白夜の炎

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丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を読む/子安より

2016-03-18 16:18:28 | 政治
「 「かくて我らは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」(臣民の道)といっているが、こうしたイデオロギーはなにも全体主義の流行と共に現われ来たったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。
           丸山眞男「超国家主義の論理と心理」

1 「超国家主義の論理と心理」

  「超国家主義」は昭和日本のファシズムや全体主義を意味する概念として使われている。たとえば「現代日本思想大系」(筑摩書房)には橋川文三の編集・解説からなる『超国家主義』(第31巻)の巻がある。それは『アジア主義』(第9巻)『ナショナリズム』(第4巻)とは別に立てられた昭和ファシズムとその代表的言説を編集する巻だと考えられる。ところでその巻の編者である橋川はその解説で「日本の近代史においては、たとえばドイツもしくはイタリアに見られるような、明確なファシズム革命というものがなく、いわばなしくずしの超国家主義化が進行したために、その政治的要因として、一般の右翼思想・国家主義思想から区別された超国家主義的契機を、それとしてとり出すことが特別に困難である」といっている。橋川はここで丸山眞男が「どこからファッショ時代になったかはっきりいえない」と日本ファシズムの「漸進的な性格」[1]をいう言葉を引いていっている。私がここで注意したいのは「超国家主義」という日本ファシズムの特性がドイツやイタリアのそれとの区別からいわれることである。こうした「超国家主義」としての日本ファシズムの特質化は丸山によるものである。

  「超国家主義」という概念を戦後日本に定着させたのは、敗戦の翌年に発表された丸山の論文「超国家主義の論理と心理」[2]であるだろう。この論文は戦後日本の思想的言論世界にもっとも大きな影響力をもったものだといっていい。戦後20年に当たって『中央公論』(1964年10月号)が「戦後日本を創った代表論文」という特集をやっている。猪木正道・臼井吉見らの選考委員が18篇の論文を選んでいるが、圧倒的多数の票をもって第一位に選ばれたのは丸山のこの「超国家主義」論文であった。ところで丸山はその論文をこう書き出している。

  「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争を駆りたてたところのイデオロギー的要因は連合国によって超国家主義ウルトラ・ナショナリズムとか極端国家主義エクストリーム・ナショナリズムとかいう名で漠然と呼ばれているが、その実体はどのようなものであるかという事についてはまだ十分に究明されていないようである。いま主として問題になっているのはそうした超国家主義の社会的・経済的背景であって、超国家主義の思想構造乃至心理的基盤の分析は我が国でも外国でも本格的に取り上げられていないかに見える。」

   丸山は「超国家主義」とは日本を戦争に駆りたてたところのイデオロギー的要因に連合国が仮に名づけた呼び方だというのである。そうだとすれば「超国家主義」は日本のファシズムなり全体主義をいう概念としてすでにあった概念ではないことになる。むしろ「超国家主義」は丸山のする分析的認識作業、すなわちその「思想構造乃至心理的基盤の分析」作業を通じてはじめて日本の独自的なファシズム、あるいは日本的特性をもったファシズムを指す概念として成立したと考えられるのである。「超国家主義」とは、だから丸山のこの論文が構成する日本ファシズムの概念である。だが丸山自身はこの論文以降、「日本ファシズム」といって「超国家主義」をいうことをあまりしていないように思われる。だが「超国家主義」は丸山のこの論文による概念構成とともに、日本ファシズムの代名詞として一人歩きしている。

  では丸山はどのように「超国家主義」を日本的ファシズム概念として構成していったのか。丸山がいましようとしているのは「超国家主義」の「思想構造乃至心理的基盤の分析」である。もしこの論文によって「超国家主義」概念が構成されたとするならば、その概念は「思想構造乃至心理的基盤の分析」を通じて構成されたものだということである。これは見逃してはいけない大事なことだ。丸山はこの分析、すなわち「思想構造乃至心理的基盤」の分析はあまりなされていないという。というのは、この問題が「あまりに簡単であるからともいえるし、また逆にあまりに複雑であるからともいえる」からだといっている。あまりに簡単であるというのは、「それが概念的組織をもたず、「八紘一宇」とか「天業恢弘」とかいったいわば叫喚的なスローガンの形で現れているために、真面目に取り上げるに値しないように考えられるから」だというのである。

   丸山がここでこちらの「八紘一宇」といった簡単すぎる叫喚的なスローガンに対置しながら、あちらのナチズム・ファシズム運動を代表するものとして挙げるものは何か。「例えばナチス・ドイツがともかく『我が闘争』や『二十世紀の神話』の如き世界観的体系を持っていた」ことを丸山はいうのである。ここに見るのは丸山の政治学的言説に、その言説構成を可能にするものとして終始つきまとう図式的な東西の対比的思考である。なぜ丸山はヒトラーの『我が闘争』やローゼンベルクの『二十世紀の神話』に対置するのに北一輝の『日本改造法案』や大川周明の『日本二千六百年史』をもってせずに、「八紘一宇」や「天業恢弘」といった叫喚的スローガンをもってするのか。ここで『我が闘争』や『二十世紀の神話』に対置するのに北や大川の著作をもってすることの適否が問われることではない。問題なのは『我が闘争』をもつか、もたないから日本ファシズムの特質を導いていく丸山の政治学的分析のあり方である。

   「超国家主義」概念を構成していく丸山の日本ファシズムをめぐる分析視角は、『我が闘争』の有る無しを問うような東西の対比的分析視角である。この東西の対比的分析視角は問われるものの特質を予め規定してしまっているように思われる。

  「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力が問題なのである。それはなまじ明白な理論的な構成を持たず、思想的系譜も種々雑多であるだけにその全貌の把握はなかなか困難である。是が為には「八紘一宇」的スローガンを頭からデマゴギーときめてかからずに、そうした諸々の断片的な表現やその現実の発現形態を通じて底にひそむ共通の論理を探り当てる事が必要である。」(傍点は子安)

  『我が闘争』をもたないわがファシズム、すなわち「超国家主義」という概念はこのように「思想構造乃至心理的基盤」の分析を通じて構成されるのである。


2 『我が闘争』はここには無い

 一般にはファシズムという政治イデオロギーを備えた政治的、思想的運動体系が組織的宣伝と大衆教育を通じてファショ的という同調的心理を大衆の間に作り出していく。こうして時代と社会とは全体主義的に再編成されていくのである。たしかにそこには時代と社会のファショ化を主導するイデオロギーがあり、そのイデオロギーを担う主体と組織と運動とがある。だが日本ファシズムには『我が闘争』はないと丸山はいうのである。『我が闘争』がここにはないと丸山がいうとき、それは何を意味するのか。

