山根麻以さんの「ふつうの唄」、いいですね。
老人ホームに暮らす母の歯茎がやせて、入れ歯がうまく合わなくなってきた。
口の中の入れ歯がうまくはまらないというのは、想像の外やっかいなことのようで、
口をあけると歯が落ちてくるので、食べることも話すこともすっかり難儀になってしまったようだ。
だんだん口数が少なくなって、姿はまた少し小さくなった。
吸飲み(すいのみ)で牛乳を飲ませてあげながら、あぁお母さんは赤ちゃんになっちゃったんだ、、と思った。
飲み込みが困難なので、生まれたての赤ちゃんの方がずっと上手だ。
かつてお母さんの乳房からお乳を飲んだであろう自分を思った。
十数年前わたしの乳房からお乳を飲んだわたしの子ども達のことも思った。
母とわたしとこどもたちと、まだ見ぬ彼らのこどもたちと。。
たくさんの顔が流れるように現れて消えていった。
だれかの子どもになり、だれかの親になり、年老いて、土にかえり、、それからまた、
その土の上に生まれて、だれかに育てられ、だれかを育てて、土にかえる。。
わたしが今生きているのは、そんな生なんだ、と改めてもう一度思い直した。
先日新聞に上のお子様を亡くされた小学生のお母さんの投書があった。
「娘が亡くなってから、小学校は苦手な場所だった。
痛々しい娘の姿を思い出してしまうから。
息子の入学式。意を決して出席した。
平常心でいられるのか、自分のことが心配だった。
けれど息子の姿がとてもまぶしく輝いて見えた。
娘が泣いてしまった入学式をもう一度やり直している気がした。
娘はきっと、弟を見守ってくれている。
自分がもっともっとやりたかったことを、弟とここで一緒に経験していくんだ。
あこがれの給食、体育、運動会。。
そう思えて、息子に、その存在に心から感謝した。
息子の後ろ姿のとなりに、娘の笑顔が見えた気がした。」
A新聞・生活欄投書より
あこがれの給食、体育、運動会、、というところで、何回読んでも泣いてしまった。
子育ては、日常の連続。
生命に添って生きるという約束。
今日の次には明日が追いかけてくる。
キャンセルも、延期もできない。
生命の流れとリズムが、すべてに優先する。
妊娠を知った瞬間、はじめてわたしは、わたしの体が自分だけのものではないという
ことに気がついた。
体の中で、別の生命と取り結んでしまったエニシ、、その不思議のループを味わうのが、
わたしにとっての子育てかと思う。
学校教育これでいいのか、給食に冷凍食品出していいのか、一番を競う運動会反対
、町にあふれる危険をどうする、子供たちの心は荒れ果てているじゃないか、、、
文句はいくらでもつけられるだろう。
でもただ生きているだけで、どれほど面白いか、
世界がどれほど不思議に満ちているか、
たくさんのものたちに守られて、なにかとひきかえに、今の自分がある、
そういう感じをぬぐいきれない。
ふつうの日々のなかに流れる、豊かさと実り、
大切にしないでどうする?
と、自問した。