あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

最近のテレビから ( 「悲しくてやりきれない」 )

2007-05-26 23:25:26 | 映画・ドラマ
 先日放送された井筒監督の「パッチギ!」を観ました。(「パッチギ!LOVE&PEACE」は観てません。)私のテイストから言うと、騒々し過ぎて、暴力的過ぎて、どちらかと言うと好みではないですが、好きな部分もある映画でした。特に音楽!フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」、「イムジン河」、そして「オックス」(=失神が売りのグループサウンズ)もどきのバンドがちらっと出て来るとこや彼らのマッシュルームカットにも笑わせてもらいました。個人的には「悲しくてやりきれない」は、改めて聞きましたが名曲だと思いました。このセンスはとてもよかったです。あの悲しみの表現は普遍性がある。「フォークルのコンサートに行かへん?」と言ってデートに誘うところなども、そんな時代だったのか~と興味深かったです。

※参考記事「もっと悲しみを~中也の絶対音感~

 

映画について(少し追記しました)

2007-05-22 23:35:17 | 映画・ドラマ
映画について少しだけ、とりとめもなく。
 
 私は、映画を観る時、他人の映画評というものをほとんど参考にしない。以前、映画評論家と呼ばれる方達の評判があまりよくなくて見逃していた映画を、ずーーっとあとになって観て、「なんでこれを今まで観なかったのだろう!」と後悔したことがある。その時から他人の評価によって映画を判断することはきっぱりやめた。
 ヤフーの映画の掲示板などは、観ていると腹立ってきて、鬱になりそうになる。一般にどう観られているのかの興味から覗いたりはするのだが、多くの場合、的外れな評ばかり見せられて、がっくりして去ることになる。誰でも参加できるインターネットという場の限界をもっとも感じさせられる場だ。どれだけ誤解して受け取られているかを知ることはできるが、いつも鬱な気分になることだけは間違いない。だから批判評に多いのだが、映画評としてはほとんどが意味をなさないし、精神衛生上もよくないのだが、こわいもの見たさで時々覗いてしまう。そして、いつも疲れる。芸術的価値というものは、民主主義や多数決とは関係なく存在しているということだけを確信させられる。最近の日本映画によく見かける勿体ぶった気分や感性だけで作られたこけおどかしの作品を有難がる必要はないが、狭い視野や経験の無さから理解できないものを、素人たちが2、3行で切り捨てる言葉が等価に並んでいる場への怒りが沸いてくる。

 芸術の分野で成功しなかった人が、政治家になり、権力を握ってから芸術に口出ししたり、映画を制作したりという、とくに元芸術家志望の政治家の映画制作ってのは禁止すべきだと私は思う。(例、ナチスによる「退廃芸術」弾圧、映画「民族の祭典」)など。
 
 もう何度も書いたので聞き飽きた方もいると思うが、石原氏のあの映画は、私の感性と哲学からはまったく理解不能の作品だ。そして、あの作品に感動するひとの多い現在の文化状況、そこにあるごまかしと傲慢に目をつぶって批判意見を皆が口にしない状況にうんざりしている。よくあんなタイトル付けられてみんな黙っているものだと思う。あんなタイトルとあんな音楽を遣うセンスで映画作りに手を出したものだと思う。同映画の掲示板に、今日(23日付け)の投稿で、「よくもまぁこれだけ恥ずかしいタイトルを!」というタイトルで「83歳 マキン島生き残り兵 」と称する投稿が載っていましたが、その感想にもっとも共感しました。何度も言うけれど、石原氏本人も石原ファミリーの誰ひとりも「死ににいけ」という側にはなっても「死ににいく」側にはこれからもならないだろうということに気付いてほしいし、プロパガンダ映画のために死者を利用するのは止めてほしい。そうではないと言うのならあんなタイトルは絶対に付けれないはずだ。あれがいいと思う感性で映画とか文学に関わってほしくない。戦争を語るのに、特攻とかヤマトとかしかないのもなんだかな~と思うし。


 ヤフーとかの掲示板その他を見る前に、頭に入れておいてほしいのは、映画も含めた芸術作品の価値は、個人の好きとか嫌いとかの好みとは別個に存在しているということです。例えば、ある高校生が絵画について、「ダ・ヴィンチやミケランジェロの絵は嫌い」と言ったとしても、誰にも相手にされないように。で、(こんな言い方はしたくないのだが)、一般論ですが、最近の若い人たちは、文化的な視野が昔と比べて狭い気がする。映画、音楽、文学などすべての分野で、アメリカは別として、海外の作品に目を向けている人の確率が昔と比べると圧倒的に少ない気がする。このことと、最近の若いひとの危うさとはやはり関連していると思う。

