あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

テレビの中の出来の悪い役割モデルたち(細木数子、明石屋さんま)

2005-11-30 01:11:15 | 教育
 子育てに関するふたつの記事を書いていて、ふと気付いたことを書いてみたい。
 
 前回の投稿の最後にも書いたのだが、「明石屋さんまは出来の悪い”役割モデル”である」、あるいは 「さんまの番組”から騒ぎ”は細木数子の番組に似ている」ということに気付いた。
 
 彼が、例の(もう恋がどうこうという歳ではないのであまり見たことは無いですが)「恋のから騒ぎ」やその他のトーク番組で、若い女の子や芸人たちに向かって恋愛薀蓄話や自分の女性観を語っている様子が、その不完全さにおいて、細木数子が彼女の番組で若い芸人たちや女の子たちに説教している図に重なって見えたのだ。
 私は、さんまが、現在において若い世代にどれだけの影響力があるのかは知らないが、若手芸人たちやテレビをよく見る層にはまだまだ絶大な支持を受けていると思うので、そんな彼が「俺は子どもを産んでお母さんになった女は駄目なんだなあ~」とか、若い女の子に(ご丁寧に”説教部屋”などと名前を付けて)説教を垂れているのを見ると勘弁してくれと思う。「このひとは何歳まで”恋がどうたらこうたら ”言い続けるつもりだろうか 」、と思う。そしてこんな”出来の悪い役割モデル”しかいない日本の若者たちを可愛そうに思う。私は、芸人さんまは決してきらいじゃないし、例の”説教部屋”も大人が見ることをとやかく言うつもりはない。彼の「サトウキビ畑」のドラマでの演技などは評価しているし、今時の若い芸人たちよりもずっと常識も教養もあると思う。彼の時おり見せる父親としての感想に共感したりもする。ただ、「彼の恋愛論だけはもううんざりなのである。」若い子たちには、「彼の女性観や恋愛論を真に受けても幸せにはなれないよ 」ということは声を大にして言っておきたいと思う。(皆がわかっていて、「反面教師」として聞いているなら、それはそれでよいのですが、番組の出演者たちを見ているとどうもマジに聞いているとしか思えないので)

 それにしても、「から騒ぎ」に出演している女の子たちには、どうもバブルの時代の尻尾がくっついているようなセンスの古さを感じてしまうんだが・・。その出演者のセンスの古さ加減が、さんまの恋愛論とほどよくマッチしているのかもしれないが・・・。

 今日の格言:  恋愛を語っているさんまは、”思春期気分のオトナ”でしかない

 (「役割モデル」、「思春期気分のオトナ」については前二つの投稿を参考にしてください。)

男の子の育て方

2005-11-28 15:26:43 | 教育
 前回の投稿の続きで、子育てに関するお勧めの本を二冊挙げておきます。
 「子どもに変化を起こす簡単な習慣」(バーバラ・コロローソ著/PHP研究所)、
「男の子って、どうしてこうなの?」(ステーィブン・ビダルフ著/草思社)
です。

 最初の、「子どもに変化を・・・」の方は、ベストセラーになった「子どもが育つ魔法の言葉」(ドロシー・ロー・ノルト/レイチェル・ハリス共著)に似た本ですが、項目毎に細かく分かれていて、ひとつひとつのアドバイスも古臭くなく且つ明快で実用書の趣があります。
 ”9 ヘアスタイルは子どもに選ばせる”という項での筆者のアドバイスは、こんな感じです。以下に少し引用してみます。
 
 以前、うちの学区で保健教育主事を務めていたドン・ショーによると、子どもが思春期になるまえに、たいていの決断を本人にさせておけば(ただし、生命にかかわらず、道徳に反さず、不健康でもない場合に限る)、ティーンエイジャーになってから深刻な反抗をするようにはまずならない、ということでした。
 自分自身の決断に対して、反抗するのはむずかしいからです。
息子のジョーが十一歳の時、まさにその言葉どおりのできごとがありました。ある日彼はわたしのところにやって来て、二本線だけ残して頭の片側を剃りたいんだ、と言ったのです。
 お母さんの趣味じゃないわ、と答えたものの、とにかく生命にはかかわらないし、道徳には反してもいないし、どのみちまた生えてくるのですから、結局はまかせました。(71頁)

