ある夜のこと
なんの前ぶれもなくぼくの夢枕に立ったのは
燕尾服を器用に着こなした
立派な身なりのマレーバクだった
シルックハットをちょこんと頭にのっけて
そのうえおしゃれなステッキまで手にしている
その姿はまるで往年の銀幕スター“フレッド・アステア”だ
とても変わったマレーバクだったけれど
なんといってもいちばん変わっていたのは
背中に翼のあることだった
天使のような小さな翼が
寝つけないのかい?
悪い夢なら食べてあげられるがね
バクはとつぜん現れたときと同じように
なんの前置きもなくいきなり語りかけてきた
その声はウッドベースのように深くて豊かに響くものだった
ところがちかごろのぼくときたら
思い悩むことさえ億劫で
見るべき悪夢すら無くしてしまったので
無言で力なく首を横にふるのがやっとというありさま
そうかそれはよかったよ
わたしもこのところまずい夢ばかり食べつづけでね
いいかげんうんざりしていたところなのさ
うす暗がりの中でウッドベースが静かに鳴り響く
ところできみは
身も心も疲れ果てているようだが
人生なんてさほどむずかしいものじゃないんだよ
と、燕尾服をきちんと着こなしたマレーバクは話しつづけた
背中で小さな翼がぱたぱたと音をたてている
だって
みんな平気な顔してやってるじゃないか
悲しくても苦しくても
泣きながら歯をくいしばりながら
心の中では叫び声をあげながらも
みんな平気な顔して暮らしてる
しかも、あろうことか
みんながみんな初心者だ
人生を二度生きたひとなんていないからね
だから人生を生きてくなんてことは
たいしたことじゃないんだよ
悲しみながら苦しみながら
泣きながら歯をくいしばりながら
心の中で叫び声をあげながら生きていく
ただそれだけのことなんだ
みんなやってることさ
けしてむずかしいことじゃない
マレーバクのフレッド・アステアは
それだけ言うと寝室の窓を開け放ち
背中の小さな翼をぱたぱたさせて
Que sera seraを口ずさみながら翔び去っていった
あとに残されたぼくは
あぁ、そんなものなのかなぁ
と、大きなあくびをひとつして寝返りをうった
☆絵:ファン・グリス☆