  『我が闘争』が日本ファシズムにはないということは、最初に引いた橋川の「解説」がいうように、日本ファシズムには「始まり」がないことを意味している。「始まり」がないとは、始まりを画する宣言といった言語的表明がないということである。言語的表明がないということは、始まりを告げるような確信的な表明主体がないということである。このように丸山が日本ファシズムには『我が闘争』はないということは、私が上に「ここには時代と社会のファショ化を主導するイデオロギーがあり、そのイデオロギーを担う主体と組織と運動とがある」といったファシズム運動の一般形としては日本ファシズムを見ないことを意味する。丸山は日本ファシズムをファシズムの特異形として見るのである。「超国家主義」とはこの特異形としての日本ファシズムをいうのである。この特異形としての日本ファシズムを叙述する丸山の論文「超国家主義の論理と心理」は、この日本ファシズムという特異形、あるいはむしろ奇形に対して嫌悪感を含んだサチールをしばしば浴びせかける。「慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。この意味に於いて、東条英機氏は日本的政治のシンボルと言い得る。」

   日本ファシズムには始まりもなければ、始まりを告げる言葉も主体もない。では何があるのか。ここにあるのは日本的特異形としての国家、すなわち天皇制的国家があるのである。ここでは国家の存立そのものが、「国民の心的傾向なり行動なりを一定の溝に流し込むところの心理的な強制力」をともなったものとして、あるいはそうした心理的な強制力をたえず生み出す権威的源泉としてあるのである。日本ファシズムの特異性とは日本的国家の特異性である。日本ファシズムはこの日本的国家と国家主義の特異性が生み出すものとして「超国家主義」=極端な国家主義といわれるのである。

3 〈国体論的国家〉

   丸山は特異形としての日本的国家を、例によって東西の対比的視角による特質化をもってしている。いま西の〈国家類型〉が丸山によってどのように構成されるかを見てみよう。

  「ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットがいうように、中性国家(Ein neutraler Staat)たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関しては中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。」

   丸山はここで〈中性国家〉を近代国家の理念型として記述しているのではない。西側・ヨーロッパの近代国家を〈中性国家〉として特質化し、記述しているのである。この記述はすでに虚構である。この〈中性国家〉の記述は、その反対側に〈反・中性国家〉を導くための虚構である。東西の対比的視角による東の国家・社会の特質化的記述は虚構の記述となることを免れない。私はカール・シュミットを呼び出してする丸山の〈中性国家〉の理念型的記述を読みながら、『日本政治思想史研究』で丸山が構成する荻生徂徠の〈作為的社会〉像の記述を思い起こした。「超国家主義の論理と心理」のこの一節を読みながら、あたかも『日本政治思想史研究』の徂徠論の一節を読んでいるかのような錯覚を私はおぼえた。制作主体を前提にもった〈作為的社会〉としてヨーロッパ近代社会像を理念型的に構築し、それを徂徠の〈先王の道〉をめぐる儒家的政治思想に読み入れ、近代に先駆する徂徠の〈作為的社会〉像を丸山はでっち上げ的に構築し、記述するのである。こうしてわれわれが『日本政治思想史研究』に読まされるのは、徂徠の〈作為的社会〉像を江戸に置き忘れて近代化する日本国家社会の前近代的な国家社会構成と思惟様式の持続である。

   明治の啓蒙期にヨーロッパ〈近代〉の虚構的理念型的構成が意味をもったのは、近代化の教えとしてであった。福沢の『文明論之概略』などはそのもっとも良質な例であろう。だが近代先進国家米英との総力戦に敗れた1946年の戦後日本にとって、ー総力戦を戦いうるということは日本もまた近代先進国家であったことを意味するーヨーロッパ〈近代〉の虚構的理念型化の言説はなお教えとしての意味をもっていたのだろうか。それは福沢を唯一の師とする丸山による再度の、そして真正の近代化の教説なのか。それともこれは丸山による西欧近代の対極像としての前近代国家日本の呪詛をこめた否定的再構築の言説であるのか。

   丸山はヨーロッパにおける近代〈中性国家〉の形成過程を、「(政治と宗教との間の熾烈な確執は)かくして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で妥協が行われ、思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内部が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収されたのである」と記述していく。ヨーロッパ近代の〈中性国家〉の丸山における理念型的成立とともに、あるいはその成立を前提にしてはじめて〈反・中性国家〉としての日本的国家が記述されることになる。丸山による日本的国家の記述を見よう。

  「日本は明治以後の近代国家の形成過程に於て嘗てこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。」

  「そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体としての価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。」

  「国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立し得ないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内部的なそれなのである。」

  〈中性国家〉の対極に構成されてくるのは、価値的な実体としての国家である。この価値的実体としての国家である。この価値的実体としての国家とは、19世紀終わりの東アジアで国家の自立的存立をかけた日本が国家に与えていった無二の国家性ナショナリティーである。この無二の国家性を天皇と国家と国民の同時的成立をいう創成神話をもって修飾し、それを「国体」として日本の近代国家存立の理念的基盤としていったのである。

   私がいいたいのは丸山がいう「価値的実体」としての国家、あるいは「国体」論的国家とは明治日本が創りだした国家だということである。それは決して近代日本に成立する国家が自ずから備える性格ではない。福沢は『文明論之概略』で明治初年の国民は〈中性国家〉をとるか、〈国体論的国家〉をとるかの重大な選択を迫られていることをいっている。1875年の福沢において〈中性国家〉はなお可能な国民の選択肢であった。だが1946年の丸山にとって〈中性国家〉は近代日本における〈国体論的国家〉の運命的な肥大を呪詛を以て描き出すための虚構の理念型である。丸山は日本国家の国体論的存立を日本の近代国家の特異性としてとらえ、国体論的国家主義の過剰の展開を〈超国家主義〉として記述していった。

   〈超国家主義〉が日本的全体主義であるのは、それが〈国体論的国家〉への国民の身体的、精神的統合を強制し、あるいは内部からうながす国家主義的支配の体系であるからであろう。ここで丸山の〈超国家主義〉的支配の分析の特異性は、〈国体論的国家〉の存立そのものが生み出す、国民の支配ー服従の特異な心理過程の分析的な記述にある。丸山は国民の支配ー服従の心理過程を陸軍内務班に象徴的に見ながら有名な「抑圧の移譲」という権力支配のあり方を描き出す。