 
 この決断の結果、彼女は身内の集まりなどで、息子があんな髪型になったのは彼女が出張しすぎたためだと言われたり、「十一歳でこんなまねをさせてるんじゃ、十六歳になったらどうなっちゃうのよ?」と言われたりすることになりますが、
息子さんのほうは、その年さらに風変わりな髪型を七つも八つも試みた後、中学一年になった頃には普通の髪型に戻っていったそうです。そして、彼女はこの項の最後を「―小さな問題で子どもに選択させ、そこで失敗を経験させておけば、後になって重大な失敗をすることはめったにないはずだとわたしは考えています。子どもはささいな失敗を糧にして学び、成長していくからです。」(72頁から73頁)という言葉で結んでいます。
 私たちは、このような状況に際して、彼女のように周囲の批判にも動ぜず、本人に選択させて、その結果を経験させるべく辛抱強く見守り続けるような態度を取れるでしょうか。”言うは易し行うは難し”で、なかなかの覚悟がいることだとは思いますが・・。
 
 ここまで、紹介して、中には単なる放任主義じゃないかと誤解される方もいるかと思いますので、もうひとつのアドバイスを紹介しておきます。 ”子どもが伸びるしつけの四ステップ"の項で、「罰には決してできないやり方で、子どもが学ぶのをはげます」しつけの四ステップとして、

 a まず、子どもがやってしまったことをはっきりさせる
 b 次に、子どもを問題の「当事者」にする
 c 子どもが自分で問題を解決するための選択肢を与えてやる
d 子どもの尊厳を傷つけない 



 を挙げて、息子のジョーが、博物館の校外見学に行ったときにビーバーの餌いれのビンを割ってしまったときのことを例に挙げています。
 このとき、先生は彼に、「ジョー、君は重大な問題を起こした、だが自分で解決できるはずだよ」とはげますように言い聞かせたのです。彼は博物館に手紙を書き、ビーバーの餌入れを弁償しました。
 そして、著者は「息子は罰せられず、しつけられたのです」とコメントしています。もちろん、子どもが体験する自然な結果が、「生命にかかわったり、道徳に反していたり、不健康なものであるなら、子どもを心配する賢明な親として、口を出さなければなりません。」と付け加えるのも忘れていません。
他にも、”44 子ども同士が殴りあいをしているときは”などの項もありますので、興味のある方は読んでみてください。

 
 次に,「男の子って、どうしてこうなの?」の方ですが、著者のビダルフさんは、この本の”はじめに”の項でこう言っています。

 少年たちがいまおかれている状況と、彼らが必要としているものについて書くにあたって、わたしは女性の地位を向上させるためにいたるところでなされている努力をないがしろするつもりはまったくない。しかし、新聞を広げてみれば、少年達もまた傷ついていることはだれの目にもあきらかである。今後、よりよい社会をつくっていくには、男性も女性もともにより健康で幸せになれるように努力していかなければならない。もし、世の中の男性にもっとよくなってほしいなら、男の子たちを責めるのではなく、もっと理解してやる必要があるだろう。 (同書3頁)


 著者がこの本の最初にでこう断らざるを得なかったのは、多くのフェミニストたちやフェミニズム運動が主張してきた、そして今でも主張している考え方と衝突する考え方―”男女間の性差は存在する”という考え方についての理解を求めるためである。(私もこの点については、旧来のフェミニストたちの「男女の間の性差はすべて後天的なものである」とする主張は硬直的すぎると思う)まず、小学校の高学年で最も顕著になる男の子と女の子の発達の速度の差からも明らかな、男女の脳の構造に見られる性差(男の子の右脳と左脳のつながりが少ない、右脳の連結が多い―このことによって、自分の感情を言語で表現するのを苦手としたり、数学が得意だったりという特徴が見られる。また、この時期に女の子と比べて劣等感を抱きやすいことなどにも注意を促している)

 ここまで、書いて思い出すのは、町田市で起きた少年による同級生の少女の殺人事件である。
 この事件は、これからの調べで事件を起こした少年の心理や精神状態などが明らかになっていくと思うが、私には、殺人という部分をのぞいてこの事件を見ると、少女の取った行動も、そして、少年がその言動によって傷ついたであろうことも理解できる。少女たちの「おたがいにささやきあい、少年たちをあざけっている」(171頁)態度に、少女たちの思う以上に少年たちが傷つき劣等感にさいなまれているということに対して、当の少女たちが少しでも気づいていたら、あのような事件は起こらなかったのではという気がするのだ。

 また、この本では、少年や少女たちにとっての。「役割モデル]の重要さを説いている。彼らや彼女たちの憧れの対象でもあり、さらに彼らに対して、肯定的な男性の(女性の)イメージを与えてくれる同性の年長者―「お手本になる男性(女性)」の必要性が説かれている。
 このことは、前回の投稿記事で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」の中でも述べられている。著者は「模範として目立つ大人はほとんどいない」と嘆きながら、こう言っている。それは、退行して子どものような「思春期気分のオトナ」ではない「本当の大人」「年長者による真の指導が若者にとって不可欠」であると

