あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

きのうの太田総理&ココログの記事紹介

2006-11-26 01:47:12 | テレビ
 きのうの太田総理はまた教育問題(いじめについて)だった。今回のマニフェストについてどうとかこうとか言う気はあんまりない。きのうの(「いじめをなくそう」スローガンを禁止します)は賛成多数で可決されたけど、私にはあまり意味のある内容とは思えなかったから。というのは、教育というのは子ども相手なわけで、私がこのブログでも度々引用させてもらってる清水真砂子さんが、児童文学と純文学の違いを積分の文学と微分の文学(彼女はどちらがすぐれているとかは言っていません)と言う風に表現されていますが、児童文学を語るに当たって、”微分の文学の原理で語ってはいけない”と思うのです。それと同じことが教育にも言えると思うのです。太田光の言っていることは、一面の真理ではあります。教育委員会や管理職の欺瞞への批判でもあります。でも、本音が必要なように「タテマエ」は必要なのです。それをあまりにもとっぱらってしまったので、学校が現在のオトナの世界のように本音ばかりがぶつかりあうぎすぎすした世界になってしまったのではないでしょうか。本音とタテマエのバランスが崩れて本音ばかりの世の中になってしまっていることが問題なのです。(こういうバランスの崩れた状態への反動として、”変てこなタテマエ”を復活させようとしているひとがいるのが今じゃないでしょうか)子どもたちは、そういうオトナ社会の状況を素直に反映しているのです。このブログでも紹介した兄が小学校5、6年生の時の担任の先生のことを少し思い出してみると、(その2年間クラスにいじめはなかったです)、とても人気のあった先生でしたが、「ダメなことはダメ」ということは、とても毅然とした態度で子どもたちに言っていましたね。誰かが誰かを傷つける発言をした場合、その発言をした生徒に質問をしたりするのですが、その質問自体が、その生徒に自分の誤りに気付かせるような質問でしたので、子どもたちは、勿論反論できないのですが、何かに気付いて納得して座るというような感じでした。

 ところで、最近、珍しくドラマを結構観ていまして、「陰影礼賛!」という題で亀梨君主演のドラマのことを、それと、最近、亡くなった映画監督ロバート・アルトマンについても少し書きましたのでよかったらこちらの方にも訪問してみてください。

 最後に、清水さんの著書「もうひとつの幸福」(岩波書店)より引用して終わりたいと思います。


 でも、やっぱり人間の悪意を認めることはこわい。なぜか。そうやって人間の努力の限界を認めること、断念し、問題を手放すことは、人間としてむしろ謙虚なことかもしれないと思いながら、しかし結局のところ、現状肯定、現状維持につながるのではないかという危惧が一方にあるからです。
 そういう人々を著名な作家だけでなく、身のまわりにもたくさん見ているからです。こういう人々におしなべて歴史認識が欠けているように思えるのはどうしてなのでしょう。
 人間の悪意を認めつつ、なお人間を信じ、現状肯定、現状維持に傾かない道をさぐっていきたい。 (「もうひとつの幸福」182頁より)

 

国会中継&リターナーのこととか

2006-11-23 00:55:46 | 日記
今日はお休みだったので、朝、例の「参院教育基本法特別委員会質疑」という国会中継のはじめの部分をちらっとのぞき見するぐらい見てみたのだが、そのあまりのつまらなさにすぐに消したくなった。つまらないだけならまだしも、トップの舛添要一氏の質問は、国旗、国歌がどうとかこうとか、それらが学校でちゃんと掲揚、斉唱されているのかどうとかこうとかと、愛国心とやらにやたらこだわった質問で、とてもダルくなりました。愛国心って国旗とか国歌のことなのですかねえ。前に確か、小沢一郎氏が、愛国心について聞かれて、「そういうものは法律で強制するものではなくて、自然に湧き上がってくることが望ましいんじゃないか」と答えていましたけどね。それにしても、つまらない。特に与党の質問がだらだらと予定調和的に続くのが一番つまらない。もっと面白ければみんな見るだろうにと思う。
 

 ところで、何年か前に公開された日本映画「リターナー」(主演:金城武、鈴木杏)で、岸谷五朗が溝口という悪党を演じていましたが、彼のセリフに、「戦争!もうかりそうじゃないか(笑)」というのがあったのを思い出した。そういえば、新聞に寺山修司の記事が掲載されていて、彼の短歌「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」が紹介されていました。そしてジョン・レノンの「イマジン」の歌詞「国境のない世界を想像してごらん」を思い出しました。

