あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

教育とかしつけとかいう言い訳、の空しさ

2008-02-08 01:58:20 | 教育
 相撲部屋での集団リンチのような稽古による暴行死、後を絶たない幼児、児童虐待による殺人事件の加害者の、「教育、しつけだった」という言い訳は、ひとの命が暴力によって失われた事実の前に、何と空しく響くことか。それでも、彼らは判でついたように同じ言い訳をする。虐待の世代間連鎖を絶って、救える命を救わなければならない。そのためには、「それは教育やしつけではなく、暴力であり、犯罪なのだ」という世論の一般化とともに、子ども達のサインに気付いた者、(親、近隣、教師、学校、児童相談所、そして人命の危険が決定的な時は、警察)の介入によるす速い対応で、まず子どもを保護し、守れる命を救わなければならないと思う。最近の事例を見ていると、甘い見通し、あるいは見てみぬ振りとも取れるような対応の遅れによって、救えた命が失われている場合が多すぎるのだ。事件が起きてしまったあとの関係者達の後悔がこれ以上繰り返されないよう、救える命を救わなければならないと思う。身の回りで、このような事件が起きてしまったら、事件の当事者だけでなく、その周囲の(自分の)子どもや親の心、そして社会全体が確実に傷付くのだという自覚のもとに。

音楽会

2007-11-10 22:26:13 | 教育
 今日は、小5の次男の音楽会でした。(うーん、一年が経つのが速い!)

 で、また印象に残った曲を紹介しておきます。

 5年生の合奏曲は、「ハリー・ポッター」ハイライト(プロローグ、ヘドウィグのテーマ、クィディッチマーチ、ハリーの不思議な世界、ホグワーツを離れる)でした。頑張りました。

 3年生の合奏曲は「ペコリ・ナイト=サタデー・ナイト」(by ベイ・シティ・ローラーズ)

 そして、6年生の合奏曲は「チャイコフスキーの贈り物」と題された、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲」より「第1番」から第1楽章と第3楽章のテーマ。そしてアンコールは5年生の時に演奏した「オペラ座の怪人」。

 合奏部は「パイレーツ・オブ・カリビアン呪われた海賊たち」メドレーを合奏しました。

 合唱は、やはり上級生(5・6年生)になるほど良かったです。

 これらのかなり難しい曲をリコーダーやメロディオン、アコーディオン、オルガン、マリンバ、打楽器などのパートに分けて、それなりに仕上げて聞かせてくれる音楽の先生の指導には、毎年感心します。

 

教育基本法の改正は悩んでいる子どもの救済や学力とは何の関係もない:追記あり

2006-11-17 17:15:24 | 教育
 今回の与党の暴挙についての、立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」の記事、第90回 踏みにじられた教育基本法審議 安倍アナクロ強権政治の誕生です。
 
 去年の郵政選挙の(意味する)結果がいよいよ姿をあらわしてきました。郵政民営化に反対か賛成かの投票しただけで、憲法を変えてくれとは言ってないと言ってももう・・・・。「あの時がターニングポイントだったなあ」と後悔してももう・・・。そんな私たちだから、だから、しばりが必要なんだと私は思うけれど!!それに、現在の与党の、あるいはタイゾーをはじめとする小泉チルドレンでもいいけれど、誰かに、その言葉に、行動に、あるいは表情だけにでも感情移入できる人がだれかいますか?
 私には、今回安倍政権がやろうとしていることは、小渕総理の二千円札発行と同じくらい意味がないことだと思う。(悪影響という点では比較にならないけれど。)「法律に愛国心を明記すれば問題解決!」なわけがないじゃない。愛国心(この表現はなんかいやだけれど)は国に強制されるものじゃない。法律にそれを書くことは、憲法の「思想・良心の自由」にも反する。


追記:きのうの「太田総理」より

太田:安倍総理の言う”美しい国”というのは”架空の国”だ。日本を、そのまま愛せなかったら、自分の国がみにくいことを認めなきゃ、絶対に国に対する愛情なんて生まれない。

こちらの言葉のほうが、”美しい国”という言葉に陶酔しているひとよりずっと深いと思いませんか?
 アメリカのイラク攻撃への批判が世界中で、アメリカ国内でさえも高まるなか、日本では、マスコミからも世論からもまったくあの戦争を批判する声が聞こえてこない。どうしてだろう。こういうのを、規則への無条件の服従というのだろうか。決まったことだから仕方がない。とか、安倍総理は人気者だから間違いないとかいって、いろいろなペテンが行われているのを無視し続けるのだろうか。
 太田光をひとりにしてはいけない、と思う。

