あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

みのもんたさん本当に佐藤ゆかりさんが好きなんですね(記事少し追加しました)

2005-10-31 14:46:36 | 政治・経済
 怖いもの見たさでつい見てしまう朝のワイドショーだけれど、今朝も朝から何度も「ばかじゃないの!」と呟いてしまった。この記事のタイトルからして品がないので嫌になってきますが。
 というわけで、今朝(10/31)の朝ズバッ!でのみのもんた。離党勧告を受けた野田聖子を痛烈にバッシング。おまけに彼女を当選させた岐阜県民までを批判していた。見ていた岐阜県民はどう思っただろうか。そして「佐藤ゆかりさんは被害者ですよ」と言っていた。「 みのもんたさん本当に佐藤ゆかりさんが好きなんですね 」あなたの単純で軽薄な正義感にはうんざりです。「地獄に落ちるよ!」と言いたいくらい。「被害者」っていったい・・・? 
 それにしても、(消えてしまった)野村沙知代、みのもんた、細木数子、石原都知事、等々、日本人は”恫喝コメントの人たち”に、いつまで喝采を送り、煽られ騙され洗脳され続けるのだろうか。

 こんな心にブレーキの無い日本人から九条をとっぱらったらとんでもない事になるのは火を見るより明らかだろう。

 若者の右傾化の特集をやっていた先日(10/26)のニュース23で「ネットに広がる”愛国心”」と題して、ふたりの対照的な若者が紹介されていた。ひとりはミュージシャン志望の「友人は皆結婚していってますね」と言っていた若者、もうひとりは、恵まれた環境で育ったおぼっちゃま然とした若者で「負け組にならないように全力を尽くす」と言っていた。ふたりとも靖国に日常的に参拝したり、ネットに書き込んだりしていることは同じようなことなのだが、ふたりの状況はかなり違う。後者のような持てる階層の者が保守化するのはわかるが、わからないのは、前者の現政権からの利益や権益からは最も遠いところにいると思われる明らかに負け組に定義されるであろう若者の保守化である。ふたりのしゃべりかたは、どちらもどこかで聞いたような言葉をばーっと一方的にしゃべるという生活の匂いがまったくしない空疎な観念性が目だっていました。時代の雰囲気や誰かの意図に素直に反応しやすい若者が狙い打ちにされたという印象、どちらも危なく壊れやすい印象を受けました。大人も似たり寄ったりなんですけどね。
 
 ところでひたひたと近寄っている大増税なんですが、前回、消費税が3%から5%にアップした時、レシートを見て「こんなに!」と驚いたのを覚えているが、2%アップしただけで、ずっしり家計への負担を感じたのに、今回言われているのは2%どころじゃないアップなのに、周囲からはあまり不満も不安も聞こえてこないですね。この国は大人も子どもも明日の生活の不安からは目をそらしているのだろうか。個人消費は間違いなく落ち込むでしょうに、財界からもあまり声が聞こえない。聞こえるのは、マスコミ周辺の高額所得者達の能天気なコメントばかり。やってられない。十円、二十円に汲々として家計をやりくりしている主婦の声や地方在住者の声は彼らにはどうでもいいのだろう。食料品や医薬品と贅沢品で消費税率を変えてほしいと貧乏人は切に思います。
 
 「マリー・アントワネットみたいな発言ができるひとはそんなにいないでしょう?」
 
 主婦の叫び: 「 消費税はiPodや高級家電だけにかかるんじゃない!」

追記:小泉改造内閣の感想を聞かれた民主前原代表の言葉、
   
 「サプライズもなく本気で改革に取り組む姿勢が見られていいんじゃないでしょうか。期待をこめてエールをおくりたい。」
 
   「 どこまで協力すれば気がすむんじゃ、前原! 」

 今や、民主党の存在感はあんたの発言とともに無くなりつつあるのに、何ですか、このコメントは?民主党を単なる補完勢力にするのが目的だったとしか思えません。「期待」「エール」って何ですか?お目出度さにもほどがあります。「ばかじゃないの!」
 選挙前に、テレビで放映された竹中VS菅対談での菅直人の竹中平蔵への切り込み方は、対談での相手の揚げ足取りに終始するという竹中氏の傲慢さといい加減さを露呈させて中々見ごたえがあった。菅直人はもう駄目で前原氏に期待したいという大方の世論の感想は只の印象を語ったものでしかないということは、これまでではっきりしたと思う。

