あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

なにか腑に落ちない・・・(追記あり)

2006-04-27 01:36:46 | ニュース
 昨日(4/25)のNEWS23で、イーホームズの藤田社長のインタビューが放送された。(インタビュアーは筑紫氏)「腑に落ちない」というのは、インタビュー放送後の筑紫氏のコメントで、「告発者と被告発者がいっしょに逮捕されるのは、腑に落ちない気がします。」とコメントされていました。実は、私も、このイーホームズ関連のニュースが流れ始めたころから、「報復か嫌がらせじゃないの」と感じていましたので、たとえ、それが法に触れるとしても、どれくらい悪質なことなのか、また、姉歯氏や木村社長と同じ日に、まったく耐震偽装とは関係ない件で逮捕されるなんて変じゃないですか?なんかとってつけたような容疑でしたしね。でも、私が感じたことが目的ならば、いっしょに逮捕されたということで、「わるいわるいみんなわるい以上」みたいにニュースを見てスルっと流してしまう人が殆どだと思うので、つまりいっしょに逮捕するということが目的だったのなら容疑はなんでもよいわけで・・・。なんか、変だなあ、嫌だなあ、腑に落ちないと思ってしまいます。

 今朝の朝ズバッ!に武部幹事長が出ていて、「小泉構造改革の成果として景気は回復している、求人数もこんなに増えている」と何やら都合の良さげな数字をあげておられましたが、「そんなの東京だけでしょーがっっっ!、なんで、よいしょするんだよ、みのもんた!!この世渡り上手のごますり男がっっっ!!」と呟いていました。

追記:私たちがマスコミによって正義感を煽られているうちに「巨悪は眠っている」のではないだろうか。

※「ナルニア」の「さいごの戦い」についてココログに少し書いてますので、よかったら見てください。
 

男の子、女の子

2006-04-24 14:40:17 | 教育
 本題に入る前に、現代人の(特に女性の)外見についての完璧主義について少し書いておこうと思う。これは、私が以前にこのブログで紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著)「女性の身体はスリムで若くなければならないという強迫観念」と表現されていますが、私たちは、そして殆どの少女たちが、この強迫観念にしばられて、膨大なエネルギーを外見に、そして、痩せることに集中しているのです。そのバカバカしさ・・・。以前に紹介した箇所と重複するかもしれませんが、同書からもう少し引用してみます。「教養を身につける苦労を怠る者、代わりにナルシシズムに浸り」「女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。」「イニシエーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」

 さらに、”美意識”についての清水真砂子氏の意見も引用しておきたいと思う。
 
 ”美意識”とは私たちにあいまいさを許し、しばしば人を傲慢にさせる。
 
 美意識とは「自分が美だと考えるものが、人間の本性の底にある真実や善と結びつくはずだという観念」といってよい。


 そして、「強い」もの、「りりしい」もの、「美しい」ものに惹かれる人間の性に留意して、たえず相対化し、惹かれそうになる自分に待ったをかけると。
 そして、権力機構の中枢は、意外に、美意識をくすぐる、いき、スマートな性質を持っていたりするとも。
      (「子どもの本の現在」現在を見すえて―上野瞭論より 清水真砂子著)

 私も、美意識にしばられ過ぎている女性達の例にもれず、美形を観賞することにはやぶさかでないのだが、「美しいものが善や真実と結びつく」という思い込みからは自由でいたいと思う。もちろん、「みにくいものが善である」という思い込みもまた真実ではないのだが。