音楽会&先日の久米発言のこと

2006-11-20 00:42:03 | 日記
 先日の土曜日に次男(小4)の小学校の音楽会がありましたので、メモ書き程度に紹介しておきます。
 4年生で印象に残っているのは、合奏の「スペインのカスタネット」という曲。子どもたちは首にネッカチーフのようなものを巻いて登場。指揮の先生もスペイン風の黒いツーピースで首に赤いネッカチーフ。合奏は主役のカスタネットが、それぞれ4つのパートに分かれていて、なかなか凝っていました。最後は「オーレッ」の掛け声とポーズ。ほかにもモーツァルトの生誕250周年に因んで、モーツァルト関係の曲が、合奏部の合奏、オペラ「魔笛」より序曲、3年生のリコーダー奏「朝はモーツァルトが」など。5年生の合奏「オペラ座の怪人」、6年生の合奏「新世界」第4楽章より、など、難しい曲が多かったですが、どれもなかなかの出来でした。

 ところで、先日のたけしの特番での久米宏の発言について、あの後ちょっと考えたことを書いておきます。
 
 あの時、久米宏は、かなり本音でしゃべっていたと思うのです。「TVではなかなか本音はしゃべれないです。」と前置きしながらも。
 そして、前にも書きましたが、TVにおいてアンタッチャブルな存在でもあるたけし(のやってきたこと)に対する発言(批判)は、控えめではあったけれど、パンチはあったと思う。あとは、それを聞いていたひとがどれだけ彼の言葉を聞いていたかですよね。そして太田光の「ヤボなこともしたらどうか」発言に込められている思い。それらが、たけしに届いたかどうか。そして、石原慎太郎に対する久米と太田の必死のNO。あんなふうに反論されたのは初めてだったのじゃないかな、あのひとも。その場面を見られただけでも、まあよかったと思う。※前記事参照

教育基本法の改正は悩んでいる子どもの救済や学力とは何の関係もない:追記あり

2006-11-17 17:15:24 | 教育
 今回の与党の暴挙についての、立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」の記事、第90回 踏みにじられた教育基本法審議 安倍アナクロ強権政治の誕生です。
 
 去年の郵政選挙の(意味する)結果がいよいよ姿をあらわしてきました。郵政民営化に反対か賛成かの投票しただけで、憲法を変えてくれとは言ってないと言ってももう・・・・。「あの時がターニングポイントだったなあ」と後悔してももう・・・。そんな私たちだから、だから、しばりが必要なんだと私は思うけれど!!それに、現在の与党の、あるいはタイゾーをはじめとする小泉チルドレンでもいいけれど、誰かに、その言葉に、行動に、あるいは表情だけにでも感情移入できる人がだれかいますか?
 私には、今回安倍政権がやろうとしていることは、小渕総理の二千円札発行と同じくらい意味がないことだと思う。(悪影響という点では比較にならないけれど。)「法律に愛国心を明記すれば問題解決!」なわけがないじゃない。愛国心(この表現はなんかいやだけれど)は国に強制されるものじゃない。法律にそれを書くことは、憲法の「思想・良心の自由」にも反する。


追記:きのうの「太田総理」より

太田:安倍総理の言う”美しい国”というのは”架空の国”だ。日本を、そのまま愛せなかったら、自分の国がみにくいことを認めなきゃ、絶対に国に対する愛情なんて生まれない。

こちらの言葉のほうが、”美しい国”という言葉に陶酔しているひとよりずっと深いと思いませんか?
 アメリカのイラク攻撃への批判が世界中で、アメリカ国内でさえも高まるなか、日本では、マスコミからも世論からもまったくあの戦争を批判する声が聞こえてこない。どうしてだろう。こういうのを、規則への無条件の服従というのだろうか。決まったことだから仕方がない。とか、安倍総理は人気者だから間違いないとかいって、いろいろなペテンが行われているのを無視し続けるのだろうか。
 太田光をひとりにしてはいけない、と思う。

教育基本法改正に反対する&お知らせ

2006-11-15 22:30:19 | 政治・経済
今日の夕方、教育基本法改正案は衆議院教育基本法特別委員会で、審議続行を求めて採決に反対する野党が欠席する中、自民、公明与党の賛成多数で可決された。

 ※こちらのブログを参考にしてください。

 マスコミは、この問題を松坂のことなんかよりも大きくとりあげるべきだと思う。
 
 それにしても、ニュースで見た、委員会の可決後の政治家の方々の(特に高市早苗さんの)笑顔が怖かった。思考停止して、権力=多数派に添い寝しているような不気味な笑顔・・・。