ドン・キホーテ屋上絶叫マシーン計画のグロテスク(映画『春の雪』の宣伝に思ったこと)

2005-10-27 01:35:44 | ニュース
 最初から横道にそれますが、最近、妻夫木君主演の三島由紀夫原作の映画 『春の雪』 が盛んに宣伝されているのを見かけますが、私は多分見ないだろうなーと思ってます。何で今、三島なのか?というのは、 社会の右傾化ともリンクして、それに乗っかった三島の見直しなのだろうけれど、私が今ひとつ彼の作品に食指を動かされないのは、彼の勿体ぶった観念的な文体に対する決定的な違和感があるからです。あの文体が何か生理的にだめなのです。だったら、どんな文体が好みなのかと言うと、外国では、(翻訳ですが、)マルグリット・デュラス、日本では須賀敦子さんの抑制の効いた美しい文章、このふたりに尽きます。このふたりに共通するのは、デュラスが『ラマン』を書いたのも、須賀さんが『コルシア書店の仲間達』を書いたのも、彼女達の生涯の晩年と言ってもいい時期になってからだったという事ではないでしょうか。彼女達の中で、若い頃の自身の体験が発酵して熟成して、あの素晴らしい文体を伴った作品となるまでには、それだけの時間が必要だったということだと思います。『ラマン』のデュラスの文体で私が素晴らしいと思ったのは、中国人の愛人との別れのシーンの描写だった。この部分は何度読んでも凄いと思う。訳者の清水徹さんはデュラスの文体を、 「こころよい音楽をひびかせる文章が流れ、すこしも湿ったところのないうっすらとした叙情性がそこに浸透している」(訳者あとがきより)と述べられています。別れの時の彼女の声にも態度にも出さない慟哭と、彼女が大型客船での航海中に彼のことを思って泣くところの描写は見事としか言いようが無いです。映画の出来は酷かったので、原作を読んでない方は是非読んでみてください。フランスの硬質なエロティシズムはちょっとと言う方には須賀さんのほうをお勧めします。彼女の文章を読んでいると、ざわざわした心が静まって行く幸福感を感じます。
 
 と言うわけで、タイトルの本題に入りますが、何かいきなり話が下世話になってしまうので嫌になってしまいますが、首都東京の、外国人が最も訪れる六本木のビルの屋上で絶叫マシンに乗って叫び声を上げる自分達を想像して、そのグロテスクさにゾッとしない子どもっぽい感性にはあきれるを通り越して我慢ができません。こういう環境破壊にこそ、環境問題に熱心な都知事に意見を言ってもらいたいです。どう考えても幼稚でグロテスクなお子ちゃま的発想です。

中村哲さんの深い知 (鈴木宗男発言、加筆、修正しました)

2005-10-25 00:08:51 | 政治・経済
本当は、ヨン様や韓流スターについて書こうと思っているのだが、私にしては忙しい日が続いていて中々書けないので(そんな大そうなことを書こうとしているのではないのですが)最近読んだ本の紹介をしながら、つれづれな感じで書いてみます。
 
 『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告』(ピースウォーク京都)を読んだ。中村哲さんの言葉は心の深い所に届いてくる。中村さんの困っている人々を見過ごせない正義感、勇気、行動力、そして自分達のやっていることを決して驕って自慢することのない言葉の謙虚さ等々。こういう言葉で讃えることがためらわれるほどの現地での過酷な活動なのだと思うけれど、中村さんの言葉からは悲壮さや気負いは微塵も感じられない。危険な現地での活動の中、これまで生き延びてこられたことについて質問されて、「運がよかったんでしょう。」と答えられていますが、ペシャワール会が「現地協力」と呼んでいる現地の人々にとって本当に必要な活動をしているからこそ現地の人々の協力も得られ安全確保の情報も入ってくることによって活動が続いているのだと思う。そこに、この方やペシャワール会の活動の強さの秘密があるのではと思う。
 巻末の「中村哲氏 著作紹介」の項で引用されていた言葉から印象に残った部分を紹介してみます。