 私たちの周囲を見渡して、彼らにとってモデルとなるような真の大人が学校やスポーツクラブなどの指導者のなかに多く存在することを祈らずにいられないが、もし、彼らが、本も全く読まず、テレビしか見ないような環境にあるとすれば、彼らは、出来の悪い役割モデルしか見いだせないだろうことは確かである。テレビの中のそれらの出来の悪い役割モデルのご託宣を後生大事に聞くしかない状況は、とても貧しくばかばかしい状況であることに気付いてほしいと思う。細木数子、明石屋さんま・・出来の悪い役割モデルについてはもう少し書いてみたいところですが、今日はこの辺で。

クイズ番組に見る学力の低下あるいは教師の指導力の低下

2005-11-27 00:26:14 | 教育
 子どもたちがクイズ番組をよく見るので(ヘキサゴンあたりを)、一緒に見ているとすぐにあることに気付く。一般的に若いタレントほどものを知らないということに。どの辺りにボーダーラインがあるのかを調べたわけではないが、そういう番組で正答率一位とか二位とかになるのは、いつも一定の年配のメンバーである。先日見た番組では、あるアイドルグループのメンバーが7×8=45と答えて、皆を絶句させていた。私は、一生アイドルをやっていくわけにもいかないだろう彼女の行く末を案じてしまった。まあ、仕事が忙しくて学校に行く暇もなかったのかもしれないし、計算機があるから別にいいではないかと言われるかもしれないけど。(九九は小学二年生で習うんですけどね)皆さんはどう思われるでしょうか。
 芸能界でも生き残っていく人や俳優さんで成功する人にはそんなにおバカなひとはいない。俳優で成功するにしても、まず漢字が読めないとセリフを覚えられないし、役の設定を理解し、その感情を表現するのにはある程度の知性は絶対に必要だ。知性の欠けたうすっぺらい演技しかできない者はいつの間にか消えていく。主役を張っている俳優さんや女優さんたちの豊かな感情表現はある程度の常識や知性の裏づけがないと絶対に出てこないものだと思う。

 で、私が学力の低下の原因を考える時に、まず考えるのは、教師の指導力の低下ですが、わが子の担任の例をとってみると、ふたりとも担任が新採用の先生の時にクラスが荒れた、荒れている(新採用の先生が担任している下の子のクラスは今荒れています)ことなどを見ると教師の指導力も年年歳歳落ちてきているのではないかと危惧してしまう。
 中堅どころの今の兄のクラスの担任の先生は、授業もおもしろく且つわかりやすく、学級経営も見事で、生徒達にも大人気の親から見ても申し分のない先生なのですが、弟のクラスの先生は、授業もわかりにくく、宿題を出すのにも四苦八苦して、学級通信も形式的なものがたまに出るだけで、授業中騒ぐ生徒達にひとりではなすすべもないという、親から見ても「はあ~・・・」という先生で、兄のクラスの先生とは天と地ほども差がある。そういう状況を見るに付け、これは単に個人の能力の問題だろうか、それとも世代的な社会構造的な問題なのだろうかと考え込んでしまう。兄のクラスが一昨年学級崩壊と呼ばれる状況になった時の担任の先生も(この件についてはdaruさんのブログのコメント欄での長いコメントのやりとりをしました)魅力ある授業や子どもたちにとって魅力ある人間性を持っていたかというとそのどちらにも欠けていたように思う。
 親としては、新任の先生が経験不足なのは仕方ないとしても、やはり担任を持つからには、ある一定のレベルには達していてほしいし、せめて、授業をしっかりとできる、あるいは、人間的に魅力があるかのどちらかでも備えていてくれと思う。(現在の弟の担任は残念ながらどちらも×です。)私たちは、子どもたちの将来を考えると、このめぐりあわせを単に運が悪かったですますことはできない。本当に山あり谷ありで、よい先生とそうでない先生との差がありすぎる。そして、前にも書いたように、子どもたちが出会った”そうでもない先生たち”の特徴が世代的なものでないかということを危惧してしまうのです。

 学校の先生というのは聖職であると言われてきたわけですが、人間の一生に影響を与える仕事であることを考えると、やはり、”聖職”と言われるような覚悟を持って就く仕事には変わりないと思う。
 現在の、弟のクラスの問題で開かれた会で、ある保護者が担任に向かって「先生はどうして教師になったのですか?」という質問をした。答えは「尊敬する先生がいて、その先生のような教師になりたくて・・・」というようなよくある答えでしたが、これから教師を目指すひとには、自分は教師としての適性が本当にあるのかということをもっと真剣に見極めてから教師を目指してほしいと思う。単に安定しているからとか、他の就職と同じ次元で安易に目指してほしくない。経験で補えない適性というのはやっぱりある。そしてそういうことを子どもたちは敏感に察知するのである。給料のためだけの教師になってほしくない。
 