 ※それと、昨日から起こっていることなのですが、(まだ完全に解決されてはないようですが)すべてのgooブログにアクセスすると、トレンドマイクロ社のウイルスソフト、ウイルスバスター2007を使用しているパソコンに「危険サイト」の警告が出てしまう現象が起きていました。私も、頭に来て、「ついにブログの検閲か」と、早とちりしてしまいましたが、gooブログとウイルスバスター間の何らかのトラブルのようです。(今のところどちらに問題があったのかは、はっきりしていません。)昨日から今日にかけて拙ブログを訪問された方で、警告の出た方はびっくりされたでしょうが、私のブログは不正なプログラムなどに関わった危険なサイトではありませんので、これに懲りずに訪問してくださいね。

たけしの日本教育白書より&きのうの太田総理(追記あり)

2006-11-12 00:36:06 | テレビ
 フジの特番「たけしの日本教育白書」は最後の1時間だけ見た。たけし、爆笑問題、久米宏、石原慎太郎の対談部分。いくつか印象に残っている発言を紹介します。

 まず、たけしのやっていた「熱湯風呂」についての久米宏の発言、

 久米「あれは(たけしの番組は)、大人と大人が了解の上でやっていることです
が、あれを子どもが見るのはやはり問題があると思う。」
 
  (私もそう思います。)

 太田光のたけし評、「たけしの本音芸が魅力的だった」(「あれもTVの上の本音」との久米宏の意見あり)の後で、
 
 太田「たけしは(さんまもタモリもだが)絶対、ヤボなことをしない。少しヤボなことをしてもいいんじゃないかと僕は思う。」(これも、私と同意見。「日本人はヤボが好きです。」との久米の意見あり。)

 石原慎太郎の登場前に、太田と久米宏が「本当に呼ぶんですか?」と嫌がる。

 石原氏が登場して、太田は反論したりしてからんでいたが、久米はまったくしゃべらず、意見を求められて、(石原氏発言中の久米、太田の顔が面白かった。登場前の感想は本当なんだと。)

 久米「僕、(石原氏が)苦手だから。側にいるだけで嫌だから。」発言。(ここは、個人的に大うけしました!石原「(久米は)悪しき天才」と反撃。)

 石原「世界中で小中学生に携帯を持たせているのは日本だけ」と子どもに携帯を持たせることの弊害を語る都知事の意見には賛同しときます。(この意見にはほぼみんな賛同していたようだった。)

 子どもが被害者や加害者になるニュースをTVで伝えることについて、

 久米「TVニュースは煽る、扇情的になりやすいので、心をかきまわされる子どもが多い。(自分が報道していた時は)子どもの事件に関しては、(そのことで)悩んだ。」

 まあ、おもしろかったのはこんなところですかね。

 途中、学級崩壊しつつあるクラスを取材している部分をちらっと見ましたが、私も、自分の子どものクラスで経験があるんですが、その時アドバイスを頂いた先生の話で、「必要以上に深刻になりすぎないこと」というのがあったのを思い出しました。勿論放っておくのはよくないし、親、担任、学校の協力は必要ですが、今の状況が深刻に見えても、大人はなかなか変われないけれど、大人が考えるよりも、子どもは変われるということを心に止めながら対応したほうがいいのではと思います。(私が去年書いた教育カテゴリーの記事もよかったらのぞいてみてください。)


 次に、きのうの「太田総理」ですが、マリー・アントワネット=西川はスルーして、一番印象に残っているのは、太田光の「北朝鮮の核を日本が買います。」というマニフェストで、たぶん山本一太議員(だったと思う)が「そのマニフェストはファンタジーとしてはよくできていると思うが、云々」という反論をしていましたが、それを聞いて、思い出したのは、清水真砂子さんが「子どもの本の現在」の中で、ファンタジーについて、乙骨淑子さんの「私は人間をとりまいているさまざまの固定観念、限界、束縛などを解き放とうとする時に生じる摩擦音のようなものとして、ファンタジーを考えてみたい。」という言葉を思い出した。ファンタジーの効用=リアリズムだけでは乗り越えられないものがある、ということについて、日本人はもっと考えたほうがいいんじゃないかなと思ったりした。