  「さて又、こうした自由な主体意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが保持されている体系である。」

  この「抑圧の移譲」という支配ー服従の体系は天皇制国家の支配ー服従の体系にほかならない。

  「天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。」

   丸山の「超国家主義の論理と心理」への人びとの称賛は、ほとんどこれらの天皇制国家の支配ー服従の社会心理学的な記述への称賛に行きつく。人びとは争ってこれを引用し、この引用をもって日本ファシズムへの追及を止めてしまった。そのとき人びとは丸山とともに日本ファシズムを隠蔽し、見逃してしまったことに気付かない。


4 日本ファシズムには始まりがある

   日本ファシズムには始まりがないと丸山はいう。彼はこれを日本ファシズムには『我が闘争』がないといういい方でしていた。丸山という現代日本の代表的知識人のこの臭みのあるいい方は、二つのことを意味している。一つには日本ファシズムを〈国体論的国家主義〉の始まりのない漸進的な過激化としてとらえることである。二つには丸山の日本ファシズムの記述は日本的特異性の記述に終始することである。この二つは日本ファシズムを丸山が〈超国家主義〉として概念構成することの両面である。

   丸山は日本ファシズムを〈超国家主義〉として概念構成することによって、すなわち日本ファシズムを〈国体論的国家論〉の問題に還元してしまって、1930年代における世界史的全体主義の成立の問題から切り離してしまう。ドイツ・ナチズムは丸山において日本ファシズムの特異性を暴き出す理念型になってしまう。これは丸山政治学の根底的な間違いである。

   日本ファシズムを世界史的全体主義との関連の中で見るならば、日本ファシズムは昭和ファシズムとして成立した時期をはっきりともつことになる。その時期とは1931(昭和6)年の満州事変が起こった時期である。総力戦を可能にする日本の全体主義的体制下がこの事変とともに始まったのである。全体主義化する昭和日本のただ中に生まれた私はもとよりこの変化を知ることはなかった。だが丸山たちの世代は満州事変とともに始まる日本の体制的変化に気付いたはずである。にもかかわらず丸山は敗戦の翌年に日本ファシズムを始まりのない〈超国家主義〉として、ファシズムの日本的特異型として記述した。「超国家主義の論理と心理」は大きな評価をえた。だがこの論文の成功とともに日本ファシズムをその張本人どもとともにわれわれは見逃してしまったのである。

   われわれはいま安倍と日本会議に日本ファシズムの21世紀的再生を見ている。これは世界的に見て他に例をみない事態である。

  なぜ我々は世界に例を見ない戦前ファシズムの再生復活を許してしまったのか。私は慙愧の思いで戦後過程を振り返っている。われわれは日本ファシズムを見逃してきたのではないか。丸山の「超国家主義の論理と心理」はこの見逃しの一因をなしているのではないか。

子安宣邦 (大阪大学名誉教授)

※本稿は子安氏のブログからの転載です。


注釈

[1] 丸山眞男「日本ファシズムの思想と運動」『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964.

[2] 丸山の「超国家主義の論理と心理」は敗戦の翌年(1946年)の『世界』の5月号に掲載された。私がいま見ているのは上掲『増補版 現代政治の思想と行動』所収のものである。」

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602112350414

ショーンKの詐称問題/IWJ・メルマガより

2016-03-18 15:09:24 | 報道
「 おはようございます!IWJで記者をしている佐々木隼也と申します。

 またしても「文春砲」が炸裂しました。一昨日発売の『週刊文春』で、イケメンのテレビコメンテーターとして活躍する自称・経営コンサルタントの「ショーンK」さんこと、ショーン・マクアードル川上さんの「学歴詐称」が暴かれたのです。テレビでもネットでも大騒ぎとなっており、このニュースがいくつも目に入ります。

 その「詐称」の中身を見て、久々に「え~!」と驚きました。「ハーバード大学院(MBA)卒」や「パリ大学留学」が嘘で、実際はオープン授業やオープンキャンパスに行っただけだった、というのは言うに及ばず、「テンプル大学卒」が嘘どころか、実際には大学に行ったこともなく、高卒だったのですから。ものすごい「盛り方」ですね。

 さらに肩書きの「経営コンサルタント」というのも嘘で、実際は実態のないペーパーカンパニーであり、その会社の共同経営者としてHPに掲載されていた「ジョン・G・マクガバン」なる人物も実在せず、無関係な人物の写真を無断使用していたそうです。「学歴」だけでなく「職歴」「経歴」もまるまる詐称しているわけです。これは…もはや「詐欺師」といってもよいレベルですね…。さらには、日本と米国とのハーフという出自も嘘なのでは…?甘いマスクも、実は整形なのでは…?との疑惑まで囁かれています。

 しかし、この15年間、名だたる企業経営者や経済関係者向けに講演活動などを行っていたショーンさん。よくバレなかったですよね…。財界人といえば、賢い人たちの集まりだと思われていますが、経済や金融の世界といっても案外、「薄っぺらな知識」と「演技力(表現力?)」、そして「整った見た目」さえあればコロッとだまされてしまう、ということなのでしょうか。

 学歴を詐称することは、れっきとした犯罪であると冨本弁護士が、弁護士ドットコムのサイトで書いています。軽犯罪法1条15号には「『学位』を詐称した者は『拘留または科料に処する』」と書いてあるそうです。一昨日、岩上さんがツィートしています(岩上さんのツイート:http://bit.ly/1WtZbLy)。

 しかし、そうすると学歴や履歴が怪しい人が政界にもいます。あの人とか、あの人とか…。そういう人はどうなんでしょうか。気になりますね。なりますが、その話はまたにします。この問題では、また、ショーンさんを起用してきたテレビ局側の「責任」も問われています。

 真に経済に精通している専門家よりも、発言内容の中身より視聴率の稼げる「甘い声」「甘いマスク」という「ルックスの良さ」を重視する、そして日本の抱える経済問題の根本を真面目に分析したり問題点を真剣に指摘する人よりも、政治権力やスポンサーの機嫌を損なわないように、「当たり障りのないコメント」をしてくれる人物を選ぶ--。そうした「無難」なチョイスの積み重ねが、学歴・経歴を詐称し、中身がすっからかんの人物を報道ステーションのような国民的報道番組に起用するという失態に至ったのではないでしょうか。