 公立校の先生には、多様な学力や家庭環境の生徒たちに対応できる柔軟性が必要だと思う。そして、その能力は、もし彼らが小学校高学年から塾通いをして、エリートや裕福な家庭の子どもたちばかりを集めた有名私立校を卒業して教師になったのであれば、彼等に公立校の学級を経営していくための経験値は絶対的に不足しているのも無理はないし、自らの多くの落ちこぼしを産む授業を改善しようとせず、「授業がわからなければ塾に行けばよいではないか」と自らの責任に目をつぶるしかない「給料のためだけに働いている」と言われてもしょうがないような教師なってしまうのではないだろうかという気がする。


 自分の子どもの頃のことを考えると、そんなにすばらしい先生(兄の先生のような民主的で生徒に人気のある先生)にはめぐりあわなかったが、教えるということについては、(特に小学校では)皆一定のレベルを保っていたし、ひとつのことを教えるのにも、それに付帯した知識やことわざなども折に触れて教えてくれていて、そういった教えなどが今でも心に残っていたりする。今の先生には、一部の先生をのぞくと、そういう先生がいなくなってしまった感じをうける。どこかに知の断絶があって、代々受け継がれるべき知識や価値観が途切れてしまった感じ。

 そういう現代の状況を考えるのに示唆的な本をひとつ挙げておきます。「未熟なオトナと不遜なコドモ」「きょうだい主義社会」への処方箋(という副題が付いています。)(ロバート・ブライ著)(図書館で借りた本なので、手元にないため出版社はわかりません。)

 ここで、ちょっとその一節を紹介してみます。

 われわれの社会の三分の一は、こうした新しい”きょうだい主義者”の性質を身につけているだろう。残りもその方向へと向かっている。われわれ全員がそこにたどり着く時には、耳を貸す価値があるのは同年代の人間だけになっているので、公立学校はまったく姿を消し、過去の対象把握方法もなくなっているかもしれない。
 未開状態への、そしてファシズムが好む退行状態への堕落を食い止めるものは、きょうだい主義社会にはほとんどない。
   (同書6頁~7頁)


 そして、現代を「思春期の孤児の社会」であると、そして、「思春期気分の大人によって営まれる文化」は「子どもたちにひどい仕打ちをする」と。この状況はまさに現代の私たちの状況の説明ではないですか?
 


NHKスペシャル「高倉健が出会った中国」を見て(驕る必要もないし、卑屈になる必要もない)

2005-11-21 10:46:20 | 映画・ドラマ
 前の記事のブログのコメント欄で、daruさんが紹介してくれた健さん出演のNHKスペシャル「高倉健が出会った中国」(11月19日 PM9:00)を見た。
 
 番組の冒頭で、健さんの「・・・毎日の撮影の生活の中で、あまりにも感動が多いので時々バランスが取れなくなる」とのコメントが紹介されているように、チャン・イーモウ監督が切望して実現した映画「単騎、千里を走る。」の撮影の様子や映画のストーリーの紹介をしながら、健さんと映画に出演した中国の人々との撮影を通しての心のふれあいが紹介されていました。(プロの役者は健さんのみで、中国人の出演者はすべて現地の普通の人々です。)番組では主に、健さんのガイド役の(実生活でも現地で観光ガイドをしている)中国人青年チュウ・リン(役名も同じ)との交流や、仮面劇の役者役のリ・カミン(役名も同じ)の息子を思って泣く演技に心を打たれる健さんの様子などが、彼(リ・カミン)が実生活で抱えている問題などを交えながら紹介されていました。
 チャン・イーモウ監督は、三国志の逸話をベースにしたというこの映画で、「まごころ、思いやり、絆の大切さを訴えたい」と説明していました。中国経済の急速な発展によって失われていく、まごころや思いやりの大切さを映画を見た人々の心の中に永遠に残したいと。