歴史に汚名を残すのか

2006-11-09 01:53:28 | 教育
 憲法改正への布石として、教育基本法の改悪が強行されようとしている。こういうのを蛮勇というのか、暴勇というのか、いずれにしても、もし、これらが強行採決されれば、間違いなく歴史に汚名を刻むことになるでしょう。
 
 腹立たしいです。安倍内閣は現在起こっている教育の問題を政治に最大限に利用しようとしている。
 今、起こっている問題は、社会のひずみ、ゆがみが最も弱いところに吹き出しているためで、学校だけが悪いわけではないし、法律に愛国心を明記したところで解決するものではない。学校の問題点は改善されるべきだし、苦しんでいる子どもたちは救済されるべきであるが、だからといって、教育基本法改正(悪)には、誰の脳内でもつながらない。問題を解決するための議論ではなくて、政治的に利用しようとしているだけの政治家たちの姿勢には、怒りがわいてくる。何の考えも無く付和雷同するであろうタイゾーをはじめとする小泉チルドレンたち、怒、怒、怒・・・。
 
 多くの教育者や日弁連が反対している声を無視して、強行採決することは、東大教授(教育学・教育方法学)佐藤学氏が言う「一種のクーデターである」だと思う。
 
 そして、マスコミは、改正が既定路線のように報道しているが、前に外国のジャーナリストが日本のメディアを評して、「日本のメディアは右翼団体の圧力を言い訳にして、ほとんど政府を批判しない」と言っていましたが、まったく見るべき、聞くべき意見が報道されない。このマスコミの堕落も「ゆとり教育の成果」だろうか。「世界史履修しましたか?」と聞いてみたい。

男の子、女の子

2006-04-24 14:40:17 | 教育
 本題に入る前に、現代人の(特に女性の)外見についての完璧主義について少し書いておこうと思う。これは、私が以前にこのブログで紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著)「女性の身体はスリムで若くなければならないという強迫観念」と表現されていますが、私たちは、そして殆どの少女たちが、この強迫観念にしばられて、膨大なエネルギーを外見に、そして、痩せることに集中しているのです。そのバカバカしさ・・・。以前に紹介した箇所と重複するかもしれませんが、同書からもう少し引用してみます。「教養を身につける苦労を怠る者、代わりにナルシシズムに浸り」「女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。」「イニシエーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」

 さらに、”美意識”についての清水真砂子氏の意見も引用しておきたいと思う。
 
 ”美意識”とは私たちにあいまいさを許し、しばしば人を傲慢にさせる。
 
 美意識とは「自分が美だと考えるものが、人間の本性の底にある真実や善と結びつくはずだという観念」といってよい。


 そして、「強い」もの、「りりしい」もの、「美しい」ものに惹かれる人間の性に留意して、たえず相対化し、惹かれそうになる自分に待ったをかけると。
 そして、権力機構の中枢は、意外に、美意識をくすぐる、いき、スマートな性質を持っていたりするとも。
      (「子どもの本の現在」現在を見すえて―上野瞭論より 清水真砂子著)

 私も、美意識にしばられ過ぎている女性達の例にもれず、美形を観賞することにはやぶさかでないのだが、「美しいものが善や真実と結びつく」という思い込みからは自由でいたいと思う。もちろん、「みにくいものが善である」という思い込みもまた真実ではないのだが。

