あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

おぼえがき程度に~しゃべり方に感じる好感と違和感(追記あり)

2006-08-16 02:47:34 | ニュース
 昨日(8/15)のトップニュースについては、昨年の10月に、そのことに言及した記事をいくつか書いたので、興味のある方は、当ブログのアーカイブエントリーの2005年10月の項をクリックして読んでみてください。

 というところで、8月15日の晩にNHKで放送された、日本の、これから「アジアの中の日本」という番組を見て感じたことを、おぼえがき程度に書いておきます。
 その前に、最近、靖国関連の番組に頻出している作家の上坂冬子氏についてですが、私は彼女の、あのしゃべり方が生理的にだめです。上から目線満々というか、自分と意見の違う相手を小ばかにしたような高飛車なしゃべり方にうんざりしています。
 その彼女の天敵とも言えるのが、前記の番組の後半にも出演していた東大教授の姜尚中氏ですが、私は、彼のささやくような落ち着いた声で、しかし物凄く論理的に相手を論破していくしゃべりが大好きなんです。彼が加わって、番組の議論が落ち着きを取り戻した感がありました。上坂氏は出ていませんでしたが、似たような女性が何人かいて、とんちんかんなことを確信を持って発言していて、いらいらさせられましたが、姜氏は、そんな相手に対しても、激高したりすることなく、ねばり強く適確に反論されていて、すぐかっとなってしまう私は、本当に尊敬してしまいます。
 それと、番組中で、携帯による視聴者アンケートの結果が何回か発表されていましたが、あれがどこまで信憑性のあるものなのかについては、私ははなはだ疑問に思います。
 それと、元外務官僚の外交評論家、岡崎某氏。未だに、アメリカべったり外務省のスポークスマンで、うんざりでした。
 上坂氏は、先日、TBSのニュース23に出演した時、例の昭和天皇の靖国についての発言について、「あまり騒ぎ立てるようなことではない」と言っていましたが、彼女のようなひと達にとっては、これ以上話題になると困る都合の悪い話題であるという意味なのでしょうね。
番組に出演していた、戦争体験の無い世代の嫌中嫌韓情をベースにした余裕の無い観念的な危なっかしい発言を聞かされると、ナベツネのような戦争を知っている知の人の明快さが、ここにあれば、とも思いました。
 彼の発言についてはこの記事を参照してください。

「勝てば官軍」とはならなかった

2006-08-11 13:43:00 | スポーツ
 先日のスーパーモーニングでの亀田(父)と、やくみつるの対決後、世間(マスコミ)の関心は、疑惑の亀田(兄)のタイトルマッチ判定から、弟の次戦へと移りつつあるようで、あのお父さんの品の無い恫喝のようなしゃべりと、自信の無さを大口で糊塗するような痛々しい本人の傲慢なしゃべりをもう見ないですむと思うと、ほっとしているところですが、(私の感想については、以前に書いた記事を見て下さい。)今回、やく氏にしても、試合後バッシングを始めた多くのマスコミにしても、試合前は、亀田兄弟をアンタッチャブルなアイドルのように報道する大きな流れに飲み込まれて封印していたみんなの本音がやっとここに来て出て来たことに正直ほっとしています。あの試合前の彼らの持ち上げられ方は本当に異常でした。そういう意味では、本人にとっても観客にとっても初めて意味のある面白い試合だったのではないでしょうか。あの判定以外は。
 あの試合に関する痛烈な談志師匠の皮肉をネットで聞きました。
 ボクシングの世界タイトルは”よくがんばったでしょう”ではないですよね。

「ゲド戦記」追記

2006-08-04 01:29:43 | 映画・ドラマ
 映画「ゲド戦記」と、その現時点での評価について、少しだけ。
 批判票のほうが圧倒的に多い(主にジブリファンと原作ファンだと思う)感じなのですが、私は原作ファンに入ると思うので、原作ファンたちの批判と意見については、尤もだと思うし共感もできます。でも、ジブリアニメファンたちの、ジブリと宮崎駿アニメを愛する彼らの批判については正直よくわからない。私は、アニメファンでもジブリファンでもないので、ナウシカとかラピュタとかと比べて、絵や音楽、キャラクターがどうとかこうとかというアニメファンのマニアックな批判は、ぴんと来ないのです。ただ、私が好きなジブリ作品が「千と千尋」や「ハウル」などのジブリファンにはあまり人気がないらしい作品なので、彼らとは作品を評価する観点は大分違うかなとは思う。そして、今回の「ゲド」の絵の評判があまりよくないらしいのですが、私も最初の竜の出てくる海のシーンやテナーが出てくるシーンでは、「何か”ハイジ”みたいやなあ」と感じましたが、これが意図なのかなとも思ったし、物語がよければ、そんなことは”どうでもいいか”と思っていました。(多くの人が指摘していた「テルーの唄」の場面は、唄はよいのですが、長過ぎて、やはり少し冗長だったと思いましたが。)
 よかったのは、ホート・タウンの街、建物の描写で、お父さんにはない絵の魅力、実力を感じました。
 そして多くの人の不評を買っているらしいキャラクターの魅力の無さですが、原作「ゲド戦記」の世界観、哲学を表現するのに、この映画で彼らが目指した方向(作画部分)は、私はそんなに悪くはないと思います。(アレンのイメージは、私的には幼すぎましたが―原作のアレンは、最初からあれほど屈折してはいません。彼は最初から、若く、未熟ながらも王子然とした高貴さを備えて私たちの前に登場します。)
 それに「テルーの唄」はなかなかよかったし、お父さんの駿さんだと、どうしても良くも悪くも華やかな”駿ワールド”になってしまうと思うので、原作「ゲド戦記」の世界を表現するのにはこっちのほうが合っているとも思いました。成功しているかどうかは別にして。
 でも、私にとって「ゲド戦記」は、あくまでも”ゲドとテナーの物語”なので、アレンとテルーに比重が置かれた映画は、やはり違和感があるし、映画だけを観たひとにも「?」な部分が(ゲドがなぜ大賢人と呼ばれているのか、ゲドとテナーの関係等)あったことと思います。テルーは原作でも重要な役ですが、原作の設定を大幅に変えて、何故あのような形でアレンとからませたのか?原作「さいはての島へ」の、ゲドとアレンの男ふたりの旅では、殺風景すぎて客を呼べないと思ったからなのか?そんな風にも考えてしまいます。何か、その辺りに、安直さを感じてしまう。テルーの「命を大切にしない奴なんて大嫌いだ」というセリフにも同じことを感じました。「命」は大事なことはそのとおりなのですが、映画のアレンの悩みは、そんなひと言によって簡単に変わってしまうほど単純なものだったのでしょうか。テルーという少女を物語のヒロインとして前面に出してきたために、(本来はゲドの戦いであった)アレンの「影との戦い」の物語も、ゲドとアレンの(命をかけた世界の均衡を回復するための)旅も中途半端なものになってしまって、私たちに、彼らの戦いや旅の困難さが伝わって来ないし、ラストの「クモ」との闘いも、原作第四巻「帰還」の邪悪な魔法使いアスペンの話が合成されているので、映画でのゲドの役回りが中途半端なものになってしまって、多くのひとが、映画のゲドに対して物足りなさを感じてしまうことになってしまっていると思う。
 そして、「二兎を追う者は一兎をもえず」という映画になってしまったというのが、原作ファンの感想なのではないでしょうか。やはり、細かいエピソードの積み重ねによってしか描けないものがあると思います。

 ※※参考記事