180101 名を遺すことの意味 <NHK「風雲児たち」解体新書>を見て
年明けは、ブログを書き終えた後、そばを食べ終えたころに迎えました。そして近くの八坂神社にお参りに行きました。松明を前に小さな人込み、さい銭箱の奥には町内の関係者が新年を祝う集いをしている人たちで活気がありました。
疲れもあってお真理した後すぐ帰宅して横になり、静かな新年の朝を迎えました。
懇意の人から富山の鱒寿司をいただき、それが今年の正月料理の主役となりました。量が多くて今日が賞味期限となっているのに食べれるかと心配したのですが、それは杞憂に終わりました。認知症の母親が帰宅時は自分で食事もできない状態でしたが、介添えで食べさせているうちに次第に元気を回復し、この鱒寿司が気に入ったのか、次々と自分で食べるのです。よほど気に入ったのでしょう。鱒寿司様さまです。
人の生命は奇妙なものというほどわかっているわけではありませんが、先人が人の命の不思議、身体の不思議をいかに解明しようと努力してきたかは、時折触れる情報でいつも圧倒されます。
その一人、前野良沢については、かなり以前歴史小説を読んだ記憶があり、そのときほとんど文献もなく辞書もないという時代に、驚異的な努力と着想で解体新書というわが国初の西洋医学書を翻訳した姿にはとても感銘したものでした。
その内容について、今晩のNHKで、みなもと太郎・原作、三谷幸喜・脚本として見出しのテーマで放送されました。私が読んだのはたしか吉村昭著作だった記憶なのですが、はっきりしません。ただ解体新書として翻訳し発刊するに至る経緯は、とても真剣で真摯なものでした。まさに吉村流ともいうべきタッチだったような感じを残しています。
それに対しNHK番組は三谷作品らしい、人偏模様を対立先鋭を笑いを大いに織り交ぜて、わかりやすく描いていたように思います。
ただ、小説もTVのいずれも前野良沢がその名前を世に残すことより、医学書としての完全な翻訳を求め続ける求道者的な存在として描いていたと思います。他方で、杉田玄白は、ほとんど蘭学的知見がないなかで、前野良沢の驚くべき才能・努力を活用して翻訳書を世に出すことに多面的な、その意味ではフィクサーというかプロデューサー的な役割を果たしたのかなと思わせるものでした。いずれもわが国における医学の発展、漢方治療で救われない多くの人を救うという気持ちの点では共通する熱い心を抱いていたように思うのです。
ちょっと話は変わりますが、NHK番組ではあまり明確にされなかった当時の蘭学通事の能力については、私が読んだ本では驚くべき事実が指摘されていました。通事は世襲制で、その得た情報は門外不出で、第三者が蘭学を容易に知る機会を閉ざす制度があったというのです。
しかもその通事は、蘭書原本を読んだり書いたりできるかというと、それがまったくというほどできないということでした。つまり、通訳はできるけども、文書でのやり取りはできないということでした。当然、蘭語で書かれた医学書「ターヘルアナトミア」などは医学の知識はもちろん、一般の翻訳の力もないのですから、当然、ちんぷんかんぷんだったと思われるのです。
NHK放送では、通事役は解体新書を読んだふりをして前野良沢をほめちぎりましたが、実際はどうでしょう。彼らの能力が疑われ、世襲制の地位を危うくすることにもなりかねないわけですし、三谷脚本の面白さを創出する演出かなと思いました。
実際は、小説のように、通事に力添えを頼んだ前野良沢ですが、ほぼ門前払い的な扱いになったのではないかと思われます。
それにしても前野良沢らは、刑場に無断で出入りして、腑分けに立ち会うという国禁を犯し、また、蘭書医学書を翻訳発刊するという同じく国禁に反する行為をあえて行ったのですから、それはとてつもない危険な行為だったと思います。
明治維新を担った多くの志士について、死を賭した有意の人と評されることが少なくないのですが、前野良沢たちのような、それ以前の地道な勇気ある行為は意外と低く評価されてきたように思うのです。
さてその前野良沢は、当時唯一蘭語に通じている通事であっても辞書すらまともなものをもっていないときに、まさに真っ暗闇の海に見えない遠くにあると思われる到達点を目指して右往左往しつつ、一歩前進2歩後退といった状態で、翻訳作業を行うさまは、NHK放送でもその一端を示していましたが、それはとてつもなく大変だったと思います。
青木昆陽が簡単な辞書を作っていたようですが、それはほとんど役に立たないレベルだったと思います。前野良沢一人ではおそらく成し遂げられなかったと思います。放送でも小説でもその一つ一つの翻訳作業はある種ブレーンストーミングや推理感覚みたいに、能力のあるチームによる会話の中でしか生まれなかったかもしれません。
現在でも翻訳作業は大変むずかしいと言われています。私も簡単な英文を下手な翻訳をして文書化することがありますが、いかに外国語で書かれた内容を日本語の文書にすることの困難さを感じます。まして前野良沢の時代の蘭語、しかも医学書は絶壁の断崖のように到底超えることができないものであったと思うのです。
それをやり遂げた、というかおおよそを成し遂げた前野良沢は、その書の不完全さを納得できず、決してクレジットを求めないというか、拒否しています。良心の在り方でしょうか。では杉田玄白は違うのか、それは異なる良心の在り方、というか未完でも世に出すという翻訳書の意義を重視したのでしょうね。それは三谷解釈でも、両者の違いを双方とも理解していた、しかし相いれなかったという形で、時代を経て和解に近い結論を見出したのでしょうか。
自分の名前を世に出すかどうかは、重要なことではない、そこに意味があると思うのです。そして世に出すことによる利害得失を担うに適切な人が神様が?選ばれるのでしょうか。
この話とは別に、前野良沢が所属していた中津藩、10万石の小藩ですが、藩主ができた人ですね。その中津藩出身といえば、福沢諭吉が出ていますね。前野良沢が死亡した後に出てきた緒方洪庵による蘭学を中心とした先端教育、緒方塾で塾頭を務めた福沢のその後の活躍は有名ですね。中津藩にはなにかそういう有能な人を輩出する土壌があったのでしょうか。
それにしても福沢はどちらかというと、自分の名前を売り出すことに一所懸命だった?ようにも見えるのですが、前野良沢の生き方は異質なのでしょうか。いやそれが生き方として素敵ではないかと、新年の初めに思うのです。
今日はこの辺でおしまい。また明日。
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