 さて、本題に入りたいと思いますが、最近また、思春期の男女間の痛ましい事件のニュースが報道されましたが、こういう事件が報道されると、現在男の子を育てている親としては、男の子がまっとうに育つことの困難さや、男の子に対する否定的な見方や彼らの置かれている状況の難しさを思ったりするのですが、ここでは、少し話しを異性間のトラブルにしぼって話してみたいと思う。ここでも、(これもまた以前にこのブログで紹介しましたが)少年の特徴をわかりやすく解説してくれる著書「男の子って、どうしてこうなの?」(スティーヴ・ビダルフ著)から引用したいと思う。
 ところで、現在参観日とかで学校へ行って気付くことは、(特に小学校高学年で顕著なのですが)一般的にやる気があって成績がよく元気なのは女の子で、男の子は―積極的な子は粗野で攻撃的な方法の自己表現に走るのでアナーキズム化し、消極的な子は自分をうまく表現できないために、とても自信がなくやる気もなさそうで逃避的な様子で精細がない―といった二極化の様相を示しており、どちらにしても、この時期の男の子は女の子に比べてやっかいもの的で否定的なイメージで捉えられているのではないだろうか。そしてそういうイメージに拍車をかけているのが最近の少年事件で、それらによってまた少年に対する否定的なイメージが社会的に形成されている。どちらのタイプにしても、この時期の少年達は劣等感を抱きやすい条件が揃っている。そして、そのことに対する充分な周囲の理解と援助が無い場合、その劣等感は、容易に周囲(女の子)に対する攻撃的言動となって現われる。多くの少年事件は、少年たちのこの心理で説明できるものだと思う。そしてそれに拍車をかけているのが、少女達の未熟な皮肉っぽさで、必要以上に辛らつで残酷な彼女達の言動によって、少年たちは更に傷つき怒りをため込むようになる。

 実際には、少年たちの知らない少女たちもまた、しばしば自信のなさや居心地の悪さを感じている。彼女たちも少年たちと話し、愛情を分かちあいたいと思っているのだ。もし少年たちがもう少し社交術に長けているか、大胆であれば、男の子と女の子のあいだに、もっと肯定的な関係が生まれるだろう。ところが、少女たちはおたがいにささやきあい、少年たちをあざけっている。少年たちは少女たちを困らせ、おとなしい子たちは少し離れたところに立ったまま、くよくよ考えてばかりいる。
 「陰湿な」心の性質(「もし少女と対等につきあえないのなら、彼女たちを操るしかない」という心持)がしばしば芽生えるのはこの段階においてである。ヌード雑誌やソフト・ポルノのようなミュージック・ビデオによっては救われない。「見て、でもさわっちゃだめ」というメッセージは規模の大きないじめにすぎない。それは強い性的な充電をひきおこし、発散されないままに心のなかで怒りに変わっていく。現実の少女と話すチャンスがあまり持てないと、少年たちは女性を操作したり支配したりすることを夢想しやすくなる。彼らの女性にたいする態度や、人間としての女性とつきあう能力は劣化するいっぽうだ。
                  (「男の子って、どうしてこうなの?」170頁~171頁より)


 わが子の経験で言えば、それは、下の子がまだ小学校の低学年の頃のことなのですが、ある女の子に「おはよう」とあいさつしたら、その女の子は、いっしょにいた女の子とひそひそとささやき合っただけで(何と言ったかは知りませんがたぶん息子の事を半分ばかにしたような言動だったと思います)あいさつはなかったようです。それを聞いて、私は「(彼女の)その態度はおかしいね」と彼に言いましたが、彼にとっては、「自分は女の子には相手にされないのだ」というトラウマのような経験だったかもしれないと思います。こういう経験が積もり積もっていくと、傷つきやすい子のなかには、女の子に対する憎しみの感情をため込んで、ニュースで報道されるような残酷な行動に走ってしまうという不幸な事件が起こってしまうのではないでしょうか。
 そういう痛ましい事件を起こさないためにも、社会や女の子の男の子に対する理解や助言が求められているのではないでしょうか。そしてそれは、今の多くのTVメディアなどには見いだされないものだと思います。
 どうか、少年たちに理解とよりよい助言を。

 最悪なのは思春期の子どもたちを放っておくことである。(同書より)

ナルニア国ものがたり」(全7巻)についての感想をココログにアップしましたので、よかったら見てください。

 
 

