9日の記事「縦書きは滅びるか?」に頂いたコメントのやり取りから電子書籍の話題となった。電子書籍をネタに記事を書くと公言したが、その切り口がなかなか思い浮かばなかった。
昨年あたりから電子書籍元年などと騒がれ、少しずつではあるがその流れは広がってきている。私自身は現時点であえて電子書籍で読みたいと思うことはない。いま電子書籍が注目されているのは、出版サイドの論理によってだと感じるからだ。
現在流通している電子書籍はあくまでも本をデジタル化したものに過ぎない。販売が本より先行したとしても、本の代替物以上のものとはなっていない。
PCの普及、特にインターネットが広まって十数年が経過している。その間、海外での事情は知らないが、日本において、日本語の創作物において、小説を拡張しようという試みはプロアマ問わず行われてはいるが、それは圧倒的に少なく期待はずれの状況である。
唯一の例外にして成功を収めたものは『ひぐらしのなく頃に』であり、全てのプロ小説家が成し遂げられなかったことをアマチュアだった竜騎士07だけがやってのけた。
もちろん、小説の拡張はプロの作家の誰もが目指すものではない。商業的な展望が開けないことも大きな理由だろう。しかし、私の目には怠惰に映る。電子書籍は本来、作家の側から提案されるべきものではなかったか。
井上夢人による『99人の最終電車』は1996年からWeb上で発表された作品であり、ハイパーリンクを利用した小説である。
林亮介の『迷宮街クロニクル』はWebで公開された小説の書籍化だが、Web版は「はてなダイアリー」を利用して群像劇を描くという試みを通じて書かれている。
1992年サウンドノベルとして『弟切草』が発売された。脚本・監修は作家の長坂秀佳を起用している。分岐の存在など小説よりもゲームとしての特質が強い作品だが、その後のアドベンチャーゲームのあり方に大きな影響を与えた。
アダルト向けPCアドベンチャーゲームも90年代躍進したが、ビジュアルノベルとして1996年『雫』が登場し、その後『痕』『To Heart』へと展開していく。
2002年から制作され始めた『ひぐらしのなく頃に』はビジュアルノベルの系譜に位置する。ただし、選択肢はなく、この作品をゲームたらしめているのは、その内容を巡ってネット上でプレイヤーが推理し合う点にある。
ビジュアルノベルとしてPCの存在が前提になっているだけでなく、ネットの存在もまたこの作品には必須だったと言える。こうしたプレイヤーの推理が作品へとフィードバックされることも作品の本質として想定されている。
電子書籍に小説を書くことが前提となれば、音、絵、写真、動画、リンク、選択肢など様々な「小説の拡張」の可能性が存在することになる。
忌み嫌われているがドリーム小説化することも可能だろう。
このような「拡張」は小説にとって外道な存在だろうか。小説はあくまでも手法に過ぎない。これまで本という制約に縛られてきたが、その制約が別のものに取って代わるならば「拡張」は必然ではないのか。
本を電子書籍に置き換えるだけというのは出版サイドの論理である。本ではなく電子書籍に書くとするならば何ができるかという視点は作家サイドの論理になる。拡張の可能性を考えた上でそれでも拡張せずに書くことがベストだと言い切るのであればそれはその作家の下した決断として尊重したいが、今のところそこまで踏み込んだ作家の存在を知らない。
ただもう一つ、ブックリーダーの製造・販売サイドの論理もある。
現在、キンドルやiPadなどのブックリーダーが存在するが、果たして5年後10年後も現役でそれらが使えるかどうかは未知数だ。電子機器は進化のスピードが速い。特に出始めの時期はそれが顕著だ。
一度読めば二度と読まない本も少なくはない。しかし、何度も読みたい本は存在する。ブックリーダーの世代交代だけならば読み続けられる可能性は残るが、一つのフォーマットが廃止などとなれば電子書籍では読めなくなる作品も出てくるだろう。