 芸術に関する石原氏の発言等も、そのような視野の狭さから来る傲慢さに満ちているけれど、そんな彼が人気があるのも、こういう一般の視野の狭さと大きな関連があると思う。石原氏の傲慢さというのは、例えば、吉田茂や白州次郎の態度などとはまったく違うものに見えるし、やはり、精神にとっては大きな問題があると思う。

監督クリント・イーストウッドに脱帽

2007-05-13 14:45:51 | 映画・ドラマ
 「硫黄島からの手紙」(※参考記事)が素晴らしかったので、硫黄島をアメリカ側の視点で描いた「父親たちの星条旗」も借りてきて観た。こちらも、いわゆるハリウッド式のヒロイズム、センセーショナリズム、スペクタクル満載の戦争映画ではまったくなく、硫黄島での激戦と同時に、たまたま、話題になったニュース写真に写っていただけで、本国で戦費調達のための国債販売のキャンペーンに”硫黄島のヒーロー”として利用される三人の兵士たち(誠実でこころ優しい衛生兵のドク、インディアンのアイラ、只の伝令だったレイニー)のとまどいや苦悩、そして硫黄島で亡くなった兵士たちへの思いが描かれている。死者への思いは亡くなるまで消えなかったことも描かれている。

 冒頭部分、晩年のドクが、PTSDの症状のように硫黄島で亡くなった友人のことを思い出してうなされる場面のあとに挿入される彼の独白、


 戦争を分かった気で
 いるやつはバカだ

 特に戦場を知らぬ者に多い
 
 皆単純に考えたがる

 ”善対悪”
 ”ヒーロー対悪者”
 
 どちらも大勢いる
 
 だが実際は我々の
 思うようなものではない     


 
 この言葉に監督の思いが籠められていると思った。
 
 そして、抑制された表現だから却って、多くの若者の命を奪う戦場の残酷さがリアルさを増していると思う。映像でしか表現できない現実が表現されている。この監督の制作スタンスがとても好きです。観客への媚びや無駄な盛り上げやスペクタクルなどは一切ないこのスタイルが好きです。監督としてのイーストウッドを尊敬します。


 「硫黄島からの手紙」については、史実との違いを指摘して鬼の首でも取ったような批判をいくつか見かけたけれど、そんなことで、この作品の本質に対する評価は揺らがないということは、声を大にして言っておきたいと思います。

 ※参考記事 

 

サッカーについてのひとり言( ドーピング問題についての追記、ココログの記事紹介あり )

2007-05-08 22:10:27 | サッカー
 前にも書いたけれど、いまのわたしのサッカーに関する関心はかってないほど低くなっている。原因は2006年の惨敗、はまあ当然の結果として、にもかかわらず居座り続けるトップのいる日本サッカー界の体質に対する根本的な違和感のせいだ。あのひとがトップにいて、気まぐれに口を出して、日本のサッカーを私物化し続ける限り、状況は変わらないだろうと思う。その不透明な閉塞感に対するイライラだ。日本のサッカー人気のバロメーターとも言える代表人気、代表戦の視聴率が低迷しているらしい。当然でしょう。私の周囲では子どものサッカーの試合結果くらいしかサッカーは話題になってません。ドーピング問題も高原の活躍も、俊輔の優勝もまったく話題になってません。私もほとんど興味がありません。このままだとジリ貧に人気がなくなっていくだろうなあと思います。Jリーグバブルもこんな風にはじけていったよね。あの時も現会長は判定のことで、素人のように口出して水を差してたよね。おかげであっという間にJリーグ人気は急落した。

 私が、いま唯一興味があるのは、ブラジル代表監督のドゥンガがどういうチームを作って来るかだ。インテルナシオナルの新星アレシャンドレ(のボールタッチ)には注目してますが、世界的に見ても、あんまり好きな選手がいなくなってしまった。選手じゃなくてオランダサッカーは相変わらず好きですが、アルゼンチンのメッシとかの、これみよがしの個人技サッカーはあんまり好みではないし、アンリのようなうまいだけの選手にもあまり魅力を感じない。サビオラとかリケルメにはちょっと興味はあるけれど。

 とにかくいまの状況が続く限り、一般のサッカー人気は上がらないでしょう。日本のアレシャンドレのような新人が出て来ない限り。協会も選手にも反省が足りないし、その反省の無さは、2006の失敗をオシムジャパンによって糊塗して、ごまかそうとした川淵会長の反省の無さに諸悪の根源があると思う。