 報道ステーションが、「官邸の圧力」に屈して(迎合して?)、元経済官僚の古賀茂明氏をコメンテーターから降板させたのは、ちょうど一年前の3月末のことでした。同時期に同じくテレビ朝日の「モーニングバード」を降板した岩上さんは、古賀さんの最後の出演の日に、テレ朝を出てきた直後の古賀さんを、青山墓地の前でつかまえて直撃インタビューしています。今、見直すと非常に感慨深いものがありますよ。ぜひ、アーカイブで御覧下さい。

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・2015/03/27 【速報】「報道ステーション」終了直後の古賀茂明氏に岩上安身が緊急直撃インタビュー!降板の内幕を衝撃暴露
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/240770
・2015/04/02 渦中の人が「報道ステーション」降板の全真相を激白! 「I am not
ABE」発言の真意――そして、官邸からの圧力の実態とは?~岩上安身による元経産官僚・古賀茂明氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/241205
・2015/05/29 「官邸からみれば『報ステは抑えたから大丈夫』」 重要な審議も総理の暴言も報道されない!?
メディア介入強める安倍政権に古賀茂明氏が憤り~岩上安身インタビュー!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/247178
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 あれから一年。メインキャスターの古舘伊知郎さんもこの3月末に降板します。そしてこの「学歴・経歴詐称」コメンテーター騒動…。昨日、今日、立ち腐れが始まったのではない、ということが実によくわかりますね。この問題はこうした「テレビの劣化」を浮き彫りにし、と同時に、それを許容してきた僕ら「情報を受け取る側の劣化」の結果ではないでしょうか。また、メディアに傲然と「圧力」を加える安倍政権を許してしまってきた「主権者・国民の劣化」でもあります。

 IWJは昨日、こうした権力(とそれが作り出す空気)におもねるテレビの劣化ぶりを象徴する、ある「怒り」の会見の動画記事をアップしました。高市早苗総務大臣の「電波停止」発言に対し、鳥越俊太郎さんなどテレビ関係者が立ち上がり、抗議の声をあげた会見です。この会見の質疑では、高市発言で一番影響を受けるはずのテレビ局から、誰一人として手が上がりませんでした。

 駆けつけたテレビ局が一様に沈黙する、この「異様」な会見の模様はぜひ、以下の記事よりご覧ください!

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・2016/02/29「これは、政治権力とメディアの戦争だ!」
田原総一朗氏、鳥越俊太郎氏、金平茂紀氏、岸井成格氏、青木理氏、大谷昭宏氏らテレビ放送関係者が高市総務大臣「電波停止」発言に「怒り」の抗議会見!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/289637
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 さらに鳥越さん、この会見でIWJ記者の直撃取材に応え、「IWJは、いつも読んでいる」とおっしゃっていただき、岩上さんによるインタビューも快諾していただきました!

 ということで、「岩上安身によるジャーナリスト・鳥越俊太郎氏インタビュー」、3月23日の13時から、中継します!!!みなさま、ぜひぜひ、ご覧になってください!!!!

 本日の日刊IWJガイドは以下の内容でお届けします!まずは気になる、ジャーナリスト・安田純平氏がシリアで拘束が確認されたニュースについて、原佑介記者からお伝えします!!…とその前に、中継番組表をご覧ください!」

思想史講座で「江戸思想を読む」 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)/ベリタより

2016-03-18 15:04:24 | 歴史
「  4月からの思想史講座で「江戸思想を読む」を始めます。その理由を書きます。福沢諭吉は明治の変革に際し、「一身にして二生を経るが如し」といっています。これは明治維新の体験を文明論的転換の体験としていったものです。

  しかし明治維新を文明論的転換としていうとき、その転換は非文明的な前近代社会から文明的な近代社会への転換として理解され、自覚されることになります。福沢だけではない。多くの日本人における明治の変革の体験というものは、そうした文明論的な転換の体験であったように思います。だが昭和の日本人にも継承されてきたこの文明論的転換の自覚は、はたして日本の近代を文化的、精神的に豊かにしたでしょうか。

  維新を文明論的転換として見るとき前近代として否定的に見られる江戸時代は知的、文化的に一つの成熟に達した時代です。この江戸を否定的にしか継承しない近代日本は自らを貧しくさせていると思わざるをえません。精神的にいよいよ貧しい現代日本にあって、己れ自身を豊かにするものとして、「一身にして二生を経る」体験をもう一度、受け身ではなく積極的に追体験してみようではありませんか。これが私の思想史講座で「江戸思想」を読む理由です。


子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)


■子安宣邦さん
  思想史家として近代日本の読み直しを進めながら、現代の諸問題についても積極的に発言している。東京、大阪、京都の市民講座で毎月、「論語」「仁斎・童子問」「歎異抄の近代」の講義をしている。近著『近代の超克とは何か』『和辻倫理学を読む』『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社)
(子安氏のツイッターから)

■子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/



■「中国問題」と私のかかわり ~語り終えざる講演の全文~ 子安宣邦(大阪大学名誉教授 近世日本思想史)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201512072209271

■<大正>を読む 子安宣邦 和辻と「偶像の再興」-津田批判としての和辻「日本古代文化」論
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602111256064

■丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を読む ~丸山の「超国家主義」論は何を見逃したか~ 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602112350414

■「日本思想史の成立」について-「台湾思想史」を考えるに当たって 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602262033155

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603171506134

彼にみなさんが騙された理由/小田島隆

2016-03-18 14:54:33 | 報道
「 テレビの情報番組などでコメンテーターとして活躍していた男性が、経歴を詐称していたということで、ちょっとした騒ぎになっている。

 この2日ほどのうちにいくつかのメディアが報道した内容を総合してみるに、件の人物の詐称はなかなか念が入っている。最初の学歴からはじまって、留学経験、MBA資格から、経営コンサルタントとしての業務実態、年商、オフィスの住所、本名、出自に至るまでの一通りの要素が「ウソ」であったことが既に明らかになっており、「イケメン」として厚遇される理由になっていた顔も、美容整形の結果である可能性が濃厚なのだという。