小説の「拡張」が意味あるものとなれば、本は電子書籍の代替とはならない。ブックリーダーの製造や販売が文化を担っているという意識が乏しそうなだけに心配ではある。
昨年あたりから電子書籍元年などと騒がれ、少しずつではあるがその流れは広がってきている。私自身は現時点であえて電子書籍で読みたいと思うことはない。いま電子書籍が注目されているのは、出版サイドの論理によってだと感じるからだ。
現在流通している電子書籍はあくまでも本をデジタル化したものに過ぎない。販売が本より先行したとしても、本の代替物以上のものとはなっていない。
PCの普及、特にインターネットが広まって十数年が経過している。その間、海外での事情は知らないが、日本において、日本語の創作物において、小説を拡張しようという試みはプロアマ問わず行われてはいるが、それは圧倒的に少なく期待はずれの状況である。
唯一の例外にして成功を収めたものは『ひぐらしのなく頃に』であり、全てのプロ小説家が成し遂げられなかったことをアマチュアだった竜騎士07だけがやってのけた。
もちろん、小説の拡張はプロの作家の誰もが目指すものではない。商業的な展望が開けないことも大きな理由だろう。しかし、私の目には怠惰に映る。電子書籍は本来、作家の側から提案されるべきものではなかったか。
井上夢人による『99人の最終電車』は1996年からWeb上で発表された作品であり、ハイパーリンクを利用した小説である。
林亮介の『迷宮街クロニクル』はWebで公開された小説の書籍化だが、Web版は「はてなダイアリー」を利用して群像劇を描くという試みを通じて書かれている。
1992年サウンドノベルとして『弟切草』が発売された。脚本・監修は作家の長坂秀佳を起用している。分岐の存在など小説よりもゲームとしての特質が強い作品だが、その後のアドベンチャーゲームのあり方に大きな影響を与えた。
アダルト向けPCアドベンチャーゲームも90年代躍進したが、ビジュアルノベルとして1996年『雫』が登場し、その後『痕』『To Heart』へと展開していく。
2002年から制作され始めた『ひぐらしのなく頃に』はビジュアルノベルの系譜に位置する。ただし、選択肢はなく、この作品をゲームたらしめているのは、その内容を巡ってネット上でプレイヤーが推理し合う点にある。
ビジュアルノベルとしてPCの存在が前提になっているだけでなく、ネットの存在もまたこの作品には必須だったと言える。こうしたプレイヤーの推理が作品へとフィードバックされることも作品の本質として想定されている。
電子書籍に小説を書くことが前提となれば、音、絵、写真、動画、リンク、選択肢など様々な「小説の拡張」の可能性が存在することになる。
忌み嫌われているがドリーム小説化することも可能だろう。
このような「拡張」は小説にとって外道な存在だろうか。小説はあくまでも手法に過ぎない。これまで本という制約に縛られてきたが、その制約が別のものに取って代わるならば「拡張」は必然ではないのか。
本を電子書籍に置き換えるだけというのは出版サイドの論理である。本ではなく電子書籍に書くとするならば何ができるかという視点は作家サイドの論理になる。拡張の可能性を考えた上でそれでも拡張せずに書くことがベストだと言い切るのであればそれはその作家の下した決断として尊重したいが、今のところそこまで踏み込んだ作家の存在を知らない。
ただもう一つ、ブックリーダーの製造・販売サイドの論理もある。
現在、キンドルやiPadなどのブックリーダーが存在するが、果たして5年後10年後も現役でそれらが使えるかどうかは未知数だ。電子機器は進化のスピードが速い。特に出始めの時期はそれが顕著だ。
一度読めば二度と読まない本も少なくはない。しかし、何度も読みたい本は存在する。ブックリーダーの世代交代だけならば読み続けられる可能性は残るが、一つのフォーマットが廃止などとなれば電子書籍では読めなくなる作品も出てくるだろう。
小説の「拡張」が意味あるものとなれば、本は電子書籍の代替とはならない。ブックリーダーの製造や販売が文化を担っているという意識が乏しそうなだけに心配ではある。