 さて、本題に入りたいと思いますが、最近また、思春期の男女間の痛ましい事件のニュースが報道されましたが、こういう事件が報道されると、現在男の子を育てている親としては、男の子がまっとうに育つことの困難さや、男の子に対する否定的な見方や彼らの置かれている状況の難しさを思ったりするのですが、ここでは、少し話しを異性間のトラブルにしぼって話してみたいと思う。ここでも、(これもまた以前にこのブログで紹介しましたが)少年の特徴をわかりやすく解説してくれる著書「男の子って、どうしてこうなの?」(スティーヴ・ビダルフ著)から引用したいと思う。
 ところで、現在参観日とかで学校へ行って気付くことは、(特に小学校高学年で顕著なのですが)一般的にやる気があって成績がよく元気なのは女の子で、男の子は―積極的な子は粗野で攻撃的な方法の自己表現に走るのでアナーキズム化し、消極的な子は自分をうまく表現できないために、とても自信がなくやる気もなさそうで逃避的な様子で精細がない―といった二極化の様相を示しており、どちらにしても、この時期の男の子は女の子に比べてやっかいもの的で否定的なイメージで捉えられているのではないだろうか。そしてそういうイメージに拍車をかけているのが最近の少年事件で、それらによってまた少年に対する否定的なイメージが社会的に形成されている。どちらのタイプにしても、この時期の少年達は劣等感を抱きやすい条件が揃っている。そして、そのことに対する充分な周囲の理解と援助が無い場合、その劣等感は、容易に周囲(女の子)に対する攻撃的言動となって現われる。多くの少年事件は、少年たちのこの心理で説明できるものだと思う。そしてそれに拍車をかけているのが、少女達の未熟な皮肉っぽさで、必要以上に辛らつで残酷な彼女達の言動によって、少年たちは更に傷つき怒りをため込むようになる。

 実際には、少年たちの知らない少女たちもまた、しばしば自信のなさや居心地の悪さを感じている。彼女たちも少年たちと話し、愛情を分かちあいたいと思っているのだ。もし少年たちがもう少し社交術に長けているか、大胆であれば、男の子と女の子のあいだに、もっと肯定的な関係が生まれるだろう。ところが、少女たちはおたがいにささやきあい、少年たちをあざけっている。少年たちは少女たちを困らせ、おとなしい子たちは少し離れたところに立ったまま、くよくよ考えてばかりいる。
 「陰湿な」心の性質(「もし少女と対等につきあえないのなら、彼女たちを操るしかない」という心持)がしばしば芽生えるのはこの段階においてである。ヌード雑誌やソフト・ポルノのようなミュージック・ビデオによっては救われない。「見て、でもさわっちゃだめ」というメッセージは規模の大きないじめにすぎない。それは強い性的な充電をひきおこし、発散されないままに心のなかで怒りに変わっていく。現実の少女と話すチャンスがあまり持てないと、少年たちは女性を操作したり支配したりすることを夢想しやすくなる。彼らの女性にたいする態度や、人間としての女性とつきあう能力は劣化するいっぽうだ。
                  (「男の子って、どうしてこうなの?」170頁~171頁より)


 わが子の経験で言えば、それは、下の子がまだ小学校の低学年の頃のことなのですが、ある女の子に「おはよう」とあいさつしたら、その女の子は、いっしょにいた女の子とひそひそとささやき合っただけで(何と言ったかは知りませんがたぶん息子の事を半分ばかにしたような言動だったと思います)あいさつはなかったようです。それを聞いて、私は「(彼女の)その態度はおかしいね」と彼に言いましたが、彼にとっては、「自分は女の子には相手にされないのだ」というトラウマのような経験だったかもしれないと思います。こういう経験が積もり積もっていくと、傷つきやすい子のなかには、女の子に対する憎しみの感情をため込んで、ニュースで報道されるような残酷な行動に走ってしまうという不幸な事件が起こってしまうのではないでしょうか。
 そういう痛ましい事件を起こさないためにも、社会や女の子の男の子に対する理解や助言が求められているのではないでしょうか。そしてそれは、今の多くのTVメディアなどには見いだされないものだと思います。
 どうか、少年たちに理解とよりよい助言を。

 最悪なのは思春期の子どもたちを放っておくことである。(同書より)

ナルニア国ものがたり」(全7巻)についての感想をココログにアップしましたので、よかったら見てください。

 
 

「魔術師のおい」読了(追記あり・ナルニア関連記事の紹介あり)

2006-04-15 02:47:13 | 映画・ドラマ
 
    黄金の門より入れ、さなくばはいることなかれ。
    わが木の実はひとのためにとれ、さなくばひかえよ。
    木の実をぬすむもの、つい地をこえるものは、
    心の欲はみたすとも、つきぬ絶望も見出さん。
    