卒業式

2006-03-28 01:54:54 | 教育
 23日に小学校で兄の学年の卒業式があった。
 
 最近の卒業式というのは初めてなので、自分達の頃とは大分違うなと、最近の小学生は大変だなと(卒業証書をもらう前に、ひとりひとりがひと言ずつ―宣誓と言うのだろうか―言ってからやっと証書をもらえるという、私だったら、どえらく緊張してしまうだろう七面倒くさい手順があるのだ)思いました。そんな親の心配をよそに、皆しっかりと卒業証書をもらっていったのですが、兄のクラスの生徒たちの多くが、自分にとってクラスの友だちがいかに大切だったか、支えだったかということを、心から発表していたのが、クラスのよい雰囲気を表していて、とても好ましかったです。そして代表による答辞とかも無くて、卒業生全員による”別れのことば”が、やはりひと言ずつ発表されました。それに対して、4,5年生が同じように送る言葉を発表して、そして卒業生、在校生一緒に唄を唄うんですが、子どもたちの歌声にはどうにも弱くって、思わず泣きそうになりました。その時は何とかこらえた涙も、クラスでのお別れの時の、担任の先生の涙には、生徒たちも保護者たちも皆、涙々でした。5年生、6年生と二年間子どもたちを見守り、教え育ててくれた先生には、その出会いが、息子達にとってどれだけ貴重で得難い素晴らしいものであったかと思うと、只々感謝の気持ちで一杯です。「 すきなひととわかれるのはつらいんや 」と言って、二年間ずっと発行し続けた学級通信(クラス全員ひとり残らずこの通信でとりあげられた―わが子に関して言えば、彼が落ち込んでいるであろう時に励ますように通信に載せてくれたことを思い出します)の名前「SABOTEN通信」にちなんで、皆に小さなさぼてんの鉢が配られました。(最後の通信の内容は、通信の命名の秘密を語りながらのさりげない子どもたちへのエールでした。彼ら全員しんとして最後の通信を読んでいました。この通信の内容の濃さを思うと、この発行だけとっても頭が下がります。)

 思えば、この学年の(今のクラスとは違いますが)兄のクラスは4年生の時に、”学級崩壊”と呼ばれる荒波の時期があったのですが、卒業式のあとで行われた保護者と担任の先生方によるお祝いの会で、この時荒れていた中心人物の生徒のお母さんの、「息子は、あの時のことを振り返って、あの時の自分はもういない。自分はうまれかわった、と言っています」という言葉を聞いて、親にとっても辛かった時期ですが、あの大波を乗り越えて今の彼らがあると、今となっては禍転じて福となす、とでも言った気持ちになりました。会では、わがクラスの担任の先生に対して、お母さん方より「先生大好き!」「私も大好き!」「その願いはかなわんよ」「じゃあ愛人一号ということで」などという発言も飛び出して大いに盛り上がりました。

 彼らがこれから出会うであろう山や谷はさらに高く、さらに深いでしょうが、彼らの前途にこのような幸福な出会いがあることを只々祈らずにはおれません。
 そして、今は只々感謝しています。

 ところで、卒業生退場の時に流れた唄は、「さくらのはなびらがどうしたこうした」とかいうたぶんいまどきのヒット曲だと思いますが、誰か曲名をしらないでしょうか。ボーカルは男性です。「舞い散る」だったかなあ。


※ココログのほうに映画「チャーりーとチョコレート工場」の感想をアップしましたので、よかったらのぞいてみてください。

大人とは・・

2005-12-01 18:04:52 | 教育

 教育関連の投稿の最初で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著/「クイズ番組に見る学力の低下・・」参照)には、現代の状況を読み解くのに示唆的な言葉が多く見られて私自身かなり勉強になったので、その中からまたいくつかの言葉を紹介したいと思う。

 皆さんは、「ジャックと豆の木」の物語を覚えているでしょうか。著者によると、この物語は、「父親に制約されない”怠惰で、軽率で、羽目をはずしがちな”十代の息子を持つ母親の話」であるということで、「巨人とは、書斎で人を刺し殺し、子どもを食らう者だ。」として「子ども部屋のコンピューターやテレビ」「子どもを一人きりで巨人の元へやっている」ことに他ならないとしています。 「二十歳から三十歳までの半大人はこうしたファイル(ポルノ)から子どもを守ろうとはしない」(同書70頁)「ジャックとは、父親のいない、そして最近では母親もいなくなりつつある社会に住むすべての男女をあらわしているのである。」(51頁)と。

 「保護されない子どもージャック」
 
 「子どものいる子ども」

 そして、思春期の少女たちも、「多くは必要な保護を受けていない」として、彼女達が「家庭の中でさえも親に大切にされていないと感じている。」とする少女の研究家の言葉を紹介している。(64頁)

 「思春期の若者たちが運営する社会」「子どもたちを軽視し」「半分大人の状態を評価」する。そこでは、「親は退行してこどものよう」であり、「子どもは見捨てられてしまう、早く大人になることを強いられる」のでこの本の表題である「未熟なオトナと不遜なコドモ」たちが多く見受けられるようになったのであると。
  