 ――亡命アフガン人医師との会話 
 「先生は日本にいればそう苦労はないものを、何を好んでこんなところで働いているのですか。」
 「ドクター、これは単にアッラー(神)の配慮に過ぎない。偶然と呼ぶならそれでもよい。君をペシャワールに留めている、そのものと多分同じだろう。確かに我々はこの困難の前には虫けらだ。巨象を相手に這いずり回る蟻にすぎない。しかし、どんなに世界が荒れすさんでも、人の忘れてならぬものがある。そのささやかな灯りになることだ。自分は決して善良な人間ではないが、これもアッラーの御心ならば仕方ないではないか。これは我々のジハード(聖戦)なのだ。」 (『ペシャワールにて』より)(※筆者注:中村さんはクリスチャンです。)
 
 
 (バーミヤンの仏像破壊について謝罪する現地スタッフの手紙を読んでの訓辞)
 
 「今世界中で仏跡破壊の議論がさかんであるが、我々は非難の合唱には加わらない。私たちの信仰は大切だが、アフガニスタンの国情を尊重する。暴に対して暴を以って報いるのは、我々のやり方ではない。餓死者百万と言われるこの状態の中で、今石仏の議論をする暇はないと思う。・・・・・」 (『医者井戸を掘る』より) 

 ――一命をとりとめた患者との会話
 「ほら吸え、日本のタバコ、『アラーム(平和)』だ。約束どおりお前にもやるよ。」
 「あなたは日本人ですか?」
 「俺の国? わが故郷はカシミール。」
 これは、「誰にとっても自分の故郷がカシミール(自分の故郷が一番)」という諺をふざけてもじり、「どこだっていいじゃないか」と言いたかったのだが、シャレが通じなかった(現地の者は「外国人はパシュトゥ語をしゃべらない」と決めてかかっているのである)。
 「ドクターは、カシミールの者ですか!」と真顔になったので、周囲の者がどっと笑った。笑いが静かな水面に小石を投げてできる水の輪のように、広がっていった。  (『医は国境を越えて 』より  以上の著作は全て石風社より出版されてます。)

 (ぎりぎりの状況で吐かれるこのようなユーモアに中村さんの深い知と行動力を支えている本当の強靭さの秘密を感じます。)

 また、中村さんは最近の憲法改正に向けての世の中の流れに対して、「改憲論者は平和ボケ」 「九条こそが歯止め。このたがを外した瞬間から、際限もなく広がるというのが歴史の教訓だ。」「・・・平和憲法はそうした犠牲の結論だった。戦死者を悼むなら、なぜ先輩の出した結論、残した遺産をぶち壊すようなようなことをするのか。」と、明快に断言されています。
 彼のようなリアリストの言葉に私たちは耳を傾けなければならないと思います。
 そして、もし今でもまだ残っているとしての話ですが、中東における日本や日本人に対する好印象を支えているのは、政府や外務省が「アメリカに旗を見せるだけのため」に莫大な費用(税金)を遣って行っている自衛隊の活動なんかではなく、こういう民間の地道な活動なのだということは明らかです。


 それにしても佐藤ゆかりさん、子どもたちに与える影響を考えると、ジャガイモとサツマイモの違いくらいは把握しておくべきだったのではないですかね?いくら世間知らずのお嬢様だとしても・・・。(10/24の朝ズバッ!より)

