奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

感想:『”文学少女”と神に臨む作家 上・下』――私が”文学少女”を大っ嫌いなワケ

2009年10月03日 21時23分54秒 | “文学少女”
“文学少女”と神に臨む作家 上 (ファミ通文庫)“文学少女”と神に臨む作家 上 (ファミ通文庫)
価格:¥ 630(税込)
発売日:2008-04-28
“文学少女” と神に臨む作家 下 (ファミ通文庫)“文学少女” と神に臨む作家 下 (ファミ通文庫)
価格:¥ 651(税込)
発売日:2008-08-30


シリーズ本編完結となる上下巻。批判ばかり書き綴ってきたが、どうにか最後までたどり着いた。短編集が外伝が存在するが、手を出す予定はない。

小説に限らないが、出会う時期が大切な作品は少なくない。それは時代であったり、読み手の年齢であったりする。特に後者は多くの児童文学などに当てはまるだろう。このシリーズは高い評価を受けているが、これもまた後者の代表的な作品と考えられる。
エンターテイメントに限らないが、100人の中で、或いは1000人の中で、たった一人でも強烈に支持し、その人の人生に影響を与え、その人の心の中に何かを残すことが出来れば、その作品は価値があったと言えるだろう。もちろん商業的な成功は望めず、作り手がその作品にどんな思いを残そうと。

”文学少女”に対する私の評価はこれまで述べてきた。最後まで読み終えても変わることはなかった。
なぜこのシリーズが高い評価を得たのか識るために最後まで読んだ。その答えを得たとは言わない。私にとってどうしようもなく薄っぺらなこの物語の何が若い人々の心を掴んだのか。私にとってどうしようもなく最低の主人公のどこに若い人々は惹かれたのか。多大な苦痛を感じながら読み続けたにも拘らず、こうした問いに明確な答えを出せない。

読み続けたもう一つの理由として挙げた、主人公の成長も描かれてはいる。だが、満足にはほど遠いものだ。本書で主人公が「けれど、ぼくは主人公の亜里砂に、共感できない」とその著者へ伝えるが、その言葉をそっくりそのまま野村美月に返したいほどだ。これほど、最後の最後まで微塵も共感を覚えなかった主人公と出会ったことに驚いてしまう。
いつでも無償で助けてくれる、”母性”の象徴である遠子先輩。何をしても許され、男にとって都合がいい女という、理想の”恋人”である琴吹。二人にひたすら甘える主人公。その自覚もなしに。自覚がなければ何をしても許されるなんて”幻想”の世界がこの作品である。

思わせぶりなシリーズ構成こそ評価できるが、物語の展開は酷いレベルと言わざるを得ない。作者の腕の未熟さが主人公のヘタレに磨きをかけている。特に目に付くのが、コミュニケーションしないことで強引に話を進めていく点だ。解決時にまとめてするために、大事なことはどのキャラクターも話さない。自分の気持ちや行動の理由を話せば簡単に解決することなのに、それを伏せることで物語を展開させている。もちろん演出手法としてそれが有効なのは間違いないし、シチュエーションによっては当然認められるものではある。だが、それを繰り返し、シチュエーションも何も関係なく同じパターンというのは手抜きと言われても仕方ないだろう。ライトノベルだから許されると言うならば、ライトノベルはそれだけのものとなってしまう。

文学作品に対する語りにも、キャラクターたちの行動にも、心に届くものはなかった。読んでいて感じた苦痛の要因の一つとして、主人公や他のキャラクターたちのヘタレっぷりに対する同類相憐れむような近親憎悪的な気持ちがなかったとは言わない。ヘタレでない者か、ヘタレに気付かない者ならば、また別の読み方もできるのだろう。だが、最後までそのヘタレっぷりを無条件に肯定されれば、無性に鬱々とした気分になるし、そんな作品が受けていれば苛立たしい気分になる。
結局本編最後まで読ませた力とは、私が稚拙だと忌み嫌い蔑みまでする作品が高い評価を得ていることに対する反発だった。嫌いだと叫ぶためにここまで読んだ。TVアニメでもつまらないと言うために最後まで見続けたりしたように。なぜ受けたのか識りたい気持ちはあるが、分からないことは分からないと言うしかない。いつか分かるかもしれないが、分からないままかもしれない。好きの反対が無関心であるように、嫌うということは決して関心が無いというわけではない。それを認めた上での嫌いということだ。

