あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

キラキラしているふつうの子

2007-09-22 21:54:52 | 日記
 先日、息子の中学校の体育祭に行ってきました。(公立中です。)
 で、巷間(特にマスコミとかで)いろいろ言われてますけど、「中学生って、まだまだカワイイなあ 」って言うのと、「どの子もキラキラしていてまぶしいなあ 」って感じました。本当に!自分には失われてしまった若さがキラキラしてまぶしかったです。その輝きのことを声を大にして言いたい。世間は一般化して、こんなものだよってレッテルを貼りたがるけど、「みんなキラキラしているよ」って。そして、キラキラしているのは、何か才能があったり(例えば足が速かったりとか)、顔がきれいだったりするから輝いているわけじゃない。全員がキラキラしているのだ。ふつうの子がキラキラしているのだ。その若さに圧倒されて、心地よくなって帰ってきました。
 
 それと、うちは特に体育祭に力を入れてるのかもしれませんが、毎年、応援合戦がすごいのです。息子の青組は応援合戦で”応援賞”という賞を貰ったのですが、やぐらを組んで、各チームが応援団長の合図に合わせて応援合戦をするのですが、これが凄い!だから見る方は、見応えがあって楽しみにしているのですが、やる方は、当日まで、毎日、朝練などがあって、とても大変で、息子は「優勝とかどうでもいいから体育祭早く終わってくれ~」と言っていました。その各組の応援団長が、中学生ながらカッコいい!特に青組の団長は声も渋く、なかなかのエンターテナーで、中学生侮るべからず!って感じでした。応援ソングのなかに、「イイ男、イイ男、今年の団長イイ男!」という”団長イイ男パート”ってのがあって、かなり受けてました。

つづき( 日韓後 のあれこれ)

2007-09-11 21:54:51 | サッカー
今回、日韓後のことを、いろいろと思い出してみた。

 日韓Wカップが終わって、日本は、グループリーグ突破というノルマを達成したにも拘わらず、ヒディンクの韓国がベスト4まで行ったため、トゥルシエに対する評価は、よくやったというより、もっとやれたはずという批判的な意見のほうが大きかったと思う。

 そんな一般の声に呼応するように、しばらくしてNumberでの川淵会長と現都知事との対談で、トゥルシエの日本選手に対する態度が差別的管理主義的だとして批判されたりしていた。

 Wカップが終わってすぐのころ、中田のことを、やたらヨイショして持ち上げる特番が放送された。Wカップでの勝利はすべて中田の手柄だと誘導するような番組作りには、当時でさえかなりの違和感を感じた。そして監督との確執なども、中田側からの一方的な感想が語られることによって、一種のトゥルシエ批判になっていたと思う。

 Wカップ後、高原が、Jリーグで大活躍して、ドイツのエースを約束されたようにメディアで持ち上げられていた。(Wカップが終わってからというのが、今回と同じですね。そしてその後の予選ではダメダメだったのですが。)

 アテネオリンピックで、山本昌邦監督が、オーバーエイジ枠に、(前回オリンピックや日韓大会に怪我や病気で出場できなかった)高原と小野を選ぶが、高原はエコノミー症候群が再発して辞退。アテネオリンピックは、おもに守備の崩壊(オーバーエイジ枠によるバランスの崩れ?)によってグループリーグ敗退した。(まるで、この大会はドイツでおきることを予言していたようでした。)

 トゥルシエへの多分に感情的なものも含めた反発、反動から出発した(やたらと自由、自由と強調されていた)ジーコジャパンは、その出発点、(トゥルシエジャパンの功罪を充分に検証をせずに始まったそのスタートが)、まちがっていたと言える。トゥルシエジャパンで何故稲本が守備を気にせず伸び伸びと攻撃に参加できたのか、高さとパワー不足対策として効果があったこと、いまひとつだったこと、などについて(Wカップ後に「フィジカルの弱さ」などと会見するのでなくて)そのスタート時にしっかり検証するべきだったと思います。それなのに、反動や怨念から出発してしまった。(この項続く。たぶん・・・) 

 ※gooに新記事少年がいる (映画「バッテリー」より)アップしました。

久しぶりにサッカー記事でも・・(映画「バッテリー」を観て)

2007-09-09 00:12:14 | サッカー
 映画「バッテリー」のDVDを借りてきて、(感想はこちらです)日本にしっかり根付いた「野球文化」とでもいうようなものについて考えさせられたので、(現時点でサッカーであのような映画が作れるとは思えない。日本にはまだ文化と呼べるほどサッカーは根付いてない。)ので久しぶりにサッカー記事でも書いてみようと思う。
 
