしまった入学式をもう一度やり直している気がした。
娘はきっと、弟を見守ってくれている。
自分がもっともっとやりたかったことを、弟とここで一緒に経験していくんだ。
あこがれの給食、体育、運動会。。
そう思えて、息子に、その存在に心から感謝した。
息子の後ろ姿のとなりに、娘の笑顔が見えた気がした。」
       
        A新聞・生活欄投書より


あこがれの給食、体育、運動会、、というところで、何回読んでも泣いてしまった。

子育ては、日常の連続。

生命に添って生きるという約束。

今日の次には明日が追いかけてくる。
キャンセルも、延期もできない。
生命の流れとリズムが、すべてに優先する。

妊娠を知った瞬間、はじめてわたしは、わたしの体が自分だけのものではないという
ことに気がついた。

体の中で、別の生命と取り結んでしまったエニシ、、その不思議のループを味わうのが、
わたしにとっての子育てかと思う。

学校教育これでいいのか、給食に冷凍食品出していいのか、一番を競う運動会反対
、町にあふれる危険をどうする、子供たちの心は荒れ果てているじゃないか、、、

文句はいくらでもつけられるだろう。

でもただ生きているだけで、どれほど面白いか、
世界がどれほど不思議に満ちているか、
たくさんのものたちに守られて、なにかとひきかえに、今の自分がある、

そういう感じをぬぐいきれない。

ふつうの日々のなかに流れる、豊かさと実り、
大切にしないでどうする?
と、自問した。
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ホピ・インディアンの「第1の世界」。。

2008-10-08 | ホピの宇宙神話・伝承・祭

前からきちんと読んでみたかったホピ・インディアン関係の本を少しずつ読んでいる。

ホピ族の神話によると、今の世界は火山の噴火や氷河期や大洪水を乗り越えてたどり着いた
4番目の世界であるという。

以下の文章は、一番初めの、第1の世界、世界のはじめのありようについて述べられた中の、ごく穏当な部分の“聞き書き”である。
この“聞き書き”は三十人の長老たちの語りの集成ということである。。

さて、
語る方=長老、たちから言えば、生きた口承文化を存続させるためには、
文字は受け入れてはならないのである。

文字文化は、口承文化を死滅させてしまうからである。

だから、ホピ族の方たちは、文字をかたくなに否定してきた。
だからこの本は、矛盾の産物なのだとも言える。


ホピ族は言う。


大いなるものとの約束を忘れないためには、人間のつくった約束(法律)はいらない。

だから、土地は私有しない。
お金はいらない。
文字はいらない。
学校教育はいらない。
安楽快適な生活はいらない。
頼むから、わたしたちを放っておいてくれないか?


。。
これはまことに信仰深い人間の独白ではないだろうか?
生きた旧約聖書の世界と言うべきではないだろうか?


これ以上赤裸々な人間の姿を、わたしは知らないのだ。

神話という形で伝達するのがふさわしい意味合いを、生身の生活者が実践する、というのは、
幸せなことなのか、、
これはわたしにとっては重い問いなのだ。。


    ***


最初の知恵が与えられたとき、彼ら(人類)は大地が自分たちと同様に生き物であることを理解していた。

大地は彼らの母である。
彼らは母の肉体から造られ、その乳房をすすった。
動物がみな食む草、そして人類のために特に造られたトウモロコシが母の乳房だった。
トウモロコシはまた、多くの点で人と似たからだを持つ生き物であり、人はその肉を自分たちの肉体とした。
したがってトウモロコシもまた、彼らの母であった。

彼らはまた、父をも二つの面からとらえた。
父はまず宇宙の太陽神である太陽だった。
しかし太陽は創造主タイオワが彼らを眺めるための顔にすぎなかった。
これらの宇宙的な実体がまことの親であり、人間の親は彼らの力が現されるための器にすぎなかった。

近代まで、彼らの子孫はこのことを覚えていた。

子が生まれると、母なるトウモロコシが脇に二十日間置かれ、その間、子は暗がりの中で過ごす。
それは、体はこの世のものであっても、なお宇宙の両親の保護の下にあるからである。
二十日目の朝早く、まだ暗いうちに、子供の伯母全員が家に集まる。
太陽が地平線の上にすっかり顔を出すと、母は一歩進み出て子供を太陽にさし出し、
「父なる太陽、これがあなたの子供です。」という。

彼女は子供が杖にすがって歩くようになるほど長生きし、こうして創造主の掟に従ったことを
身をもって証しすることができるようにとの願いをこめて、ふたたび同じことをする。
母親が終えると、祖母が同じことをする。

そして、二人はこの新しい命のために太陽に向けてコーンミールで道を描く。

子供は今や、家族と地球、両方のものとなる。

母と祖母は、伯母たちが待っている家に子供を連れて帰る。
村の呼び役が子の誕生を告げ、祭りが子供のために開かれる。

七年か八年の間、子供は月並みな地上生活を送る。

それからある宗教団に所属して、自分が地上の親をもっていても本当の親は母なる大地と
父なる太陽であることを学びとる。

彼は地上の家族と部族の一員であると同時に大宇宙の民でもあるのだ。

この認識は、彼の理解が増すにつれていっそう深まってくる。


   ***

       「ホピ・宇宙からの聖書」より引用させていただいた。
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