       「ナルニア国ものがたり6/魔術師のおい」(C・Sルイス作 瀬田貞二訳)より


 「ナルニア」の6巻目「魔術師のおい」を読了した。上に引用したのは、この物語の主人公の子どもたちディゴリーとポリーがアスランに命ぜられて、リンゴをとりに行った、とおい緑の谷間にある果樹園の門のとびらに書かれていた文句です。この巻では、ナルニアがアスランによって、どのようにしてつくられたか、またそのできたばかりのナルニアに子どもたちのせいで悪がまぎれこんでしまう様子が語られています。ディゴリーとポリーはそのつぐないのためにリンゴをとりに行くことになるのです。また、「1/ライオンと魔女」に出て来る”衣装だんす”の秘密や、ルーシィが初めてナルニアに行った時に見つけたあの”外灯”のなりたちも語られていますので、興味のある方は読んでみてください。
 
 映画「ナルニア国ものがたり ライオンと魔女」の感想をいくつか読みましたが、何か本質と関係ない(美形が出てこないとか、「指輪物語」と比べて物足りないとかの)ピントのずれたものが多かったです。皆、何を観てるんだかねえ。極端に”美”にこだわることについてはいずれまた書きたい(前記事に書いた女性の主に外見に関する完全主義とも関連していると思うので良かったら見てください)と思ってますが、この「ナルニア」の中では、悪が美の顔を持っていることが多いということだけは言っておきます。
 それと「指輪物語」と比べて物足りない、お子様向けだという意見ですが、よい児童文学は大人が読んでも読み応えがあります。エドマンドがターキッシュ・デライトというお菓子を食べて悪に引き込まれるところの表現などは本当にうまいと思います。映画が物足りなかったひとは是非原作を読んでほしいですね。原作を読んでも物足りないと思ったひとは、暴力あふれるメディアに慣らされて、強い刺激やショッキングな描写でしか満足できない自分の感性の鈍化を疑ってみてください。


 私は人間をとりまいているさまざまの固定観念、限界、束縛などを解き放とうとするときに生じる摩擦音のようなものとして、ファンタジーを考えてみたい。
       「子どもの本の現在」清水真砂子著(62頁)より


追記:ローリング・ストーンズの来日ツアーも終わったのかな?何かでインタヴューをやっていたのを見た記憶があるが、今さら、「アーイキャーンゲッノォーサァーティースファークショオーン」なんて聞く気もないが、今回ではなくて、ちょっと以前にニュース23で草野さんがインタビューしていた時のキースのインタビューはすごかった。例によって酔っ払っていたと思うが(いつもしている髑髏の指輪の意味についても説明していたと思う)、「若者に何かメッセージを」と言われてカメラに向かって言ったひと言 「生きのびろ!」 は、言ったひとがキースだけに強烈なインパクトがあった。
 「”どうやったら生きのびられるか”ということを子どもたちに伝えるのが子どもの本のいのちである」と上述の清水真砂子さんが「幸福の書き方」という著書で言っておられますが(彼女は、「今時、幸福なんて、口にするのも恥ずかしい」と前置きされて語られていることは断っておきますが)、私も、それを知りたくて子どもの本を読んでいます。

「ナルニア国ものがたり」読了の記事をココログに書きましたので、よかったらのぞいてみてください。

つれづれ日記(完全主義の滑稽さ、城島のこと、追記あり)

2006-04-11 14:20:22 | 日記
 学校の新年度が始まって、(我が家にはピカピカの中学一年生もいるので)入学式やら諸々の書類提出やら家庭訪問やらで、4月もばたばたとあわただしく気忙しく過ぎていきます。