 この結果に世間が驚いているのかというと、もちろん驚いている人たちもたくさんいるのだが、ネット内の評判では

「そんな気がしていた」

 という声が、意外なほど大きい。

「最初からあやしいと思っていた」
「一目見てうさんくさいヤツだと確信していた」
「あの鼻はなにごとだと常々不審に感じていました」

 と、彼らは異口同音に、当該の人物について、以前から不審を感じていた旨を訴えている。

 無論、大方の事実が判明してから後乗りで自らの慧眼をアピールしにかかっている人たちもいるはずだ。
 そうでなくても、私たちは、おしなべて、そうなってしまってからそんな気がしていたような気持ちを抱きがちな傾きを備えているものだ。

 とはいえ、実際に

「ほら、2年前にオレは《うさんくさい》と書いてるぞ」
「オレなんか震災前から一貫して何回も《インチキくさい》と繰り返しアピールしている」

 と、目に見える証拠を提示した上で彼の人物への疑惑を語っている人々の例も少なくない。

 いずれにせよ、話題の彼が、ずいぶん前から、かなり広範囲の人々に、そこはかとなく怪しまれていたことは事実であるようだ。

 私自身は、なんとなく奇妙な印象を抱いてはいたものの、「怪しい」とまでは思っていなかった。
 というよりも、絵に描いたようなイケメンに偏見を抱きがちな自分の偏狭さをいましめていたりした。
 まして、経歴詐称を疑うところまではまったく踏み込めていなかった。
 まあ、人間を見る目がなかったということなのだと思う。無念だ。

 ずいぶん前に、人間についてではないが、食品偽装に関連して、「フェイク(偽物)はフォニー(インチキ)の周辺に発生する」という主旨の原稿を書いたことがある。フェイク商品(贋造品)が発生するのは、そもそも真似をされる側のブツがインチキくさいからだ、という、ちょっと乱暴なお話だ。

 松阪牛や関サバに偽装食品が発生するのは、オリジナルとされている食品の値段が、その品質に比して、不当に高価だからだ(と私は思っている)。
 適正な価格で販売されている良心的な商品にフェイクは発生しない。

 というのも、ギリギリの利益率で流通している商品をパクったところで、ほとんど差益は生まれないし、もともと高品質な商品をパクるためには高度な技術が必要で、その高度な技術を実現するためにはそれなりのコストがかかるからだ。

 とすれば、たいして品質が高いわけでもないのに分不相応な高値で売られているブツの偽物を作る方が仕事として有望であるに決まっているし、事実、フェイク業者は、ブランド信仰のゆえなのか、消費者の無知に由来するものなのか、異常な関税のしからしむるところなのか、理由はどうであれ、品質に比してはるかに高い取引価格で流通している物品の偽物をもっぱら製造・販売する方針で、彼らの商売をドライブさせているのである。

 たとえば、ある種のブランド物のバッグは、製造原価の数十倍以上の値段で販売されている。

 強力なブランドを持たない業者が手がければ5万円で売って十分に利益が出る商品を、ブランド販売業者は60万円だとか100万円という信じがたい価格で流通させている。

 この価格は、普通に考えればもちろんあからさまな不当価格であり、ブランドの評判そのものも、どこからどう見ても下駄を履いた評価だ。
 が、製造しているメーカーも、それを売る販売業者も、さらにはそれを購入することになる消費者も、全員がこの価格になぜなのか、納得している。

 メーカーおよび流通小売業者は、値段が高ければ高いほど儲けが大きくなるのだからして、著しく高価な価格設定に満足するのは当然だ。ここについては疑問はない。

 では、製造原価の何十倍もの高値でブツを買わされることになる買い手が、どうしてそのバカな価格に納得しているのかというと、彼(または彼女)が当該のバッグを購入する目的が、そのバッグを入れ物として使用するためというよりは、高価な持ち物として他人にひけらかすためだからだ。

 その種の衒示的消費のための商品の価格は、誰の目にも分かる形で高価さをアピールしていることが望ましい。

 かくして、世間で有名な高級ブランド物バッグは、その高品質ゆえにではなく、高価さゆえに珍重される。そして、それを買った人間は、高品質なバッグを選ぶ鑑識眼の高さを強調すること以上に、高価なバッグを持ち歩くことのできる経済力を内外に誇示しようとする。今さらあげつらうのもなんだが、まったく、なんというバカな話だろうか。

 情報番組のコメンテーターが経歴を詐称するに至る事情は、どこの馬の骨とも分からないそこいらへんの名もない牛肉(というのはたしかにちょっと変な言い方ではあるが)が松阪産であることを騙ったり、下町の町工場で作られている革製のバッグが、フランス名前のブランドの刻印を伴って市場に投入される経緯と似ていなくもない。

 どういうことなのかというと、実際にはたいしたスキルがなくてもできる仕事の背景を粉飾するための見せかけの看板である以上、それが詐称であったところでたいした違いは無いということだ。

 たとえばこれが、ガチなアカデミズムの世界だったり、実際にメスを手に取って患者の腹腔なり頭蓋なりを切り開いて施術をせねばならない臨床医の世界であれば、資格や学歴を詐称したところで、そんなことは何の役にも立たない。偽物は一発でバレてしまう。

 料理人の世界でも大工の現場でも同じだ。ウデの無い職人が、書類上の資格を偽造して職を得たところで、包丁を握るなり鋸を挽くなりしてみれば、その場で彼が偽物であることは誰の目にも明らかになる。

 ところが、コメンテーターの世界では、詐称がうまうまとまかり通る。
 MBAを持っているかのごとくふるまっていれば、見ている者には、そのように見える。
 年商三十億円の会社を切り回していますと言い張れば、言われた方は案外信用してしまったりする。

 出た学校の名前も、事務所の住所も、それがウソだったからといって、ただちに見破られるような属性でもない。
 なぜなら、しょせんは飾りだからだ。

 というよりも、「フェイクはフォニーの周辺に発生する」という原則に沿って述べるなら、テレビのニュースショーや情報ワイド番組の周辺に、フェイクな肩書を伴った人物が潜り込んだことは、そこで獲得できる仕事口が、ある程度誰にでもできる難易度の低い業務であるにもかからわらず、不相応に高い社会的評価と知名度をもたらすフォニーな仕事であったことを意味している。

 あるいは、経歴をそれらしく飾り立てるための能力と、ランダムに発生する事件にそれらしいコメントを添えてみせる能力は、そんなに遠いものではないということでもある。

 というのも、自分の専門分野と特段の関連もない日々の出来事に事寄せて、凡庸でこそないものの、独特過ぎることもない、最終的に無難なコメントをとっさのアドリブで供給し続けるために必要な資質は、経歴を詐称した状態で世間に対峙している病的な嘘つきが、自分の身辺の細部に散りばめられた大小のウソを、破綻させることなく運営していく中で培ってきた「場の空気を読む能力」とほとんど同じもので、つまるところ、ニュースへのコメントの大きな部分は、擬似的な大衆の反応をパイロットしてみせる感情の偽装みたいなものだからだ。