誰にでも優しいということは美徳ではなく、むしろ大きな欠点である。なのに、美徳のように描かれた歪んだ世界。その歪みに苛立ち、怒り、心がかき乱される。そこで繰り広げられる悲喜劇も馬鹿馬鹿しい茶番にしか見えない。そして、世界の象徴である主人公に対して、何度「死ね」と思い、「消えろ」と願ったか。最も嫌いな主人公として心に刻み込まれてしまった。
結論。私の評価では、真っ当な大人が読む価値は微塵もない、となる。現時点ではこれを書くために艱難辛苦に耐えたと言える。


最新の画像もっと見る

9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
文学少女と死にたがりの道化しか読んだことはあり... (匿名)
2010-08-24 14:19:23
つまらなすぎて最後のあたりは流し読みでした。
「つまらないと叫ぶために全巻読んだ」
かっこいいな、と思いました。
それだけです。
説明しづらい感情をよく分析していると感心しまし... (そのもどかしい気持ちが凄くわかります)
2010-11-09 00:46:16
説明しづらい感情をよく分析していると感心しました。自分も似たようなことを考えており、自分もこの作品を手放しで面白いと褒める人がぜんぜん理解できず、自分が間違っているのかと苦しみました。今回は非常に溜飲が下がりました。ありがとうございます
コメントありがとうございます。 (奇天)
2010-11-09 01:37:29
エンターテイメントですから、好き嫌いや合う合わないというレベルで語ればいいのでしょうが、あまりにも高評価を目にするもので、なぜ嫌いなのかを長々と書いてしまいました。
読み返してみると、かなり厳しく書き過ぎのところも目に付いてしまいますが、当時よりも多くのライトノベルを読んだ今も評価自体は変わっていません。

単なる「アンチ」にならないように書けたとは言えませんが、私なりに読んだときのもやもやした気持ちをぶつけた文章となりました。
ファンの方からすれば何も分かっていないと言われるかもしれません。良かった点もなかったわけではありません。

それでも、過激な記事タイトルも含め、批判ばかりが目立つ内容は好ましいものではありませんが、賞賛の声ばかりではなくこんな感想を抱いた読み手もいたという記録としてあってもいいかなと思っています。
初めて投稿させていただきます。宇月と申します。... (宇月)
2011-02-07 16:21:20
私が考える文学少女の魅力は、作中の登場人物の葛藤とそれに示される希望だと思います。確かに人によっては美しすぎる物語から薄っぺらさを感じてしまう作品だと思います。心葉も精神が弱い人物として描かれていて、優柔不断で幼稚で身勝手です。それは最後の巻まで同じです。心葉に対して好感情を描けないのも納得出来ます。(主に心葉にご不満を抱かれていると解釈させていただきます)
しかし私にとっては、その心葉の弱さが愛おしく思えました。彼は人を傷つける言葉を放ったり、逃げ出したり、遠子先輩や琴吹さんに甘えたり、成長したと思ってもまた悩んだりします。けれど人はそういうものかと思うのです。その時成長したと思っても、すぐさま戻ってしまうこともあると思うのです。心葉はその典型です。けれど一進一退を繰り返し、心葉は最終巻において遠子先輩の代わりに「想像」で希望を示します。それは成長ではないでしょうか。人によって差はありますが、内に秘められているだろう幼稚さや身勝手さに対
すみません、投稿したコメントが切れてしまったよ... (宇月)
2011-02-07 16:27:41
人によって差はありますが、内に秘められているだろう幼稚さや身勝手さに対して、心葉は希望を示したように思えます。どれほど弱くても、進み続ければ少しずつ成長出来るのだと。登場人物の弱さを克明に見せ、それを救済することで、それぞれの苦難を抱えて今を生きる人々に希望を示したのだと思います。
作品で語られるのは都合が良くて美しすぎる言葉で、薄っぺらさを感じさせる原因です。しかし同時にそれは真実でもあると思います。美しすぎる希望が綺麗事であると同時に、存在しないことも有り得ません。文学少女シリーズはそんな希望も存在するのだと示してみせたのだと思います。
私は未成年で、恐らくはとても幼稚なことを言っています。それでも私はこれが子供だましと言われるような作品ではないと思いますし、「真っ当な」大人の方にも読んでいただきたいと思います。心葉に共感しても共感しなくても、多くの方々に希望を与えたからこそ、文学少女シリーズは高い評価を得ることが出来たのだと思います。
個人的な文学少女の魅力を書かせていただきました。それでは長文で失礼致しました。
こんな荒っぽいタイトルの記事に丁寧にコメントし... (奇天)
2011-02-08 01:32:35
宇月さんは”文学少女”シリーズで想定されている読者のまさに代表のような方だと思います。この作品を真っ直ぐに受け止められていると。