 とりあえず、今日はこの辺りで。
 追記:最後に、たけしが芸術の必要性について、照れずに意見を言っていたのには、ほっとしました。

さらに追記:女医の西川さんのしゃべりを聞いていると、このひと成績はよかったんだろうけれど、何かがぽっかりと欠落していると思う。簡単に言うと「他人に共感する能力」とでもいうものが。そういうひとを”おとな”とは呼べない。最近の子どもたちも、”共感能力”が低下していると言われているが、彼らが手本とするべきおとなたちが、オトナコドモ状態なので仕方ないとも思う。そんなオトナコドモが跳梁跋扈しているのが、日本のマスメディアだから。たけしの本音芸もそんなオトナコドモの本音でしかなかったと思う。酒やタバコと同じように、毒を含んだ芸能は子ども向けではないと思う。私は、談志師匠の芸は好きだけれど、たけしの本業のお笑いの芸をおもしろいと思ったことがない。(司会者としては認めるけれど、)ヤボをきらう照れかくしとしての芸に、痛々しささえ覚える。久米宏が言ったように彼がTVジョッキーでやっていたこと、そしてそれに影響された芸人たちが今もやっていることは、子どもたちに見せてはいけないものだと思う。(そこをTVでしかも本人の前で)はっきり言った久米宏はえらい!そして、「ヤボ」なこともしてもいいんじゃないか、という太田の言葉にこめられた思いもわかる。(拙記事参照)そして、最近起こっている学級崩壊は、子どもたちが、いろいろな経験を積んで成熟する前に、メディアによって”ろくでもない情報”を与えられすぎていることが大きな原因だと思う。おとなは、そのようにして身に付いた、子どもたちの”未熟な皮肉っぽさ”を肯定してはいけないと思う。

 

歴史に汚名を残すのか

2006-11-09 01:53:28 | 教育
 憲法改正への布石として、教育基本法の改悪が強行されようとしている。こういうのを蛮勇というのか、暴勇というのか、いずれにしても、もし、これらが強行採決されれば、間違いなく歴史に汚名を刻むことになるでしょう。
 
 腹立たしいです。安倍内閣は現在起こっている教育の問題を政治に最大限に利用しようとしている。
 今、起こっている問題は、社会のひずみ、ゆがみが最も弱いところに吹き出しているためで、学校だけが悪いわけではないし、法律に愛国心を明記したところで解決するものではない。学校の問題点は改善されるべきだし、苦しんでいる子どもたちは救済されるべきであるが、だからといって、教育基本法改正(悪)には、誰の脳内でもつながらない。問題を解決するための議論ではなくて、政治的に利用しようとしているだけの政治家たちの姿勢には、怒りがわいてくる。何の考えも無く付和雷同するであろうタイゾーをはじめとする小泉チルドレンたち、怒、怒、怒・・・。
 
 多くの教育者や日弁連が反対している声を無視して、強行採決することは、東大教授(教育学・教育方法学)佐藤学氏が言う「一種のクーデターである」だと思う。
 
 そして、マスコミは、改正が既定路線のように報道しているが、前に外国のジャーナリストが日本のメディアを評して、「日本のメディアは右翼団体の圧力を言い訳にして、ほとんど政府を批判しない」と言っていましたが、まったく見るべき、聞くべき意見が報道されない。このマスコミの堕落も「ゆとり教育の成果」だろうか。「世界史履修しましたか?」と聞いてみたい。

世界史未履修問題に思う

2006-11-05 22:21:45 | ニュース
 日本中に広がったこの問題、救済措置が取られて決着しそうで、関係する受験生や卒業生も少しほっとしているというところなのでしょうが、立花隆氏の「メディア ソシオーポリティクス」の記事『東大生にも蔓延!履修漏れ問題「ゆとり教育」が国を滅ぼす』で、立花氏が、「世界史を学ぶ学生がそれだけ少ないという事実」が問題として、「日本の平均的大学卒業生」が「グローバル・スタンダードからいって世界の歴史を何も知らないレベルの非常識人だ」として、現在の政権が、自民党と公明党の連立政権であるということをまったく知らない「社会科の常識部分をほとんど欠如させたまま大学生になってしまった」東大生のことなどを紹介しているのを見て、問題の規模が思ったより大きいということに愕然としてしまったのですが、自分のことを思い出してみると、私たちの時代は、たしか歴史は世界史と日本史の選択制だったような気がしますが、私は世界史を選択していて、その理由は、日本史には小学、中学とやってもうあきあきしていて、”学ぶためのモチベーションを保てない”と思ったからなのですが、そういうのって今のひとは考えたりしないんだろうか。今度のことで、世界史を選択する学生が少ないので、世界史が必修になったということを知ったのですが、高校の予備校化というのだろうか、本末転倒というか、目先の利益にとらわれて学ぶことの本当の目的がなおざりにされているんだなと思う。それもかなり大規模なスケールで。世界史の知識の欠落は若者の右傾化にも関連があるんじゃないだろうかと思ったりする。無知なものほど洗脳されやすいし。私が世界史をやってみて思ったことは、現代の世界を読み解くにには、世界史だけはだめで、現代史も必要だということだった。ベトナム戦争や中東の問題などについては、高校の世界史だけではまったくちんぷんかんぷんで新聞を読んでもわからなかったからだ。とにかく、今回のことで、高校の関係者たちは、世界史の重要性をそれを学ぶことの意味から考え直したほうがいいのではないだろうか。
 