 いや、私は、ワイドショーのコメンテーターという職業が、詐欺師もどきのインチキ商売だと言っているのではない。
 全然違う。
 私は、優秀な詐欺師なら優秀なコメンテーターがつとまるはずだ、ということを申し上げているに過ぎない。

 似ているようでいて、この二つの意味するところはかなり違う。
 優秀な詐欺師は、優秀なコメンテーターとして通用する。
 が、優秀なコメンテーターだからといって、優秀な詐欺師になれるとは限らない。
 つまり、詐欺師の方が、より幅広い能力を要求される職業なのである。

 別の側面について言えば、コメンテーターに期待される資質の大きな部分はその誠実さに関連している。が、詐欺師の業務において、誠実さは、無能さと区別がつかない。

 私はコメンテーターを腐したいのではない。
 ただ、フォニーの周辺にはフェイクが発生するということをもう一度申し上げるのみだ。

 いやいや、どうせ適当なことを言うだけの仕事に、マジな肩書きもフェイクな肩書きもあるものか、と言いたいのではない。
 私がこの際強調しておきたいのは、コメンテーターがフェイクな肩書きを名乗ったのは、われわれ聴き手の側が、コメンテーターの言葉よりも、彼の肩書きを重視していたことの当然の帰結なのではなかろうかということだったりする。

 つまり、お互い様だということだ。

 もっとも、コメンテーターは、たぶんハタから見ているほど簡単な仕事ではない。
 彼らの仕事の大半は、無難なコメントを発信することに費やされているわけだが、すべてのコメントがあまりにも無難過ぎると、それはそれで商売にならない。

 時には、ビビッドな感情のきらめきや、スリリングな断言や、皮肉の効いたまぜっかえしや、アブないコメントを織り交ぜておかないと視聴者にナメられる。
 ストライクしか投げないピッチャーがいつしかつるべ打ちに遭う成り行きと同じだ。
 3球に1球はボール球を投げなければいけない。
 1シーズンにひとつやふたつはデッドボールも投げた方が良いのかもしれない。
 その方がピッチングに幅が出る。

 とはいえ、暴投はいけない。バッターのアタマに当てることも絶対に避けなければならない。
 とすると、ストライクゾーンの出し入れやら、変化球の切れ味やらを考えると、コメンテーターという商売も、これはこれで、なかなか精妙な技術を要する職人仕事なのかもしれない。

 問題は、コメンテーターの死命を決する能力である、ストライクゾーンを見極める目や、その日のアンパイヤの判定の傾向をいち早く感知するセンスにおいて卓抜な力を発揮するのが、フェイクな人たちだったりすることだ。

 嘘つきは、常に人々の顔色を見ている。

 誰が自分の言葉に不審を抱き、自分の発したどの言葉が相手にアピールしているのかを、他人を騙すことを生業としている人間たちは、四六時中見極めようとしている。というよりも、日常的にウソをついている人間は、ウソがバレるギリギリのボーダーを常に意識しているわけで、その意味において、空気読みの達人なのである。

 その点、正直な人間は、いまひとつ他人の評価に鈍感だ。
 自分が本当のことを言っていることを強く自覚している人間は、他人に好まれていようが疎まれていようが、たいして気にとめない。自分だけが正しければそれで十分だと思っている。

 そういう人間は、コメンテーターには向かない。
 視聴者の目から見て、独善的に映るからでもあるし、スタジオの空気を読むことを怠るからでもある。

 と、正直なコメンテーターは、時に舌っ足らずでもあれば、時に暴走することにもなるわけで、結局のところ、通常業務として穏当なコメントを安定供給することができない。

 詐欺師は、言葉を紡ぐ能力に秀でているだけでなく、他人の気持ちを先読みする能力にも長けている。
 彼は、対面している人間の感情を高揚させたり、落ち着かせたりする方法に精通しており、自分を囲む人間たちが望んでいる感情をその場で言葉にして手のひらの上に現出させる技術を生まれながらに身に着けている。

 別の言葉で言うなら、彼には「魅力」がある。
 とすれば、こんなに素敵なコメンテーターはいないではないか。

 詐称は、簡単なタスクではない。
 詐称によって得られるものと、詐称が発覚した時に失うものを勘案してみれば、ふつうの人間は、詐称をしようとは考えない。

 MBAを持っているからといって、それだけですべてが手に入るわけではない。自分の言葉に、ちょっとしたオーラを付け加える以上の効果は無いと言って良い。ひるがえって、MBA資格のアナウンスがウソであることが発覚した場合、彼は、すべてを失うことになる。
 こんな割に合わない取引があるだろうか。

 逆に言えば、これほどまでにリスキーなチャレンジに乗り出すのは、よほど並外れた自信家であるのか、でなければ、どこかしら精神を病んでいる人間に限られるということだ。

 経歴詐称は、ゴルフのスコア改竄に似ているかもしれない。
 スコアを1つか2つごまかしたからといって、得られるのは、その場のちょっとした虚栄心の満足だけだ。

 賭けゴルフに興じていた場合、何らかの報酬があるかもしれない。が、いずれにせよ、報酬は知れている。
 対して、改竄が発覚した場合のリスクはずっと大きい。
 おそらく、彼は、ほとんどすべてのゴルフ仲間を失うことになる。

 そうまでしてスコアをごまかす必要があるだろうか……という、この、普通の人間なら普通に持っているはずの普通の常識が、スコアをごまかす人間にとっては、つけ込みどころになる。彼らは、「スコアをごまかすゴルファーなんているはずがない」という常識を利用して、その裏をかく形で、スコアをごまかしている。このあたりの機微は、ゲームのようでもある。あるいは、病的な嘘つきは、このスリルに嗜癖しているのかもしれない。

 結論を述べる。
 詐欺師とコメンテーターという、よく似た資質を要求される対照的な仕事を割り振る上で、大切なのは、コメンテーターを起用する側のリテラシー(鑑識眼)だ。

 詐欺師もコメンテーターも、人間を扱う仕事で、だからこそ彼らは、人を誘惑するのが上手だ。
 とすれば、その彼らを起用する側の人間は、それ以上に人間を見る目の達人であらねばならない。