 追記:10/25のスーパーモーニングの特集『鈴木宗男vs外務省 真紀子氏騒動舞台裏』の鈴木宗男氏の発言は割りに面白かった。更迭された川島事務次官があの騒動時に真紀子氏のことを「あの婆さん」呼ばわりをして外務大臣からの追い落としに協力するように頼んできたことや、その後の宗男氏追い落とし時に「ムネオハウス」や「北方領土不要論」などの外務省内部文書の流出や情報リークが外務省によって積極的に行われたこと、真紀子氏について、「田中大臣の感覚はよかったが、持って行き方、進め方がよくなかった」など。鈴木氏はかなり抑えて発言しているように見えましたが、この辺りの事情をもっと掘り下げてほしい気はしました。外務省の問題はもう一件落着して幕引きみたいな形で更迭された方々も、現在はまた重要なポストでご活躍の様子みたいなので・・。官僚の堕落、腐敗、怠惰を正すには政権交替しかないと思いますが。

 今日の格言:政治家のスキャンダルや犯罪は、権力による政敵追い落としという裏がある


 ↑こう思わざるを得ない事例があまりにも多いと思います。マスコミの挑発に乗ってあまり単純な正義感を発露させすぎないようにしましょう。
 
                   

ヴィッセル神戸、楽天、TBS、三木谷氏

2005-10-21 16:49:33 | サッカー
 去年の年末ごろ、ヴィッセル神戸の監督に、元ドイツ代表のリトバルスキーの名前が上がっていたことがあって、彼のWカップや日本のサッカー選手についてのクレバーなコメントを前から好感を持って読んでいた者として、かなり期待していたのだが(その前に振られたトルシエよりも期待していた)、結局、彼の監督就任はよくわからないまま流れてしまってがっくりした。その時に言われていたのが、三木谷社長の意向だということだった。
 プロ野球にはくわしくないので、楽天の内部事情や今回の監督交替については詳しい事は言うのは差し控えますが、ヴィッセル神戸も今のところ楽天イーグルス同様最下位の不振にあえいでいて、このまま行けば来季のJ2落ちは残念ながら避けられないのではないだろうか。
 リティことリトバルスキー氏は現在オーストラリアのシドニーFCの監督として、それなりに結果を残している(カズが期限付きで移籍するシドニーFCは12月に日本で開かれる世界クラブ選手権にオセアニア代表として来日する)ことや、その後のヴィッセルの低迷ぶりを見るにつけ、あの時、リティにしておけばヴィッセルもここまでひどいことにはならなかったのではと思わずにはいられない。失礼ながら三木谷氏がある程度のサッカーについての知識があって、ヴィッセルの経営に口を出しているとはとても思えない。楽天は、野村監督の就任によってそれほどひどいことにはならないだろうが、ヴィッセルの見通しは今のところ暗い。
 だから、そんな彼が申し入れた、TBSへの経営統合の話は今のところ大いに危惧を覚える。ホリエモンと比べて、きちっとスーツを着こんで、しゃべりかたにも気をつかう三木谷氏は政界の受けもよろしいようで、ホリエモンのときのような政治家のバッシングが皆無なところが、かえってうさん臭い気がします。そんな世渡り上手の猫かぶりの彼の本質は、ホリエモンとなにひとつ変わらないと思うのに。
 私は現在のTBSの全てを肯定するわけではないですが、TBSのNEWS23とサンデーモーニングは、私があまり腹を立てずに見ることができる数少ない報道番組であり(野球偏重のスポーツはちょっと×ですが)、私にとっては今のテレビ界の最後の良心、最後の砦のような存在なので、これに口を出したり、圧力を加えることは「許さんぞ、三木谷!」と思ってます。
 
 「ヴィッセル、リトバルスキーにしとけばなあー・・・」

今日の格言: 「 政治家の圧力は報道が正しいという証拠 」  ( by BBC )