 この、番組を見て改めて感じたのは、中国での健さんの人気と知名度の高さです。健さんのことを「私のアイドル」というイーモウ監督ばかりでなく、撮影に使われた山岳地帯の石鼓村という村のみやげもの屋の女性が、健さんの顔を見て、「あれっ どこかでお会いしたような・・」と言って健さんの映画を子どもの時に見たと言って喜んだり、ダムの底に沈んでしまうというその村の村長が「この村がダムに沈んでも、数百年後にこの映画を見たひとはきっと気づいてくれるはずです。石鼓村はそこにたしかにあったのだ。そして、あの高倉健さんも石鼓村に来たのだと思い出してほしいのです」と彼の名前を挙げて自分達の村のことを讃えたのです。最初の方に出てくる雲南省の古都麗江の中年の夫婦が、健さんのことを「私たちの世代のアイドル」と言って、健さんの映画が「当時の中国人に強烈な印象を与えた」と語っていたことや、イーモウ監督が「高倉健は、かっこいいという言葉の代名詞だった」とも語っているのを見ると、健さん演じる主人公の何がそれほどまでに中国のひとびとの心を揺さぶったのかに興味を覚えます。それは、高倉健さん演じる主人公によって体現されている日本的な感性の何かに彼らが共鳴して感動を覚えているからこその反応だと思います。
 番組中で私が印象的だった映画撮影中のひとつのエピソードに、イーモウ監督や映画のスタッフたちが、「(中国人ではない)健さん演じる日本人の主人公ならどういった行動を取るか」ということについて熱心にミーティングをしている場面があります。最終的に日本人らしい行動や考え方を現すのに最もいいだろうという意見が採用されて、その場面が新しく撮影されることになりました。

 そして番組の最後では、ガイド役の青年の「今後大切なのは、お互いの長所を認め合う事です。自分達の短所を反省することも必要だと思う。そうすれば、中国と日本はもっと近づけるのではないかと信じている」という言葉が紹介されています。

 イーモウ監督は前作「ラヴァーズ」では金城武を起用しています。この映画が成功しているかどうかは別にして、私がこの映画で感じたのは、彼は金城武が体現している純粋に中国的でも台湾的でも日本的でもない不思議な魅力を使って映画を取りたかったという感じを受けました。そして監督の日本的なものへの関心を感じていました。

 そして、先に紹介したチュウ・リンの冷静で落ち着いたコメントは、人間と人間の生のふれあいの中から生まれた誠実で知的なコメントだと思いました。そして、それを引き出したのは、健さんの優しさと誠実さにあふれた慎み深い人間性、現代の私たちからは失われつつある日本人のよさだと思います。中国での健さんの愛され方を見ていると、彼らは健さん演じる主人公に、人間の理想像のひとつの型を見ているのではないかとさえ思われます。

 
 ところで、この映画の撮影が行われた、雲南省の古都麗江の瓦屋根の連なる美しい町並みや、石鼓村の古い町並みの風情のある趣などを映した映像はとても美しく、その点でも映画への興味をそそられました。ずっと以前に見た中国映画「芙蓉鎮」(文革に翻弄される女主人公を描いた傑作)の中で、主人公と反革命分子のレッテルを貼られた秦という男が、罰として課せられている早朝の町の清掃をしている場面の、朝靄に煙る町の石畳の坂道の映像がとても美しかったのを思い出しました。(映画を見たことのない方のために少しだけ付け加えると、この映画を紹介するのに一番有名なセリフは、秦が主人公に言う「生きぬけ。ブタになっても生きぬけ。生きぬけ。牛馬になっても生きぬけ」です。文革の熾烈さを感じさせる言葉でしたし、文革の現実を知るには恰好の教材となるかもしれないような映画だと思います。)
 
 
 話を元に戻しますが、この番組で紹介された中国のひとびとと健さんの交流を見ていると、「驕る必要もないし、卑屈になる必要もない」という感想が浮かびました。



ガーデニング&アンゴラ戦

2005-11-16 13:27:48 | 教育
 家の前の猫の額ほどの庭で、自己流ガーデニングのようなことをしている。ガーデニングと言うのもおこがましいほどのものなのだが、今は秋に植えたムスカリやフリージア、チューリップの球根の成長を楽しみにしている。チューリップの球根は買ったものだが、フリージアやムスカリは手間いらずで増えてくれるので、掘り上げた球根をご近所に分けたり友人に分けたりしている。チューリップは少し気難しいので少し気を遣う。植え替えたガーデンシクラメンがちゃんと根付いてくれるかも心配しているし、挿し木したアジサイもやっと根付きそうである。植物の栽培をしている人なら皆さんご存知だと思うが、植物は、手をかけすぎず、手を抜きすぎずというのがコツというほどのこともない栽培のコツだと思う。水をやりすぎると根腐れして枯れるし、やらなさすぎても枯れてしまう。そして、このことは人間の子どもにも当てはまる。手をかけすぎず、抜きすぎず。単純なことのようで、当節これがなかなか難かしかったりする。手をかけすぎるのも、手を抜きすぎるのも、どちらの場合も子どもにとってはよくない。そういうシンプルな真実を実行することが難しい。かく言う私も、偉そうな事は言えない。片目をつぶって見逃せばいいことをがみがみ言いすぎたり、手を出しすぎたり、あるいは、こちらが自分の事にかまけているうちに何かやらかしてしまっていることもある。今の世の中を思うと、「親が無くとも子は育つ」というほどのどかな時代では無くなっていると思うし、植物に相対している時間は、子育てにおいて心に留めておかなければいけないことを思い出させてくれる。