私も若いうちにこの作品に出逢っていれば引き込まれていたかもしれません。そんな世代を限定する名作は少なからず存在します。

私がなぜここまで激しくこの作品を否定したのか。ひとつには「このライトノベルがすごい!」誌などで高い評価を受け、あまり批判の声が聞こえなかったからです。そして、もうひとつ、それは読んでいてとても心をかき乱されたからです。

心葉の弱さは決して他人事ではありません。大人となって弱さを克服した人もいるでしょうが、大半は他人には見せなくとも心の弱さを内に秘めています。そんな弱さをあからさまに見せ付けられると平穏ではいられませんでした。

しかし、同時に、弱さとたとえ向き合うことができなくても、弱さをさらけ出したまま生きていけないことにも気付いています。そんな弱さを肯定してしまうことに耐えられないのです。

”文学少女”シリーズでは心葉がいかに振舞おうと周りは受け入れてくれます。フィクションだから許されることではありますが、フィクションだからと言うことで築き上げられたユートピアなわけです。
そこで起きる出来事はどれほど厳しいものでも、母親の腕のぬくもりの中で繰り広げられているに過ぎません。

物語の構造的に主人公の成長はそこからの脱却という形で現れるものだと思いました。ですが、結末は全てを許す存在である天野遠子を選んだことで原点に回帰していきました。

エンターテイメントが現実逃避の役割を担うことを否定しません。”文学少女”シリーズが多くの人々に熱く支持されていることも理解はできます。その上で、それでも私は共感するわけにはいかないと言うしかありません。

弱さが免罪符となるのではなく、強くなれと強要されるのでもなく、弱ければ弱いなりになんとかしようともがくような物語であったならばと、弱さを自覚するのなら他人の弱さにもっと敏感になって欲しいと・・・でも、現実には決して容易いことではないのですが。