騙されるな、煽られるな

2005-10-18 01:34:58 | 政治・経済
 小泉首相の10月17日の靖国参拝を受けて、テレビはトップニュースだし、ブログなどもその話題が”枯れ木も山の賑わい”と言った様相でほんとうにうんざりしています。腹が立つのであまり見ないようにしていましたが、勉強のために少しだけのぞいてみたら、やはりうんざりして腹立たしくなりました。うだうだ理屈をつけて何を言ってるのかと思いましたので、夏に、私がBBSの方に書いた文章をもう一度、コピーしてそのまま貼り付けることにしました”傾聴に値するナベツネ発言”のくだりだけでも読んでもらえたらと思います。軍隊と戦争について語る氏の発言は明解で知的です。


「少なくとも皆さんは」の書き込みで紹介した吉田望氏の「A級戦犯合祀は自らやめるべきである」という「靖国」レポートとでも言うべき記事のラストで、氏は、「個人的な体験」として自身の体験したエピソードを付け加えている。
 吉田氏が旧陸軍関係者の前で講演をした時に、「日本は今3回目の敗戦を迎えている。ペリーの来航の時、第二次大戦、そして現在の経済敗戦」という内容の話をしたあとで、80歳近い人が「日本は今まで一度も外国に負けたことなんかないんですよ」と言って感情的に反論してきた。(会場の雰囲気もその発言に呼応するように冷たい雰囲気だったそうです。)そして、その人の部下だった人の話によると、その人は「特攻兵を選ぶ教官の立場にいた人」で、(この方の話は、なかなか印象深いので下記に引用してみます)

「吉田さん、あなたのいったことは正しい。しかし彼はそれを受け入れない一生を過ごしてきたのです。私と彼と、あなたには同じに見えるが違うんです。私は70代前半。彼は70代後半。当時の大尉とか少佐です。彼らの方が数年年上です。私たちの世代が特攻に選ばれて出撃する少年兵で、そのときにかれは特攻兵を選ぶ教官側の立場にいたのです。自分が命じて部下が死ぬという状況の罪悪感を、彼は選ばない生き方をした。生きなからえるためにはそうするしかなかったのかもしれません。だから彼には敗戦自体が受け付けられないものになっているのです。・・・・・(後略)・・・・・」
「生きながらえるために」は「罪悪感を選ばない生き方」を選ぶしかなかった。戦争とは、そういう重い荷を個人の心に負わせてしまうものであるし、戦争を体験した世代の右傾化もこういう心情だとしたら説明は付く。自分たちの犯した罪に向かい合って生きていく事はとてもつらい道のりですし・・。でも私たちは、あの戦争のことを、前に「傾聴に値するナベツネ発言」でも紹介したあのナベツネ氏のようにこう考えるべきではないでしょうか。(今回は氏の発言をコピーして貼り付けておきます。天木直人氏のサイトの「メディアを創る」より。発言のソースは雑誌「オフレコ」創刊号)

「・・・安倍晋三に会った時、こう言った。『貴方と僕とでは全く相容れない問題がある。靖国参拝がそれだ』と。皆軍隊の事を知らないからさ。勝つ見込み無しに開戦し、敗戦必至となっても本土決戦を決定し、無数の国民を死に至らしめた軍と政治家の責任は否めない。あの軍というそのものの野蛮さ、暴虐さを許せない・・・勇んでいって、靖国で会いましょうなんか信じられているけど、殆どウソです。だから、僕はそういう焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られているところへ行って頭を下げる義理は全くないと考えている・・・」

 下記に吉田望さんのサイトへのリンクを入れておきます。記事は長文ですが出来れば全文読んでみてください。
http://www.nozomu.net/journal/000150.php



※前にこのブログでも紹介した辻元よしふみさんのブログで鳴海英吉さんという反戦詩人の(私は不勉強で存じ上げなかったのですが)「五月に死んだふさ子のために」という詩が紹介されていました。辻元さんは鳴海さんのことを 「鳴海さんは、戦前は危険思想の持ち主、ということで懲罰徴兵されて、大陸で兵士として戦い、ソ連軍に抑留され、命からがら生還したら、フィアンセが空襲で死んでいたことを知った、という人です。いろいろな作品があり、決していわゆる反戦詩ばかり書いていた人じゃありませんが、なんといっても代表作は下に掲げるような作品でしょう。」 と紹介して上記の詩をブログに全文掲載していますので、是非訪問して詩を読んでみてください。