 代表のアンゴラ戦、何か、コンフェデのかぼちゃの馬車がかぼちゃにもどってしまったような感じです。松井を誉めるしかないだろうなという試合。この試合のスタメンがジーコのベストメンバーでないことを祈るのみ。以上終わり。

ダイソー&ユニクロ

2005-11-12 17:27:11 | 日記
 先日、次男に誘われて近くのダイソーに初めて行ってみた。(自転車で動き回っている彼は、いつも限られたパターン内を反復往復しているような私と違って、今住んでいる近辺の地理には私よりはよほど詳しい。)その彼が何でもカードケースをダイソーに買いに行きたいと平日の夕方暗くなってから言い出したので、しぶしぶ送って行くことにした。(私は、スーパーの店頭などの百円ショップなどもなるべく近寄らないことにしている。見てしまうと、きっとあれもこれもと結局いらないものまで買ってしまいそうな自分の性質がわかっているので)というわけで初めてのダイソーだったわけだが(以前から、彼に「食器とかもいっぱいあるからお母さんも来れば」と誘われていたのだが、面倒臭いのと無駄遣いしたくないので何とかかんとか理由を付けて断っていた)平日だというのに駐車場は満杯で、ひっきりなしに新しい客が来ていた。店内のほうはというと、(買いすぎるのが怖くてあまり商品を見ないようにしていたが)品揃えはかなり豊富だ。で、子どもがカードケースを105円でゲットした後、ふとレジ横を眺めると、もうクリスマスグッズが山のようにディスプレイされているではないか。気が付いたら以前から欲しかったスノーボール(少ししょぼかったが)と、木製のスノーマンの置物のふたつを手に取ってレジに並んでいた。計210円也で、まあまあの満足感を覚えて帰宅した。(他のコーナーを見てたら余計なグッズを更に買い込んでいただろう)

 (何かしょぼい記事ですが、もうひとつ買い物ネタを。)
 
 先日新しいGパンを買うつもりで出かけて、ジーンズのメーカーのものを散々試着したのだが、どうもどれもいまひとつフィットしない。で最後にユニクロに行って試着したら、これがわりにぴたっとフィットしたので購入。サイズはちょっと言えないけれど、深めのブーツカットで裾上げもしてもらって1990円也。最初からここに来れば余計な時間を使うこともなかったのにと思ってしまった。我が家の子ども服はユニクロが多い。Gパン、Tシャツ、シャツなどは全部ユニクロで揃えたとしてもまあまあそれなりのスタイルが出来上がる。元々デザインされすぎた服があまり好きでないし、男の子がこじゃれるのも好みでないのでということもあるが。自分の服は全部ユニクロにすると、さすがに年齢的に少し淋しくなるので、主にTシャツ類を買うことが多いし、フリース類は主に部屋着であまり外には着ていかない。どれも値段を考えると品質には充分満足している。私はユニクロでカシミヤは買わないだろうと思うけれど。
 
 今思うとこれまで服にお金を使いすぎてきたなあと思う。いいもののよさを認めるのにやぶさかではないが、服なんて見栄をはらずにそこそこでいいではないかと思う。(これから彼氏をゲットしたい人はそういうわけにはいかないと思うが)そもそもブランド物とは毎シーズン流行の服やバッグを買ってシーズンが終わったらもうその服やバッグは惜しげもなく処分するような人たちのものだと思う。いくらお高かったブランド服でも流行後れは着れない。定番商品をずっと着続けようというような私のような者には向かない。そして子ども服も一年から一年半くらいで着れなくなるので高いものを買う必要は全くない。それで余ったお金を有効に使えばいいと思う。

追記:今日は小学校の音楽会だった。参考までに(何の?)曲を紹介しておこうと思う。「アイーダ」大行進曲 「世界の約束~人生のメリーゴーランド~」(ハウルの主題曲) 「ジュピター」(平原綾香) 「自由」(女子十二楽坊)などが今風の選曲といったところ。「にんげんっていいな」や「イエローサブマリン」「チム・チム・チェリー」や歌劇「魔笛」よりパパゲーノの歌・・なんてのもあった。昔と違って今の音楽会はパーカッションといってもドラム伴奏だったりして本当に感心する。