 そんななかで、最近感じていることを少しだけ書いてみたいと思ってます。私のブログを読んで下さってるかたはご存知だと思うのですが、我が家の子どもは二人とも男の子なので、母親にはわからないその習性にうんざりしながら、可愛く思ったりして過ごしているわけですが、何が言いたいかと言うと、彼らも発展途上中ではありますが、れっきとした一個の他者ですから、(彼らのアホな行動に”そんなばかな”と思いつつ)強権発動は極力控えて付き合っているわけです。(この点を本人たちに聞いたら大いに異論はあると思いますが。)で、日ごろ私が何となく感じているのは、子どもとの関わりにおいて、子どもが自分にとって異性であってよかったかなという点で、私から見て、それはちょっとと思うような行動があっても、彼らが男の子であるということから来るワンクッションが、私の反応にあると思うのです。ぶっちゃけて言うと”男の子だから仕方ないか・・”と諦めつつ、ダマシダマシの子育てをしている感じがあって、時々”もうすぐ堪忍袋の緒が切れる!”とか”仏の顔も三度まで”と宣言してぷっつんしていますが、女の子がいないので、この点、同性の子どもの場合だとどうなのかと想像するだけなのですが、きっと、向こうが母親に自己同一化してきたりすると、親子共々、色んな反応とかが完全主義になってしまうようなことがあると思うのです。私は、昔から、女の子のそういう極端さ、極端に清潔さを求めるとか、極端に美を求めるとか、痩せてなければならないとかなどの、極端に「こうであらねばならない」と考えて、かた苦しくなってしまうという点が苦手で、色んな点である程度アバウトな男の子を見ているとほっとしたりするのですが、最近は、そんな男の子たちも、母親たちの完全主義の影響を受けて自らをかた苦しくしている傾向もあると思うのですがどうでしょうか。
 極端な完全主義の滑稽さは、あの有名なゴージャス姉妹に感じる滑稽感が最もわかりやすい例ではないでしょうか。(彼女達は大真面目にやっているのだろうが、あの巨大すぎる胸ひとつとっても”ムネハオオキクナケレバナラナイ”という美意識に対する完全主義的な帰結として見たら大笑いだ。)まあ、あれほど分かりやすい例でなくても、周囲の空気を固苦しくさせている(そして客観的に見れば滑稽な)女性たちの完全主義には気をつけようと、自省の気持ちを込めて思います。
 
 「なにごともほどほどでいいではないですか」、と。


 というところで、少し話しをかえますが、とりたてて野球ファンではない私ですが、ホークスからマリナーズに捕手として移籍した城島選手はいいですね。見ていて笑みがこぼれる選手です。ああいう人材がサッカーの日本代表に欲しいなあー。

 追記:鈴木隆行2ゴールおめでとう!!雑音やバッシングに負けずにがんばれ!!

つれづれ日記(最近観た映画のことなどを少しだけ)

2006-04-06 17:14:08 | 映画・ドラマ
 最近、子どもたちに「お母さんの又の名はウィリー・ウォンカと言います」と言って、デップ=ウォンカ氏の口調(私が観たのは吹き替え版なので)を真似したりして遊んだりしている私です。
 ティム・バートン&ジョニー・デップコンビによる映画「チャーりーとチョコレート工場」(※拙記事参照)は、”私のツボにはまってしまいました。”ティム・バートンの悪のり風の作風と芸達者なデップの演技が原作にぴったりマッチして(好き嫌いはあると思いますが)おすすめの映画です。

 先日、映画「ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女」を観てきました。「ナルニア」については、今、全7巻をぼちぼち読んでいるところで(今4の「銀のいす」まで読んだところです)それから感想を、と思っているのですが、なかなか読めないので、少しだけ映画の感想を書いておきます。映画もなかなかよい出来だったと思います。ふつう原作を読んでから観るとがっかりすることが多いのですが、そんなこともなく楽しめました。ほぼ原作に忠実に映画化されているのと、ふんだんにお金がかけられた贅沢な映像を楽しめました。しっかりした原作だから映画もまずまずよくできたと言うことかとも思いました。お金がかけられたよさということもあると思います。主役の4人の子どもたちもそれぞれの特徴がよく捉えられたキャスティングでよかったと思います。
 
 ところで、我が家の長男は、白い魔女の女優さん(ティルダ・スウィントン)のことを「美しかった」と言っていましたが、母は「美と善は同居しないから気をつけようね」などとまあ当たり前の意見を言っていました。彼は、「チャーりーとチョコレート工場」に出て来る”わがままお嬢様”、ベルーカ・ソルトのことを「性格は悪いが顔は美人」などとも言っていたので、「あんたねえー、実生活でもそういう人いたでしょ。(ちょっとは学習したら)」と同じようなことを繰り返した母でした。(この件についてはもっと書きたいし、先日TVで放映された映画「指輪物語 王の帰還」についても書きたい気もしますが、今日はこの辺りで。