追記:今朝の新聞等に我那覇のドーピング違反の処分問題が結構大きく出ていて、なんだかな~と思ったので少しだけ追記します。なんだかな~と思ったのは、処分されたほうではなくて、処分をしたJリーグ側のお役所的態度。”最大限の処分を科した”って、記事を読む限り、Jリーグ側の周知の不徹底という問題もあったらしいのに、ひっかかった我那覇選手と川崎の言い分も聞かず、弁護するでもなく一方的に悪人扱いとしているところが納得いかない。川淵会長に至っては、「半年資格停止」って代表にも選ばれている選手に対する何の配慮もない軽々しい発言だし、おまけに高原についてコメント求められて、「喜ばしい」って「皇室か!」ってつっこみたくなりました。

 
 また始まった、
 ――何が、――高原甘やかしが、


 それくらいのことでは、落ちた評価は取り戻せませんからっ!


※ココログに映画「硫黄島からの手紙」についての記事を書きました。よかったら訪問してみてください。

 

「無言館展」

2007-05-06 16:19:38 | 芸術
 最近、長野県上田市にある「戦没画学生慰霊館無言館」(館長・窪島誠一郎)の収蔵作品の展覧会「無言館展」に行った。特に反戦の絵画が展示されているわけでもない、有名な日本画家の子息などの作品もあったが、すべてこれからという無名の画学生の作品で、最初はさらっと観るつもりだったが、作品に添えられた作者・作品紹介の解説を読んでいるうちに、途中からそうはいかなくなった。彼らの生没年、(ほとんどが大正生まれで、二十代前半から三十代前半くらいですべての学生が亡くなっている。)そして、遺族によって語られた作品についてのエピソードを読んでいるうちに涙がこぼれた。そしてあらためて気付いたことは、その多くが、病死や餓死や訓練中の事故や輸送船の沈没などの戦闘行為以外の原因によって亡くなっているということだ。この事実は残された遺族にとって、その死を余計に受け入れがたい不条理なものにしているのではないだろうか。遺族たちは、戦後ずっと亡くなった者への思いを抱えたままそれらの作品を保存し続けたのだ。遺された作品が反戦をテーマにしたものではないだけに、よけいに彼らの残された思いと戦争の不条理さに胸が詰まった。その不条理さを認識できただけでも観てよかったと思うし、その事実は美化したり、ごまかしたりせずに記憶されなければならないと思います。

NEWS23の憲法特集 (5月3日の放送より)

2007-05-05 00:29:09 | テレビ
昨夜(5/3)のNEWS23の憲法特集「護憲、改憲論議を越え生討論より」での発言を少し紹介します。討論者は、司会の筑紫哲也氏と萱野稔人氏(津田塾大学准教授、哲学)、愛敬浩二氏(名古屋大学教授、憲法学)です。

 (昨夜、アップしたかったのですが、録画もしてなくて、簡単なメモ書きしか残ってないので、発言者、細かい言葉などの記憶が少し不確かですがご容赦ください。)

 
 ”自主憲法を目指す”と言われたりするが、”自主憲法になってるのか?”という点が疑問である。目指されているのは、アメリカの意向にしたがう、したがってしか自主権憲法を持てないのではないか。”戦後レジウムを越える”のは、”国際的レベルで越えるのは無理(!!)”で、内側(国内)でしかできない。内側でそれが行われると、必要以上の締めつけが起こる。(愛敬)

 だから、憲法99条の国会議員、公務員の「憲法尊重擁護の義務」が重要になってくる。国民は”政府や公務員に憲法を守らせる権利”を持っているという99条が重要なのだと。(愛敬)

 (今の改正論議については、)

 ”選択可能な世界”から、理念として”こうあらねばならない”という世の中の流れになってきていると思うが、憲法についての”拙速な議論は疑問である”として、第25条には、”国家が国民に対して責任を取らなければいけない”ということが定められている。(第25条「生存権と国の社会的使命」)(萱野)

 最近、”異議申し立て者”にかかる負担が重くなっている。その負担を軽くしなければいけない。(愛敬)

 国家の強制力への警戒心が欠けている(筑紫)(例―2日に放送された”改憲ラッパー”)

 国民が国家をコントロールできないとだめ。それを制度的にどう保障するか。
 9条を改正したらアメリカと対等になれると言う議論があるが、果たしてそうか?は疑問(萱野)

 9条改正に徴兵制は不可欠という意見があるということを知っておいてほしい。
 ネットカフェ難民やイラクの現実などの見たくない現実から目をそらして、改憲論議にうつつを抜かしているという印象がある。(愛敬)


※ココログにランボーの詩についての記事をアップしました。よかったら訪問してみてください。