公選法違反の適用は恣意的ではないのか&最近のニュースで感じたこと

2005-11-08 13:46:46 | 政治・経済
 この間の選挙後の、民主党の五島正規衆院議員(比例代表四国ブロック)の政策秘書が公選法違反で逮捕されたというニュースを覚えている方はいるでしょうか。
買収容疑ということなんですが、そのニュースを読んだり聞いたりした限りでは、私にはその秘書の行為のどのあたりが違法なのか殆どわからなかったし、逮捕されるほどの悪質な活動という感じも受けなかった。何となく嫌がらせに近い印象を受ける。
 このニュースについては、マスコミ的には一件落着したと見られているのか全国のニュースではあまり取りあげられなくなったようですが、秘書の起訴を受けて、五島議員は裁判で争う姿勢を見せている模様なので今後を見守りたいと思います。

 最近起きた憂鬱なニュース(静岡の少女の事件とNHK職員の放火)についてちょっとだけ。
 どちらも、とりかえしがつかなくなる前の前兆があったはずで、それに気づいていた人の誰かが、彼らが保護されるべき状態であると判断して、何らかのアプローチをしていれば、こんな決定的な事件は起こらなかったと思う。特に、十代の少女の場合は、ちょっとしたこと、周囲の大人の優しい声がけなどで改善することもあっただろうにと思う。彼女から感じるのは、誰にも顧みられない孤独感。そして間違った情報の取り込みによって、犯罪によって自己表現をしてしまった。「(そんなことをしなくても)私はあなたのことを見ているよ」と誰かが言ってくれてたらと思う。

追記:彼女に影響を与えたイギリスの毒殺犯「グレアム・ヤング」についての著作の作者が、この事件についてのインタビューで、「私の書いた本で、もし彼女の母親が命を落とすことになったらとても申し訳ないと思う」と答えていましたが、正常な感覚だと思いました。

ニュース23のタケシ発言など

2005-11-05 14:34:24 | ニュース
 映画や本などの柔らかいテーマで書いている間に、溜まっていた書きたいことをちょこちょこと書いてみたいと思う。
(ココログに映画「ハウルの動く城」の原作「魔法使いハウルと火の悪魔」の感想を書きましたのでよかったら見てください。 )

 先日(11/3)のニュース23で、”筑紫対論「北野武」どう生きるか”と題された色々なテーマについてのたけしの発言が、番組中かなりの時間を割いて紹介されていたので、少し紹介してみたいと思う。
 
 まず、北朝鮮への食料支援について聞かれて、「食料支援は続けるべき」だと、止めてしまうと「一番弱いところにしわ寄せがいくようなことはするべきではない」と断言していました。

 小泉首相のサプライズについて、「コイズミさんの”芸”は”テキヤ芸”」だと。

 「携帯やiPodは世界中の人たちをドレイ化している」

 今の日本は、たけしがデヴューした時の、「赤信号皆で渡れば怖くない」という状況そのもので、「バブルを経験している筈なのに、皆が大きな波に乗り遅れることをとても恐れている」

 今の時代、「お金」や、「生活の環境の良さ」ばかりに皆の目が向いているが、大事な事は、「品よく生きること」ではないのかと、最終的には「最低限の”品”以外のことで判断するべきではない」と、品のない世の中に向けてか、「品」という言葉を多用していました。

 番組ではたけしさんの新作映画の紹介もあったのですが、(映画監督としてのたけしについてはいろいろ言いたいこともあるのですが―彼の女性の描き方などへの不満など―ここでは止めておきます)真面目な批評家としてのたけしの発言を紹介しました。

 ところで、これはもう書くのを止めようかと思っていたのですが、また「朝ズバッ!」でのみのもんた発言に対して少しだけ。
 例の国連での日朝の拉致問題に関する応酬に関連しての氏の「あの戦争はもう十字軍などと同じように歴史となっている。それをいつまでも持ち出して批判するのはまちがっている。」と、何度も声高に発言していましたが、私はそれは違うと思います。あの戦争が終わってまだ60年しかたってないのです。世界中にまだあの戦争で被害を受けた人や傷ついた人々が生きています。だからあの戦争はまだ決して歴史上の出来事にはなってないのです。そういう自覚に基づいた深い配慮ある発言がキャスターには必要だと思います。それは、拉致問題に関して決然と主張することとはまた別のことだと思いますし、戦略的に見ても、そういう不用意な発言や首相の靖国参拝が相手に言い訳の言辞を与えていることは明らかです。

 最後に、上述のニュース23番組中で、故三島由紀夫の「三島憲法草案」なるものが楯の会元幹部によって紹介されていましたが、9条削除などのかなり復古的な内容で、三島研究家の佐久協氏によって「自分の思想を憲法として作品化した」「文学」と評されていたように、リアリズムの欠如と観念性の突出した「作品」という感じでした。


追記:宮沢賢治の言葉
  「世界が全体(に)幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」    
  (小学6年生の国語の教科書より)

ヨン様、韓流ドラマ考(ココログアップのお知らせ)