 「子どもたちは、あまりにも早く物事を知るようになるので、”大人”になりすぎて年長者を大人とみなすことができない子どもがますます増えている。」という土居健郎の著作「甘えの構造」からの言葉も紹介されている。そして、「大人のような子どもと、子どもっぽい大人の共通要素は甘え」であると。

 女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。

 「教養を身につける苦労を怠る者」は「代わりにナルシシズムに浸り、幻想を上演している多目的劇場への切符を手に入れる」(77頁~79頁)

 「イニシェーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」(159頁~160頁)

 「充分な心の準備ができる前に性欲を刺激されてしまう」「早すぎる思春期を迎え、永遠に思春期のまま留まる。」(182頁)

 きょうだい主義社会は、父親を家庭から奪い、がらくた文化を無批判に受け入れ、若すぎるうちから薄っぺらな性体験を促し、礼儀を奪い去り、経済的な不安定さをもたらすことで、娘達の魂に重大なインパクトを与えてきた。(164頁)

 その人の癒しは蓄積してきた歴史に基づいたものでなければならないだろう。
 
 思春期の若者は、「同世代のことしか気にしない!自分の欲望が大切だし、それで集団が生き延びられないというなら、そもそも生き延びる価値はないんだ。」(76頁)
と感じている。

 
1965年頃、何世紀にもわたって、有効だった家庭のしつけが突如崩壊した。

 裕福な者も貧しい者も、基本的には同じ家族の解体を経験しているのだ。(64頁)
 
→保護されない子ども ジャック の出現

 エルヴィス―年長者に導く対象として見られたことがない息子のよう(115頁)

 以上、かなりアトランダムに本の言葉を紹介してきましたが、最後に著者の考える大人についての定義の部分を紹介します。

 
大人とは、われわれがエディプスコンプレックス前の願望と呼んできた、快楽と慰めと興奮をすぐに手に入れたいという願望に支配されない人間
 
 世界は主に死者のものであり、われわれはほんのしばらく死者から世界を借りているにすぎないことを理解するのは大人の眼力である。
 
 子どもの扱い方に多大な時間と労力を注ぎ込んでいる。世界を継続させていくのは子どもたちだからだ。

 本当の大人とは、思春期の若者の激しさに対抗するための、自分の世代と創造性にふさわしい激しさを失わずにいられる者だ。こうした激しさを失わないだけでなく、さらに激しさを増す時、大人は長老となると言えるだろう。

 世界へ出ていき「他人のために感情の宝石を集める」者だ。(アンサール)

     
 大人は本当に大人になるとはどういうことかを判断しなければならない。
 若者を大人の世界へ引っ張り入れることを求められている。大人が振り向いてこのラインまで歩いて行き、思春期の若者を引っ張り込まねなければ・・・・。(321頁~322頁)

 今日も、「思春期気分の大人」による「子どもたちへのひどい仕打ち」
と見られる犯罪のニュースが絶えません。でもそれらは、突然変異的に現われたものではなく、私たちが住んでいるこの社会と文化が生み出しているものなのだという意識を忘れてはならないと思います。そのことを考える時、著者が「がらくた文化」の「巨人」と呼ぶテレビやコンピューターあるいはゲームやアニメなどが子どもたちに与えている毒の部分に大人たちが無関心でいることの危険性を私たちがもっと自覚することの重要さを感じます。
 これに関連して、前の投稿(「テレビの中の出来の悪い役割モデル」)でも触れた”さんま”が前にテレビで「”古典”なんか生きていくのに必要ないから勉強する必要がない。」という(高校の古文の先生が聞いたら嘆くだろう)意味のことを発言していたのを覚えています。私もテレビの前で「それは違うよ」と呟いていましたが、皆さんはどう思われますか。どなたかが言っていましたが、「イギリス人はたとえその全文を読んでいなくても、少なくともシェークスピアの戯曲についての知識は持っていて如かるべきであると。」だから日本人にも身に付けるべき必須の教養はあるはずで、さんまの言うように生きていくだけなら、(金もうけをするだけなら)古文の知識など必要ではないかもしれないが、例えば、平家物語の前文の知識があるかどうか、芭蕉の俳句をいくつか知っているかどうかで、それらを全く知らない人とは人生観や哲学において全く違ってきてしまうと思うことを考えると、さんまの言っている事の誤りは簡単にわかることだろうと思う。そして、そういう発言こそは”きょうだい主義社会”の流している毒に無自覚な発言であるし、私たち自身がその中にどっぷり浸って育ってきた存在であるという自覚の元に、この社会を見直していく必要が、子どもたちのために必要だと思う。