「憲法九条を世界遺産に」より抜粋 (追記あり)

2006-11-04 02:16:35 | 
 「憲法九条を世界遺産に」から少し抜粋してみます。


太田 ・・・・今、憲法九条が改正されるという流れになりつつある中で、十年先、二十年先の日本人が、「何であの時点で憲法を変えちゃったのか、あの時の日本人は何をしてたのか」となった時に、僕達はまさにその当事者になってしまうわけじゃないですか。それだけは避けたいなという気持ち、そうならないための自分とこの世界に対する使命感のようなものがすごくあるんです。(P16~P17)


中沢・・・・・なにかがこんがらがってしまっています。このこんがらがった糸玉をほぐす努力を今しておかないで、現在の国際情勢などというものに押されるようにして憲法を改正してしまうと、僕たちの時代は将来の日本人にたいしてひどい汚点を残すことになってしまうでしょう。(P17)


中沢 まともな異論を唱えようとする人々を黙らせてしまおうとする、嫌な精神土壌はそのまま生き続けているでしょう。こういうこんがらがった状態をいっこうに抜け出していないわれわれが、憲法を改正してしまうなどという、重大な決断を下してしまう資格がはたしてあるのだろうか。自分たちがいま本当にやらなければならないことを放棄しておいて、感情的な判断に押されて無思考のまま重大な決断をくだしてはいけないんじゃないか、・・・・(P18)


 太田 僕は、日本国憲法の誕生というのは、あの血塗られた時代に人類が行った一つの奇蹟だと思っているんです。この憲法は、アメリカによって押しつけられたもので、日本人自身のものではないというけれど、僕はそう思わない。この憲法は、敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり、生き方なんだと思います。(P56)


中沢 ・・・・そういうものを葬りさりたいという勢力は、つねに存在してきましたが、かろうじていままで命脈を保ってきました。しかしもしこれを簡単に否定してしまうと、そのとき日本人は確実に、何か重大なものを失うことになるはずです。(P59)


中沢 ・・・・それがあることによって、崇高な何かがそれでもまだ存在するかも知れないという希望をあたえる。それは、日本を普通の国に戻すことより、ずっとよいことだし、政治学の常識を超えてみれば、正しいことでさえある。(P127)


太田 日本国憲法の九条というのは、ひょっとしたら間違いを犯すかもしれない、そんな愚かな人間だからこそ守っていかなければならない世界遺産なのです。・・・・(P128)


太田 言ってみれば、あの戦争は、あのときの正義が人を殺したわけです。だからこそ、憲法九条で絶対人は殺しませんという誓いが必要なんです。九条を抱えていることで、今、自分が信じている正義は違うかもしれないと、自分を疑ってみる。そういう姿勢が必要なんじゃないかと思うんです。(P135)



 追記:この本の冒頭で中沢教授が、最近の太田光のいる場所のことを、”最前線にたったひとりで躍り出て、背後にひとりの援護射撃もない状態で、太田君はラッパを吹いているのである。・・・・・いずれにしても、どこか切ない響きがある。”と表現していますが、”彼がいまいる位置”で、あのような発言を続けることの困難さと、そのことによるリスクを考えると、本当に頭が下がるし、それでも言わずにはおれないというその姿に、彼の吹いているラッパの音にもっと多くの人が気付いてほしいと思います。
 
 「憲法九条を世界遺産に」は前にも書いたように、そのタイトルこそが全てだと思うし、太田光や中沢教授の言っていることの全てに共感できなかったり、理解できなくても、(こちらに文学や芸術に関する深い知識を要求する部分がかなりあるので、難解だったり、これはちょっとと思う部分もあると思いますが、)九条の本質についての肝心なところはぶれてないので、細かい相違点に目くじら立てて茶々を入れて、たたかったつもりになることは止めてほしい、と思います。