ひとはそれをファシズムと呼ぶ(追記:バッジオインタビュー)

2005-10-15 14:30:56 | 政治・経済
 前回の国会で否決された郵政民営化法案が、前回反対した自民党議員のほとんどの賛成への転向によって、参議院でも賛成多数で可決、成立した。

 
 反対意見を認めない民主主義なんてあるのだろうか。仮にも、『自由民主党』と名乗っているにも係わらず。
 この状態をファシズムと呼ばずして何と呼ぶ。

 小泉チルドレンは、まさしくヒトラー・ユーゲント、そして一日中ネットを見張っているネット右翼と彼等に煽られてその気になっている若い世代はさしずめ文化大革命の紅衛兵と言ったところだろうか。

 先日の「朝ズバッ!」に出演した亀井静香に「(こんなことにったのは)あなたの責任ですよ」」と言われて、困ったみのもんた、「私のせいではないですよ。久米宏のせいじゃないですか・・」などと誤魔化していた。

追記:昨晩(10/14)のスポルトで放送されたバッジオのインタビューは、やはりよかったですね。話し方から知性と性格のよさを感じるさすがなインタビューでした。確執があったとされる現イタリア代表監督リッピについて聞かれても、さらっと冷静な答えを返していたし、日本代表監督としてのジーコ評も適確だったし、短いながらも中身の濃いインタビューでした。やっぱ違いますバッジオ!

 ※ココログブログの方にドラマ「太宰治物語」を見た感想のようなものをアップしてますのでよかったらのぞいてみてください。 

ウクライナ戦

2005-10-13 14:37:54 | サッカー
 昨日のウクライナ戦には、色々と思うところもありますが、今日、ジーコ会見の彼の言葉を見て笑わせてもらいました。
 
 ―今日のウクライナのメンバーでびっくりした選手はいますか? 

  びっくりしたのは、レフェリーだ。

 の部分です。
 
 ジーコ采配には、皆さん色々と細かい批判があるだろうと思うけれど、試合後の批判は全て結果論だと思うし、昨日のような審判のジャッジがあった場合、そのことも考慮に入れてクールに批判しなければならないと思う。
 というところで、前出のジーコ会見のジーコ怒りだけれど、私としては”日本の協会の政治力に余り期待できない”ので、監督としてはあれくらいのアピールは当然で、しかも怒りながらも皮肉を忘れない( びっくりしたのは、レフェリーだ。 )ジーコのコメントには素直に拍手を送りたいと思う。あれは監督として当然の、ひとつの政治的パフォーマンス―日本人には最も苦手な―だと思うから。終った試合だからとやかく言っても仕方が無いと日本人的にあきらめるのでなくアピールすることは必要な事だと思う。監督として、選手のために、今後の代表戦のために。そして、ジーコという人は理詰めで考えるタイプでは無いと思うが、彼の心の中では、彼なりにあの試合の反省点や収穫点はクールに見極めていると思うし、昨日の試合のメンバーはジーコの中のベストメンバーでは無いと思うし。(現時点での中田浩二や稲本、DFの何人か等。)
 ジーコの怒りの会見とは対照的に試合後の選手のコメントは冷静だったと思うし、サポーター達の、怒りの戦犯探しなどよりも、中村選手を初めとする選手の冷静な試合分析や反省の方が信用できるのは言うまでもない。大事なのは、致命的なミス(と言うより致命的なジャッジだったが)をとやかく言うより、その原因を探って改善していくことだと思う。致命的なジャッジ(PK)は抗議する以外どうしようもないけどね。

 追記:中田ひとりが目立つ試合というのはやっぱり駄目ですね。

※ココログブログのほうに天木直人氏の団塊の世代へのメッセージと題する記事をアップしました。よかったらのぞいて見てください。

飯島愛とかテリー伊藤の解説

2005-10-09 16:03:29 | サッカー
 日本代表、ラトビアとの親善試合は2-2で引き分け。松井の代表入りはあるかもということと、失点の原因と思われる守備のバランスの崩れについてきちんと反省してほしいといったところでしょうか。毎度書いてますが、稲本はどうなんでしょーね。親善試合だし、チームとして学習して次につなげてくれればという感じです。