きらびやかで繊細な作品なのは間違いないでしょう。若いうちに出逢えば引き付けられる作品でしょう。でも、真っ当な大人が読むに足る作品だとは到底思えません。甘いだけの物語はずっとは食べ続けられないのです。
コメントのお返事ありがとうございます。お返事か... (宇月)
2011-02-11 23:00:36
物語が母の腕の中で起きている、というのは同意です。しかし、その肯定は無条件でしょうか?最終巻下を見ると、心葉は三回ほど殴られたり辛辣な言葉を掛けられています。最終巻でなくても心葉は毎回割と酷い目に遭っています。最終的に遠子先輩や周りの人々が受け入れてくれるとしても、心葉の心は大いに揺らされて打ちのめされます。これは必ずしも無条件と言えるでしょうか?
二つ目の遠子先輩に原点回帰は、彼女が心葉の前からいなくなったことで無効になったと考えられないでしょうか。遠子先輩が残した手紙や思いがあると言っても、心葉は一人です。もう母の腕はありません。ここから心葉は弱さと戦い、ここからが真の成長とは「想像」出来ないでしょうか。
もちろんこれは私の意見ですから、奇天様に押し付けるつもりは毛頭ありません。しかし、少し気になったことがあります。
奇天様のおっしゃる真っ当な大人というのは、弱さ... (宇月)
2011-02-11 23:06:35
完全に個人的で細かい意見ですが、たとえば奇天様ご自身にとっては読む価値はなかった、あるいは奇天様がお考えになる理想の大人には読む価値がなかった、と書かれた方がよろしいかと思います。
私は甘い話も含め、世界には様々な物語が存在して良いと思いますし、何を読むかは読者の自由だと思います。そして物語を批判することは出来ても、読者の人間性をあれこれ言うのは望ましくないと思います。
私もただのアンチにならないよう気をつけましたが、ご不快なお気持ちにしてしまったら申し訳ありません。
>私は甘い話も含め、世界には様々な物語が存在し... (奇天)
2011-02-14 20:12:56
私の思い上がり故の発言でした。「真っ当な大人」という点に関しては申し訳なく思います。

荒っぽいタイトルが示すように、強い言葉で強い印象を与えようとする手法は下品な手ですが、あまたあるブログや書評サイト等の中で埋もれないためについ使ってしまう手でもあります。
「真っ当な大人」という表現はあくまで作品への評価として使ったもので、読者に対して用いる意図はありませんでしたが、未熟さゆえに意図通りに受け取られない書き方でした。
これは後日訂正したいと思います。

>物語が母の腕の中で起きている、というのは同意です。しかし、その肯定は無条件でしょうか?最終巻下を見ると、心葉は三回ほど殴られたり辛辣な言葉を掛けられています。最終巻でなくても心葉は毎回割と酷い目に遭っています。最終的に遠子先輩や周りの人々が受け入れてくれるとしても、心葉の心は大いに揺らされて打ちのめされます。これは必ずしも無条件と言えるでしょうか?

当ブログでは心葉のような主人公を「ゼロ年代男性主人公」と呼んでいます。ゼロ年代に顕著に現れたタイプの主人公で、平穏を好み、他人の好意に無自覚で、誰にでも優しい性格の持ち主を指します。
彼らは自己犠牲を厭いません。それは勇敢だからではなく、周囲の人々が自分を大切に思っていることに無頓着だからできるのです。
それを周囲が指摘し、本人が自覚しない限り、一歩踏み出したとは言えません。そして、それを踏み出したくらいで成長と呼べるとも思っていません。
誰にでも優しいのも、自らが傷付きたくないための方便です。誰もが幸せになる展開は無理があり、何かを守るために何も失いたくないというのは子供の我がままでしょう。

>二つ目の遠子先輩に原点回帰は、彼女が心葉の前からいなくなったことで無効になったと考えられないでしょうか。遠子先輩が残した手紙や思いがあると言っても、心葉は一人です。もう母の腕はありません。ここから心葉は弱さと戦い、ここからが真の成長とは「想像」出来ないでしょうか。

本編完結までしか読んでいません。そして、そこまでに書かれたことしか判断の材料はありません。
本編では、実の母、遠子、琴吹の三人でトライアングルのように心葉を包み込んでいました。その構図は表面上は終わりましたが、本質が変わったようにも思えませんでした。

心葉に限らず個々の関係をひとつずつ取り上げてみると、非常に偏った関係になっているのがこのシリーズの特徴だと思います。そんな状況のままシリーズを描き切ったという点は凄まじいものを感じます。それは心地悪さに繋がりますが、それ自体はこの作品のユニークさとして評価できるものだと思います。主人公に全く共感できないため、作品への評価が覆るわけではありませんが。

コメントを投稿