あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

鈴木隆行 移籍後初ゴ~ル!!

2008-04-29 00:57:07 | サッカー
 USLポートランド・ティンバーズに移籍した鈴木隆行選手が、27日のシアトル戦で移籍後初ゴールしました!おめでとう!!まあ、日本のマスコミはまず取り上げないでしょうが、そんなこたぁどうでもいいんです。

 アメリカリーグのゴールシーンが日本で見られるなんてねえ。まあ、オタッキーな方々のお陰様でもあるんですが。

 試合を通して観た訳ではないので、いまひとつどれくらいのレべルなのかは、はっきりしないのですが、サポーターその他、サッカーを取り巻く環境(&サッカーを見る目)は、日本より上っぽく、雰囲気よさげです。

無駄なことのたいせつさ

2008-04-20 23:05:58 | 日記
 最近、身近でショックを受けた小さな事件があった。その場面に遭遇したわけではなく、それをやったひとに悪気があったわけでもないだろうと思うその行為は、簡単に言うと”植物殺し”とも言える行為だ。ピンクの可憐な花を咲かせていたガーデンシクラメンの葉っぱと花が全て刈り取られていた。まだいくつも蕾が残っていたアネモネが跡形も無く引き抜かれていた。花が終わったフリージアや水仙や、これから花を咲かそうとしているアマリリスやグラジオラスの球根が無惨に全て引き抜かれていた。それらは、花が終わったものも、残しておいたら来年もきれいな花を咲かせる植物のいのちである。それらを平然と、こころに何の良心の呵責も感じずに、引き抜いて捨てる、その神経にあきれる。古い言い方かもしれないけれど、植物のいのちでも、粗末にすると”バチガアタル”、よいことはおきないと思う。花が終わったあと、植物は、葉っぱからの栄養で球根を太らせる。だから、葉っぱは枯れるまで残しておくほうがいいのだ。花が終わったらもう用済み、無価値と、それらをばっさり刈り取り、球根を残らず掘り上げて放置する。は~、その心性が怖い。1mmの無駄も我慢できないみたいな、そのひとにとって無価値らしい花の無い植物が、芋を太らせる時間を待つという我慢ができない、そういう無駄を生活からきれいさっぱり排除しようとして、植物のいのちの上げる悲鳴に気付かない。なんで?
 
 植物を育てることは、子育てに似ている。手をかけ過ぎてもだめだし、かけなさ過ぎてもだめで、どちらかと言うと、水は欠かさずに、ほどよく放っておくのがよくて、また、種や球根から育てるには、花を咲かせるまでや、花が終わったあとの花という結果だけを求めるひとには無駄に思える時間がとても大事なのに。彼女も(高齢の女性です)も花を愛でる心を持っているのは知っている。でも植物も子どもも、そういう無駄を排除しようとするところでは育たない。私は、引き抜かれ、刈られた植物たちに、「ゴメンネ」と言いながら、それらをもう一度植えた。根付きますようにと祈りながら。

”オズオズの魔法使い”状態はどうかな

2008-04-12 23:12:34 | 日記
 ちょっと前に、元フォークルセダーズの一員で精神科医、大学教授でもあるきたやまおさむ氏が、ひさびさにフォークコンサートのプロデュースをしたというニュースの中で、きたやま氏が「感情を犠牲にして現実に過剰適応している現代人の心の分裂状態」と現代人の精神状況のことを表現されていましたが、私も、若い人、特に若い女性にほど、その傾向が強いと常々思っています。つまり女性の方が、現実適応力が高いので、過剰適応になりやすいと思う。男性の場合は、女性ほど現実適応力が無いので、あまり極端に現実に適応してしまうことは、女性に比べると少ないと思う。ある程度の現実適応力は生きていくのに必要なスキルなのだが、何事も過剰になってしまうと、逆に自分を苦しめることになる。男の子の場合は、現実に過剰適応した母親の影響を受けるという形になるのかもしれない。若い子たちの、携帯メールの返信は5分以内というルールなんてのもそのひとつだと思うし、それを破るとイジメられたり、シカトされたりするわけだから、恐ろしいし、私は、そのような心性を横並びの「オズオズの魔法使いの心性」と呼んでいる。規則やマニュアルへの絶対服従という縛りを自分たちに科して、息苦しさと生きにくさを増幅させたこころは、他人や弱いものをいじめることによって、そのこころのバランスを保とうとする、オズオズとした心性のことだ。過剰適応は、アレルギーのように、そのひとを苦しめ出すのだ。だから、とりあえず横並びを少し止めてみませんか、と私は思う。

菜の花に感じる野生

2008-04-08 15:54:39 | 日記
 葉牡丹の葉っぱの真ん中からピューっと威勢よく丈夫な茎が伸びて、菜の花と同じアブラナ科の黄色い花を咲かせている。土手などに咲いている同じアブラナ科の菜の花もだが、その花から受けるイメージの可憐さ、可愛さに比べて、その性質の図太いほどの強健さに、野生の持つ魅力を感じる。それは、お嬢様育ちのように手がかかるチューリップとは対照的だ。(チューリップでも原種系はやはり野性が残っている気がしますが。)その野の花の持つ野生の魅力に魅かれる。
 
 以前、菜の花の種を貰って、プランターに蒔いたことがある。にょきにょきと太い茎が生えてきて、すくすくと育って花をつけた。その菜の花の植わったプランターだけ、まるで野原のような野生の臭いを周囲に撒き散らしていて、その野生に感動して、それ以来、菜の花が好きになった。

 植物でも人間でも、そういう野生の部分を残しておくこと、あるいは、そういう野生と時々触れ合うことは、だいじなことではないかなと思う。大自然の中へ行くのはなかなか大変だけど、身近にある小さな野生を見つけて接することはできると思うし、人工に偏りがちな私たちにとって意外に重要なことではないかと思うこの頃。

チューリップは春の女王様?&誰のための法律?

2008-04-05 18:25:55 | 日記
 アプリコット色のチューリップと赤に黄色の縁取りのあるチューリップが満開を過ぎて、明日に雨が降ったら散りそうなので、7本ほど切花にして花瓶に生けた。大振りな花ばかりが7本もそろうと、部屋がパッと明るくなるくらい華やかやです。さしずめチューリップは”春の女王様”のようだと思います。赤に黄色の縁取りのは、庭に咲いている時は神々しいくらい華やかで、まるで小さな太陽のようで見入っていました。黄色にほんのり赤の入った原種系のチューリップも、可愛くて、よいアクセントになっていました。フリージアがそろそろ満開なので、これも赤いアネモネと原種系チューリップと一緒に生けました。ムスカリも満開です。ビオラは今年は虫に食べられて今ひとつでしたので、来年は、強い黄色を植えようかなと思います。

裁判員制度、後期高齢者医療制度、改正道路交通法、どれも物事の一面のみに対応して考えられた、運用後の不具合の噴出が不安なものばかりだ。法律の厳密な施行によって、多くの新たな不幸が起きるのではないかという危惧・・。

 ※ココログに、映画「Sweet Rain 死神の精度」の感想をアップしてます。