 元々、サッカーの記事を専門に書こうと始めたブログなのに、あの解散選挙以来、サッカーどころではなくなってしまって、元々の(少数の)読者の方々に愛想を尽かされてしまったのではと危惧してはいるのですが、どうも呑気にサッカーのことを書く気がしないというところが今の正直な気持ちです。

 で、ひさしぶりにサッカーについて書こうと思って、思い出したのが、2002の日韓W杯のある試合のことなんですが、その試合というのはあの韓国ーイタリア戦ー韓国の決勝トーナメント初戦のあの試合のことですが、この試合については私のホームページの日記ページに「2002年のW杯で(オランダのサッカーつづき)」と題して書いたので、よかったらそちらの記事も見ていただければと思いますが、当時のあの試合に関する報道で、サッカーファンとして不満に思ったことを今更ながらですが書いてみたいと思います。そして、この件は、今のマスコミ報道全般にも通じる問題を孕んでいたと思うので。
 
上に挙げた記事にも書いたのですが、あの試合の肝は、トラパットーニ率いるイタリアの守備的サッカーと、ヒディング率いる韓国の超攻撃的オランダサッカーの対決の妙を楽しむことだったと思うし、試合展開や会場の雰囲気も合わせて、ヒディング采配によって追い詰められていくイタリアチームの様子と、そして韓国のゴールデンゴールによる逆転勝利というサッカーファンにとっては、これ以上のお膳立ては中々見られないだろうというほど面白い試合だったと思う。
 しかし、あの試合に対して、多くの日本人や一般マスコミの反応はどうだったかというと、日本が決勝トーナメント初戦でトルコに負けたことによる悔しさからか、あの試合の審判のジャッジの不透明さばかりをクローズアップしたものだった。そして、そういう意見の代弁者のような意見として取りあげられていたのが、飯島愛の発言(韓国チームの勝利は審判にワイロを贈ったためという発言)で、彼女の発言を勇気ある本音発言として持ち上げる意見も少なからず見かけたが、私の感想は「あーあ・・」だった。と言うか、腹立たしかった。飯島愛のような”にわかサポーター”とも言えない(にわかの人は、その時点でサッカーファンになったという点でまだ許せる)仕事で見ているだけのタレントの意見が、まるで穿った意見のように持ち上げられ彼女がよいしょされる状況に対する腹立たしさだった。彼女は、両チームの監督が誰であるか、両チームがどういう特色を持ち、韓国チームの安貞桓以外の選手などについて知っていたとはとても思えない。そんな彼女の意見に喝采を送る、その安直さがサッカーファンとしてとても腹立たしかった。そんな彼女の意見が日本でのあの試合の評価を代表する意見となってしまうという日本のサッカー評論の貧しさが情けなかった。そこには、サッカーというスポーツに対する愛は全くない。私はそこに、自分の意見の小利口さを競い、あるいはウケさえすればそれでよいという今のマスコミ人のどうしようもなさを感じる。そういう人にサッカーについて語ってほしくないと思う。いや、彼女が語ること自体は否定しないとしても、それがあの試合についての代表意見となるこの国の人の気持ちの余裕の無さを悲しく思う。劣等感の強い者ほど、自己の優越性保持のために他者を攻撃するという意味での劣等感を感じる。一番許せなかったのは、飯島愛からはサッカーへの愛情も日本代表チームへの愛情も全く感じられなかったという点である。それは退廃と言ってもいいと思う。そしてそういう次元でサッカーが語られることが許せなかったし、サッカーというスポーツが貶められるのが許せなかった。サッカーについて語るならば、せめて、専門性か愛情かのどちらかだけでも持っていてほしいと思う。
 そして、審判のミスジャッジについては、サッカー後進国だけでなく、ヨーロッパの強豪国に有利なミスジャッジもちゃんと取りあげて問題にしないとフェアではないと思う。私が見たなかでスペインやドイツなどの予選リーグの試合で、明らかに彼らに有利なミスジャッジがあったが、強豪国の場合は何故か問題に付されることもなく観客も流してしまうことが多いし、勿論彼らが自分達に有利なジャッジについて言及することはない。