2005-11-03 15:27:49 | 映画・ドラマ
 本当に遅まきながら、ずっと書きたいと思っていたテーマだったので書いてみたいと思う。私はヨン様ファンでも韓流ドラマファンでもないことは最初にお断りしておきますが。
 
 さて、そろそろ来年のカレンダーが売り出され始める季節になりましたけれど、ワイドショーなどで、”イチオシ商品”として、ヨン様が美しい景色をバックに微笑する五千部限定だかの(ファンならば垂涎の)カレンダーが紹介されていました。そのカレンダーは特に彼のファンでもない私が見ても、「うーん、なかなか」とうなりたくなるような出来栄えで、スタジオの女性ゲストも思わず目を少女マンガのようにキラキラさせて、うっとりした表情を見せていました。(そんな年輩の女性ではなかったですが、)日韓両国のギクシャクした関係にも係わらずの相変わらずの根強いヨン様人気を実感して、あの微笑に癒されたいと思う女性の気持ちというのはわからんでもないなと深く納得してしまいました。

 さて、そんな女性達の韓流スター達への熱い視線に反して、一方ではそんな彼女達を冷ややかに眺めたり、大いに反感を感じたりしている(主に男性の)方々もいらっしゃるようで、そんな中で目に付いたのが、あのヒットした昼帯ドラマ「牡丹と薔薇」や「真珠婦人」の脚本家、中島丈博氏の韓流ドラマについてのコメントです。これらの作品と韓流ドラマの類似を指摘されて、中島氏は似ているなんてとんでもないと言うように、韓国のドラマをとても見下した視点から批判していて、ヨン様のスマイルを「 あの偽善的な微笑みに騙されるな 」などとまで言って批判していたのですが、私は、彼のその自信に対して大いに「 ? 」と思わずにはいられなかった。少なくとも上記二作品については、そのストーリーの通俗性、演出のあざとさ、出演者の品などどれを取っても、彼のように韓国のドラマをを見下すほどのクオリティがあるとは私には到底思えなかったからである。私には失礼ながら彼の自作品に対する自信の根拠が全くわからなかった。

 私は、どうも”ベタ”(ご免なさい)な純愛物が苦手で、大ヒットした「タイタニック」も「冬のソナタ」も見れてないのですが、「真珠婦人」か「冬のソナタ」かどっちかと言われれば「冬のソナタ」を取ります。それは主演のふたりに品とインテリジェンスを感じるから。それに対して日本の昼帯ドラマの俳優さんには残念ながらどちらも感じられない。

 ここまで読んできて、韓国のドラマを見たことが無く書いているので説得力がどうも無いと思われますが、私はどっちかと言うと中国や香港の映画が好きなのです。(カンフーアクションやコメディではありません、念のため )ラブストーリーでは、ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」。主演のふたり、トニー・レオンとぴったりしたチャイナドレスがセクシーなマギー・チャンの大人っぽさがとてもいいです。この役でカンヌの主演男優賞を取ったトニー・レオンのシャイで寡黙な人柄が感じられる演技もとてもセクシーでした。

 で、話が少しそれてしまったのですが、ヨン様も「タイタニック」後のディカプリオのように「冬のソナタ」のイメージから脱却したくて思考錯誤している感じが出演作品を見ていると感じられるのですが、端から見ていて、作品の質とファンの人気は一致していない気はしています。ファンにとったら何でもいいのでしょうが、本人的には冒険的なチャレンジもきちんと評価してほしいのだろうなと思います。

 で、この文章をどう終わろうか考えているのですが、「日本の女性はどうして外国の男性が好きなのか?」というテーマだとも言えると思うのですが、(これはワールドカップの「ベッカム様フィーバー」のころにも言われていたことですが)、話を韓国や中国の男優さんと日本の男優さんとの比較に絞ってみると、その差というのは「父性を感じるかどうか」だと思うんです。韓国や中国の男優さんから感じる父性を日本の男優さんからは感じられないということだと思うんです。この辺りの事は、文化庁長官、河合隼雄氏の「母性社会日本の病理」(講談社α文庫)などを参考にしてもらえばと思いますが、日本女性は彼らから感じる父性の匂いにくらっとしているのではないかと強引に結論づけてこの文章を終わりたいと思います。

※先日、一話だけ最初から終わりまで見た韓国のドラマがあります。「宮廷女官 チャングムの誓い」という朝鮮王朝を舞台にした歴史物のドラマは割りと面白かったです。日本の連続ドラマもあまり見ていないので、続けて見るかどうかはわかりませんが。韓流嫌いのひとには、この辺りだと入り込みやすいのではないかと思いました。
 
※しばらく更新してなかったココログのほうに、映画「ハウルの動く城」の原作「魔法使いハウルと火の悪魔」の感想を書きましたのでよかったら見てください。