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【視点】優先順位――人でも組織でも最も大切なもの

2011年05月28日 17時57分23秒 | 国際・政治
人であれ組織であれ、やりたいこと、やるべきことは数多く存在しても同時にいくつものことをやり遂げることは難しい。
何からやるか、何に労力を傾けるか、そうしたことに人となりや組織や集団のあり様が如実に反映される。

先の統一地方選挙で躍進した大阪維新の会は、まず最初に教員の君が代起立を取り上げた。それに対する是非はともかく、選挙で論点としてほとんど挙げられなかった問題を最初に提起したことに疑問を感じる。
大阪府と大阪市の二重行政の解消など、府・市共に多大な財政赤字を抱えている状態への不満から票を集めたはずの政党が、全く別の路線からスタートを切ったことには不信感さえ覚えてしまう。結局、府民や市民の期待はまたも裏切られてしまうのではないか。その思いが強く感じられた。

政治への不信はもちろん国政に対しても強い。
東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は国難と呼びうるものだ。それに対応する菅首相はこれまで十分な働きをしていない。
昨年の6月8日に総理大臣に就任して間もなく1年を迎えるが、3・11まで成果らしいものをほとんど示せずにいた。参議院選挙での敗北による”ねじれ”があったとはいえ、どんな国作りを目指すかの意志も伝わってこなかった。
民主党の中にも野党の中にも首相としての能力に疑義があったのは間違いないだろう。震災がなければ既に辞任に追い込まれていた可能性も高い。

しかし、そんな首相の下で国難が発生した。予想通りと言うべきか、首相及び政府は対応が後手に回った。
その時、民主党の中の反菅勢力や野党はどうしたか?
首相に協力すれば、政権の延命に繋がるとして十分な協力をしなかった。確かに、一時報道された閣内に入っての協力となると、首相を批判しにくくなるし、政権への批判に巻き込まれる恐れもある。
だが、国難であるのは明らかだというのに、やれることをやらなかったとすればそれは政治家として正しいと言えるのだろうか。
震災後最初の国会審議で、首相の福島第一原発への視察への批判がなされた。そのタイミングでもっと他にやるべきことはなかったのか。
首相の能力に疑義があるのは確かだが、批判する側はどれだけのことをやったというのか。やれることを全てやったと言えるのか。間もなく不信任案が提出されるそうだが、それを可決して本当により良くなるという保証はどこにもない。

国難において政治と同様に後手に回ったのが官僚機構だ。慣例主義の強い日本の官僚組織は非常時に弱い。
私は戦後日本の官僚組織は一貫して日本の繁栄にあまり貢献していないと思っている。戦後、日本は高度経済成長の末に世界第二位の経済大国へとたどり着いた。だが、それを主導したのは民間の力である。
もちろん、官僚が全く無策だったとは言わないが、スタートはGHQの財閥解体であり、本来国策的な産業ではなかった自動車業界などが牽引していった。
そして、経済成長を果たし、バブルで潤っていたとき、政治主導で行われたとはいえ1億円を地方自治体にばら撒くような蛮行があり、バブルが崩壊して以降、その無策ぶりは衆目の知るところとなった。

大学入試で良い成績を収めたからといって頭が良いと思わない。記憶する能力が高いのは才能のひとつだが、才能のひとつに過ぎない。
行動の優先順位を考える上で、知識が多いことは確かに選択肢を増やすことに繋がるが、知識の量が優れた判断力をもたらすわけではない。むしろ、知識が多いことは先例主義に繋がりやすく、またリスクを取りたがらなくなる。失敗する事例を多く知っているのだから。

私が考える頭の良さとは、深く考える力を指すが、これもまた行動の優先順位をうまく判断することとは別だと思う。思慮深いことは大切だが、判断が遅れがちになるし、これもまたリスクを取りたがらない。

優先順位を判断する力を、通常の言葉で表すとすれば「知恵」の部類と言えるだろう。経験則も大切だし、熟慮も必要だが、それを乗り越えて決断する勇気、状況に応じて優先順位を切り替える柔軟性、行動の結果に対する責任感が求められる。これらは学校の授業だけでは身に着け難いものだ。
これらの能力はビジネスの世界で発揮されやすい。官僚の半分を優秀なビジネスマンが勤めるような構造ができれば新たな活力が期待できるかもしれない。政治の世界は……現状ではどこから手をつけていいかも分からない。

ただそれだけ優秀な判断力があれば、官僚や政治の世界に入りたいとは思わないだろう。人生の優先順位において、もっと魅力的な選択肢があるだろうから。


社会の変革

2011年03月06日 19時46分09秒 | 国際・政治
社会は変わっていく。時代と共に変わっていくのは必然と言ってよい。

一方で、社会を変えたいと望む人々がいる。そのアプローチの方法は様々だ。
政治家や官僚になって変えようとする者、経済の世界を通して変えようとする者、ジャーナリズムによって変えようとする者、学問や言論の力で変えようとする者、小説等の文化を発信して変えようとする者。
もちろん、そんな大仰な手段を用いずとも日常の生活の中から少しずつ社会を変えていくこともできるだろう。

一経営者である至道流星が『羽月莉音の帝国』で描いているのは経済による世界の変革である。まだ3巻までしか読んではいないが、ようやく主人公の莉音が望む世界の姿が語られた。
作品内で、政治への不信も語られている。確かに民主主義の政治には時間が掛かり、劇的な変化をもたらすことは難しい。現実の政治を見れば、更に不信は高まる。

至道流星が経営を通して社会の変革のために何を行っているかは知らないが、彼自身は小説という手段を用いて自らの想いを世に表している。
昔は経営に理念があったと感じる例もあるが、現在は大企業であればあるほど自己の成長のための経営という姿勢しか見えてこない。
作品内に世界的な財閥が登場するが、アメリカ大統領の選定にも影響を及ぼすほどの力があっても彼らは自己の利益のためにしかその力を使ってこなかった。

社会は変わっていく。今年が始まった時点でエジプトの政権が崩壊するなど誰が予想できただろう。

日本の社会だって変化は著しい。ただ劇的な変化とは言えないため、それが実感しにくくなっている。
本来、社会を変えるべき存在である政治や官僚機構はむしろ変化の激しさの前に変革への抵抗勢力と化している。そして、それは政治や官僚の世界だけではなくジャーナリズムや学問、言論、文化など様々な分野でも言えることだろう。

ネットなどの新たな脅威をあげつらうばかりのジャーナリズム。学問や言論の世界でも旧態依然とした古い価値観がいまだにまかり通っていないか?
文化においても、果たしてどれほどの影響力を与えているかと考えてしまう。

社会の変革におそらく最も寄与しているものが科学技術だろう。携帯電話の登場、普及は単に便利になったというレベルではなく、生活の末端にまで影響を与えている。
科学技術は、時に社会の変革を目指して生み出されることもあるが、自己目的化することが正当化されている世界でもある。それだけに社会に与える影響も予測できない面がある。

昔はSFがその責を担っていたこともあったが、最近はSFと科学技術の発展はリンクしているように感じられない。いま生まれつつある技術に対して、想像力を伴った視点での批評は必要なことだと思うが、残念ながらうまく行われているとは言い難い。(携帯電話を使ったカンニングにしても、想像可能な事態なのに対策があまりにも不備だった。)