 この何年かの間に、「メディア・リテラシー」という言葉をメディアの人間が平気な顔で使う場面に遭遇してびっくりしたことが何度かある。

 メディアの人間がメディア・リテラシーを語ることは、評価される側の人間が評価の仕方を教えている話型の説教になる。これは、話のスジとしておかしい。個人的には、「ラーメンの味わい方」みたいな説教ポスターを店内に掲示しているラーメン屋みたいな傲慢さを感じさせて、大変によろしくないと思っている。

 受け手の側から見た「メディアの読み取り方」を意味する言葉だったはずの「メディア・リテラシー」は、いつしか、報道被害の責任や番組制作上の怠慢を視聴者の側に転嫁する際のキーワードになり、さらには「バカは黙ってろよ」という、送り手の増長慢を反映した捨て台詞に変化し、最終的には、メディア自身の自意識(リテラシー)の欠如を物語る、大変にたちの悪い用語になってしまっている。

 経歴詐称コメンテーターについて言えば、視聴者に対してメディア・リテラシーの向上を要求することの多くなったテレビの中の人たちが、自分たちの起用するタレントや文化人について、人間を見極めるリテラシーを欠いているのだからして、こんなに皮肉な話はないと思っている。

 ネット内の書き込みをしばらく掘り進めてみればわかることだが、今回の一連の報道で経歴詐称が公式に発覚する以前の段階で、話題のホラッチョタレントのうさんくささを指摘していた人たちは、ごく早い時期の書き込みを含めて、決して少なくない。

 液晶画面を通した印象だけで、これだけの人が疑念を抱いていたのに、現場で本人と直に接していた共演者や契約関係者は、誰一人として、彼のうさんくささに気づいていなかったのだろうか。

 あるいは、あやしいと内心思いながらも、無気力と惰性で現場の仕事を存続させることを優先させていたということなのだろうか。

 それとも、優秀な嘘つきは、遠くに立っている人間よりも、より近くにいる人間をより深く騙すものなのだろうか。

 経歴より大切なものがあることは、誰もが知っていることだ。
 が、その経歴よりも大切なものを見極める目を持っていない人間は、結局のところ、フェイクであれ、ホラッチョであれ、書類に書いてある経歴で人を判断することしかできない。

 ひとつはっきりしているのは、ホラッチョ氏の詐称で一番傷ついている被害者は、局の関係者でもスタジオの共演者でもなくて、人間を見極める目を持たない人たちの作った番組を見せられていた視聴者だったいうことだ。

 ホラッチョを疑っていなかった過去の自分を、いまになって疑わなければならなくなっている私などは、最も苛烈な被害を受けたひとりかもしれない。

 彼はとんでもないものを盗んでいきました。私の自尊心です。ああ悔しい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)」

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031700036/?P=1

トランプこそアメリカの素顔

2016-03-18 14:23:03 |  北米
 トランプおろしが激しい。アメリカの共和党「主流派」や主流のメディアがその中心だとされる。

 あたかも主流派が大統領を送り出せなければアメリカの政治は間違った方向に進み、出せば正義が実現されるかのようである。

 本当だろうか。

 共和党主流派の政権、例えばブッシュジュニアの政権が何をやったか思い出してみればよい。

 彼の時中東が破壊され、今日のテロと難民があふれかえる原因となったのではなかったか。

 共和党主流派の政治とは軍産複合体がエンジョイできる政治であり、エネルギー産業が大もうけできる政治である。レーガン、ブッシュ・シニア、全員がそうだ。(民主党も同様だがここではふれない)

 共和党主流派が懸念しているのは、トランプが余りにも粗雑に振る舞って、共和党政治の水準を世界にばくろしてしまうことである。

 いってみれば自民党の杉村大蔵のように、ペラペラと本音で共和党の本心を暴露してしまうことを恐れているだけである。

 もう一つ心配事があるとすれば、自分たちの完全なパペット(カイライ)2ならないかもしれない、ということだろう。

 どちらにしても外部の人間にとっては大同小異。

 どちらに転んでも大してましなことにはならないだろう。

北朝鮮の核ミサイルは本当に恐れるに足りるか? /スプートニクより

2016-03-18 14:03:52 | 軍事
「北朝鮮がミサイルや核技術の分野で大きな進歩を遂げたのは事実だが、すべての問題が克服されたわけではない。ロシアの軍事専門家ウラジーミル・エフセーエフ氏はそう語る。

「ある情報によると、北朝鮮の第三の核実験では、核弾頭に使用可能な、相当小型の核爆弾が用いられた。今年2月の初めに重量200㎏もの衛星が打ち上げられたことも、北朝鮮の技術が進歩していることの証だ。『北朝鮮は熱核兵器の開発に取り組んでいる』との情報もある。しかし、こうした開発には、非常に多額の資金が必要だ。ゆえに、おそらく、今後数年間でこうした兵器が完成されることはない。しかし、北朝鮮は、核爆弾をブースト、つまり、強化することは出来るだろう。核爆弾の威力が20キロトン程度にまで高められる可能性はある。ただ、目下、北朝鮮は、緻密な大気の層を通る際に弾頭を保護するための耐熱コーティング技術に集中している。このようなコーティングがなければ、ミサイル本体の燃焼と損失は不可避である。この問題が解決されたら、次のステップは、弾頭の飛行試験を行い、遠隔測定データを集めることである。それなくして、弾道ミサイルを用いて核弾頭を正確にターゲットに届けることは出来ない。こうしたテストがすべて完了してはじめて、『北朝鮮は戦略的抑止力を手にした』と言える。韓国や日本は強力なミサイル防衛システムを持っている。自由落下型核兵器を持っていても、それで有効な攻撃ができるとは限らないのだ」

しかし北朝鮮は、ロシアと中国を含む国際社会全体の支持のもと採択された、国連安全保障理事会による厳しい制裁を受けている。こんな中でどうやって、核ミサイル開発に必要な技術を取得できるのか。エフセーエフ氏は次のように語る。