 そして、専門性という点から考えると、飯島愛やテリー伊藤の意見を聞いて、彼らの発言に影響されて選挙に行った人というのも何だかなという感じである。上に書いたのと全く同じ理由で、ナイーブ過ぎると思う。そのことは、小林よしのりのマンガを読んで歴史がわかったつもりになっている疑うことを知らないナイーブな人たちも右に同じである。

追記:AP通信によるとローリング・ストーンズのコンサートで爆弾騒ぎによる中断があったそうです。新作「ア・ビガー・バン」のブッシュやネオコン批判の曲が話題になったなかでの騒ぎなので、何か嫌がらせっぽいですねこれは。

「1984」 デヴィッド・ボウイ 「Diamond Dogs」

2005-10-05 13:26:28 | 音楽
 「国民投票法案の狂気」の記事の中で、ジョージ・オーウェルの小説「1984」の名前を挙げたことによって思い出したことをちょっとだけ書いてみたいと思う。
 
 私が、この小説のことを知ったのは、デヴィッド・ボウイが1974年に発表したアルバム「Diamond Dogs」によってだった。このアルバムは、ボウイが傾倒していたオーウェルの小説「1984」から想を得て作った、ボウイによる「1984」の世界の表現だった。当時の日本でのボウイ人気は、グラムロック人気の延長からの、彼のルックスによる少女マンガ的な人気だったと思うが、(そういう私も、その口だったことは否めないので大きなことは言えないが、)ポストビートルズのロック界において、当時、彼がトップランナーだったことは間違いないし、彼の社会的、政治的なメッセージ性の強い曲作りに共感していた熱狂的な日本のファンも少なからずいたと思う。その後の80年代のボウイは、「レッツ・ダンス」の大ヒットなどによって、不可解な方面へ変容していって、古くからのファンに見放されていくのだが、それは置いといて、「Diamond Dogs」を聴いていた頃の私は、これより少し前の有名なアルバム「Ziggy Stardust」の中の有名な曲、「Five Years」の悲痛な叫びのようなボウイのボーカルによってくり返されるペシミスティックな歌詞「地球の滅亡まであと五年間・・・」という曲と共に、アルバム「1984」の描き出す近未来の陰鬱な予想図をぼんやりと恐れていた。「あと五年間・・・五年間・・・五年間・・・」というリフレインを聴きながら。だから、今思えばお目出度いと思うが、実際の1984年が表面的には何事もなく過ぎ去ったときには、「世界も滅びなかったし、1984の世界も現実にならなくてああよかった」とナイーブに思ったのを覚えている。

 しかし、しかし、私たちが安堵して、その世界は私たちとは関係ないどこかの共産主義やファシズム体制の国のことかと思っていた現実が、この2005年の日本で実現されようとしているとは・・・。

 このアルバムよりも少しあとで、小説と同名の映画「1984」を観た。オーウェルの「1984」の世界を忠実に映画化しているとされるその映画は、最初から最後まで、陰鬱で、やるせなく、灰色の希望のない世界が表現されていて、観たあと気が滅入ったことを覚えている。映画館から外に出た時には正直ほっとした。

 80年代のボウイの変容は、私の中で、彼に対する興味とロックに対する興味の両方を失わせていったが、あれから20年経って、オーウェルやボウイの予言した世界を最も洗練された形で抵抗もなく現出しようとしている国があるとは・・・。

 オーウェルの「1984」もボウイの初期の上に挙げたようなアルバムも、今の日本でこそ読まれ、聴かれるべきかもしれないと思う。日本には、今のところ彼らのような預言者、警告者は現われそうにないので・・。