 テーマは、しつこいようですが、ドイツWカップです。
 私は、未だにあのWカップについての、自分を納得させられるような検証記事に出会ってない。それが出る前に世間の関心は、中田の引退宣言メールやオシムジャパンに移ってしまったから。いくつかの興味深いレポートを読んだけれど、私を芯から納得させるものはなかった。世間一般の日本代表への急速な関心の薄まりに呼応するようにジャーナリズムも含めて、皆があの代表のことを、あの三試合を忘れようとしているようだった。「勝てば官軍、イイトキダケノマスコミ」っていうのは日本のジャーナリズムにとっていつものことですが。

 セレソン時代のジーコのファンだった私は、他のひとほど、ジーコに批判的ではなかった。いまでもそうだ。ジーコは、彼の経験と実力に即した仕事をしただけだと思う。彼に対していちばんがっかりしたのは、ドイツ行きの最終メンバーが、結果的に、かなり協会やファンやマスコミに迎合したようなものだった時だ。(その時点で、私はあの代表を見切っていた。)そしてその延長としての選手起用や交代の結果として予想通りの敗退だったが、あそこまでダメだったとは・・・。多くのひとと違って、私の怒りは、監督よりも選手のほうに向かった。負けるのはいい。Wカップで、しかもブラジルのいるグループだったのだから。しかし、何だったんだろう、あの負けっぷりのみっともなさ、無惨さ、覇気の無さは。最後のブラジル戦なんて、まるで悪い夢のようだった。太平洋戦争末期の日本軍の玉砕戦のように見ていられないような試合だった。で、その大きな落胆と失望のあとに来たのが、中田の引退メール騒ぎとオシムジャパンって・・・。私は、どちらにも乗れなかった。そんな時期にそんなメールを発表する中田にも、がっかりした。ジーコは最終的には中田を中心にしたチーム作りを目ざした。ジーコジャパンは中田ジャパンだったと言ってもいいと思う。だから、彼には他の選手以上に責任があったと私は思っている。それがあの引退メールで雲散霧消してしまった。「中田だけはがんばっていた、走っていた」という声をいくつも聞いた。しかし、これまで中田だけが目立つ試合は殆どと言っていいほどどれも負け試合である場合が多い。ジーコジャパンはワールドカップ本戦に至っても、チームに2年前のアジアカップのような一体感が生まれなかった。それは、つまるところ、人間性も含めた中田という選手の限界であると思う。ジーコは中田に彼のキャパシティ以上のものを期待して、それに彼が答え切れなかったのだと思う。彼を責めているのではない。事実を見極めたいだけなのだ。少なくともあの大会においては、中田がいることによるメリットよりも、彼が入ったことによる不協和音の方が目だってしまっていた。前任者のトゥルシエは、ジーコよりも彼の欠点を把握していて、中田と対決することも辞さなかったのは、今思えば、中田という諸刃の剣を扱うひとつのやり方だったのだと思う。勿論、中田だけに問題があったわけではない。マスコミやサポーターや協会の意向を組みすぎた選手選考、起用、その最たるものが、オーストラリア戦のあの小野という日本サッカー界の人気者への選手交代だったのではないかと思う。トゥルシエだったら、絶対あの交代はなかっただろうし、大会前の小野のプレーをちゃんと観ていたひとは、誰もがウッソォ~!と思ったあの交代の理由はそれしか考えられない。
 
 どんな代表監督も、その国のサポーターやマスコミの好みや意志にまったく無関係に選手を選んだり起用したりはできない。(トゥルシエはそういう意味ではかなり自分の信念に沿って選手を選んだし、フランスの岡田監督のカズの件も私は支持している。)という意味で、ドイツの結果は、多くのひとたちの希望と意向に沿った結果の敗戦だと私は思っている。ジーコはみんなの意向を汲み取って選手を選び、その結果チームにとって不可欠な要素が不足し、そして失敗したのだ。それがすべてではないにしても、成熟というには程遠い日本のサッカーで、みんなの意向を汲むことは、デメリットのほうが大きいと私は思っている。
 
 ドイツ大会の日本のパフォーマンスは、4年前からの何のステップアップを見せられなかったことで、世界のサッカー関係者を失望させた。そして、次の大会に出れるかどうかもわからない。そして、過去に学ばず、雰囲気だけの楽観主義に浸っている現状では、私の日本のサッカーと代表への関心は薄くなるばかりである。アジアカップもいまみっつくらいだったし。(この項不定期で続く。たぶん・・・)

 それはさておき、映画「バッテリー」は「野球」の魅力がきちんと伝わってくるなかなかの良作です。ぜひ御覧になってください。