「基本的な部品や技術は、すでに北朝鮮は持っているのだと思う。また、国連決議によって、北朝鮮への物資の輸送は検査を受けているが、だからといって、核開発につながるような資材が、たとえば中国・北朝鮮の国境を通って、送られていないかどうか、絶対的な保証はない。加えて、制裁の中で技術や特定の機器が秘密裏に譲渡されたケースは、これまでにもあった。その点は理解しておくべきだ。そのことは一番最近の人工衛星打ち上げによっても確認されている。ロケットの一段目の打ち上げに西側の技術の適用の痕跡が見つかったのだ。また、耐熱コーティングの開発にドネプロペトロフスク市にあるウクライナの設計事務所『ユジュマシ』が携わっていることを示す間接的な証拠もある。これが事実なら、旧ソ連圏から北朝鮮への重大な技術漏洩がある、ということになる。加えて、北朝鮮が中国の耐熱コーティングを使用していることも知られている。これは以前、中距離弾道ミサイルに使用されていたものだ」

北朝鮮が核ミサイル開発を進めたなら、韓国領土にミサイル防衛システムが大規模に展開されることになるだろう。イスラエルのミサイル防衛システムによく似た、様々なレベルの兵器が配備される。そうなれば、朝鮮半島のミサイル軍拡競争は活性化するだろう、とウラジーミル・エフセーエフ氏は語る。


続きを読む http://jp.sputniknews.com/opinion/20160318/1800039.html#ixzz43EBmvmrr」

http://jp.sputniknews.com/opinion/20160318/1800039.html

世界の進歩に取り残されるアラブ ―ヨルダン知識人の自己批判―/メリムより

2016-03-18 13:34:02 | 中東
「思想、哲学、科学、社会、教育、文化、創造活動の面で、世界は日々進歩している。後進的な男女差別の思考からも解放されようとしている…。

これは、アラブ地域から離れた諸国で起きている。そこでは彼等は科学、文化を発展させ、人文、科学、芸術等でトップをめざして競いあっている。一方我々は、この面のすべてにおいて底辺で停滞しているのである。いくつかの国では、このような活動が全然見られない。

平和、医学、生理化学、物理、経済及び文学のノーベル賞受賞者を生み出すのは、前述の諸国であり、アラブは殆んどいない。授賞式では聴衆席にいるか、テレビで見るだけである。

我々は、かつての栄光を思い出して、我々自身を慰めるだけである。かつてはムスリムに研究者や思想家がいた。例えば、アル・ラジ※2、アル・ファラビ※3、イブン・シーナー※4、アル・キンディ※5、イブン・ルシュド※6、イブン・ハルドゥーン※7などがいた。我々が誇りに思うそのような錚々たる人物の大半は、非アラブ人であったし、礫打ちの刑で殺され或いは投獄され、著書を焼かれ、或いは異端として非難された。それでも我々は人文及び文化上の理由から彼等を誇りに思う…。

我々の問題は、ノーベル賞をとれないことにとどまらない。思想の自由、人権、メディア、ジェンダー、環境、水、腐敗撲滅戦争等の面で尊敬すべき地位にない。問題はそこにある。すべての分野で我方諸国は最後尾に位置する。

オリンピックに出場すれば、我方諸国は、〝参加すること(だけに)意義あり〟の状態で、メダルを狙う段になると、自前の選手に期待できないので、他国の有望選手に国籍を与えて、出場させることになる。我々の代表になったコモロ島の選手が、 金メダルをとれば、あたかも彼がエルサレムを解放したかのように、大騒ぎする(注、コロモはイスラム連邦)。ケニヤ、ギニア、或いはシエラレオネは、アラブ諸国が束になっても敵わない。22ヶ国がメダルひとつで大騒ぎするのに、彼等はその10倍はとり、更にその上をめざす。経済力からいえば全然比較にならない。いくつかの国―多分すべてのアラブが―ケニヤ、シエラレオネ等より収入が多いだろう。しかし何十億何百億という金は、スポーツクラブなどに浪費され、人材育成に投資されることはない。

我々は、前進する代りにすべての分野で逆走している。スポーツで劣り、芸術では誰もいない。政治の分野では人質同様、列強の言いなりである。動きを期待されれば動き、沈黙を要求されれば黙る。経済面でみると、我々は福祉国家ではない。イデオロギー面では我々が影響されることがあっても、影響力を及ぼすことはない。人道面では我々は他者を受入れず、拒否する。我々は、我々と考えの違う者を不信心者として非難する。我々は常に正しく、世界が我々を打倒するため、陰謀を企てているとし、物事を論理的に考えようとしない。論理的帰結を受入れず、避ける。我々は、我々を互いに傷つけ殺し合っているのは我々自身であることを、認めることができない。互いに殺し合い血を流すのは、先祖の遺産を口実にしている。かれこれ1500年程になろうか。さまざまな流れと宗派間に民族的宗教的紛争の種をまく意図ありという口実である…。

諸君、我々の車はギアが逆走状態になっているので、前へ進めない。この間世界はどんどん進んだ。もう数世紀、恐らくは10世紀も我々は遅れている。我々は現世代のための船に乗り遅れている。現世代を矯正することはできない。手遅れである。我々は目をはっきり覚まして、資金と人材を次世代のために投資しなければならない。そうできるか。それが問題である。

※1 2016年1月6日付 Al-Ghad(ヨルダン)

※2 アル・ラジ(Abu Bakr Al-Razi 865-92)はペルシアの哲学者。アラビア語で執筆し、ムスリム世界の卓越した医者のひとり。

※3 アル・ファラビ(Abu Nasr Al-Farabi 872-950)ムスリムの数学者、科学者、医者、哲学者で、心理学、社会学、宇宙論、論理学、音楽、の諸分野で貢献があった。知識においてアリストテレスに次ぐ人物といわれ、第二の師として知られた。

※4 イブン・シーナー(Abu `Ali Hussein Ibn Al-Sina 980-1035)。ペルシアの医者、哲学者、科学者。科学史家G・サートンは、「史上最高の思想家で、医学者のひとり」と評している。

※5 アル・キンディ(Abu Yousuf Al-Kindi 801-873)。アラブ・ムスリムの哲学者、数学者、音楽家、医師。「アラブの哲学者」と呼ばれ、アラブ・イスラム哲学の父と考えられた。

※6 イブン・ルシュド(Abu Al-Walid Ibn Rushd 1126-1198)。ムスリムの医者、哲学者。スペインのコルドバに生まれ育ち、そこで仕事をした。中世ヨーロッパ哲学に大きい影響を与えた。

※7 イブン・ハルドゥーン(`Abu Al-Rahman Ibn Khaldun 1332-1406)。著名なアラブ人歴家、史料編纂者。史料編纂、社会学、及び経済学研究の父祖のひとりと考えられる。」

http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP633616