テレビの中の出来の悪い役割モデルたち(細木数子、明石屋さんま)

2005-11-30 01:11:15 | 教育
 子育てに関するふたつの記事を書いていて、ふと気付いたことを書いてみたい。
 
 前回の投稿の最後にも書いたのだが、「明石屋さんまは出来の悪い”役割モデル”である」、あるいは 「さんまの番組”から騒ぎ”は細木数子の番組に似ている」ということに気付いた。
 
 彼が、例の(もう恋がどうこうという歳ではないのであまり見たことは無いですが)「恋のから騒ぎ」やその他のトーク番組で、若い女の子や芸人たちに向かって恋愛薀蓄話や自分の女性観を語っている様子が、その不完全さにおいて、細木数子が彼女の番組で若い芸人たちや女の子たちに説教している図に重なって見えたのだ。
 私は、さんまが、現在において若い世代にどれだけの影響力があるのかは知らないが、若手芸人たちやテレビをよく見る層にはまだまだ絶大な支持を受けていると思うので、そんな彼が「俺は子どもを産んでお母さんになった女は駄目なんだなあ~」とか、若い女の子に(ご丁寧に”説教部屋”などと名前を付けて)説教を垂れているのを見ると勘弁してくれと思う。「このひとは何歳まで”恋がどうたらこうたら ”言い続けるつもりだろうか 」、と思う。そしてこんな”出来の悪い役割モデル”しかいない日本の若者たちを可愛そうに思う。私は、芸人さんまは決してきらいじゃないし、例の”説教部屋”も大人が見ることをとやかく言うつもりはない。彼の「サトウキビ畑」のドラマでの演技などは評価しているし、今時の若い芸人たちよりもずっと常識も教養もあると思う。彼の時おり見せる父親としての感想に共感したりもする。ただ、「彼の恋愛論だけはもううんざりなのである。」若い子たちには、「彼の女性観や恋愛論を真に受けても幸せにはなれないよ 」ということは声を大にして言っておきたいと思う。(皆がわかっていて、「反面教師」として聞いているなら、それはそれでよいのですが、番組の出演者たちを見ているとどうもマジに聞いているとしか思えないので)

 それにしても、「から騒ぎ」に出演している女の子たちには、どうもバブルの時代の尻尾がくっついているようなセンスの古さを感じてしまうんだが・・。その出演者のセンスの古さ加減が、さんまの恋愛論とほどよくマッチしているのかもしれないが・・・。

 今日の格言:  恋愛を語っているさんまは、”思春期気分のオトナ”でしかない

 (「役割モデル」、「思春期気分のオトナ」については前二つの投稿を参考にしてください。)

男の子の育て方

2005-11-28 15:26:43 | 教育
 前回の投稿の続きで、子育てに関するお勧めの本を二冊挙げておきます。
 「子どもに変化を起こす簡単な習慣」(バーバラ・コロローソ著/PHP研究所)、
「男の子って、どうしてこうなの?」(ステーィブン・ビダルフ著/草思社)
です。

 最初の、「子どもに変化を・・・」の方は、ベストセラーになった「子どもが育つ魔法の言葉」(ドロシー・ロー・ノルト/レイチェル・ハリス共著)に似た本ですが、項目毎に細かく分かれていて、ひとつひとつのアドバイスも古臭くなく且つ明快で実用書の趣があります。
 ”9 ヘアスタイルは子どもに選ばせる”という項での筆者のアドバイスは、こんな感じです。以下に少し引用してみます。
 
 以前、うちの学区で保健教育主事を務めていたドン・ショーによると、子どもが思春期になるまえに、たいていの決断を本人にさせておけば(ただし、生命にかかわらず、道徳に反さず、不健康でもない場合に限る)、ティーンエイジャーになってから深刻な反抗をするようにはまずならない、ということでした。
 自分自身の決断に対して、反抗するのはむずかしいからです。
息子のジョーが十一歳の時、まさにその言葉どおりのできごとがありました。ある日彼はわたしのところにやって来て、二本線だけ残して頭の片側を剃りたいんだ、と言ったのです。
 お母さんの趣味じゃないわ、と答えたものの、とにかく生命にはかかわらないし、道徳には反してもいないし、どのみちまた生えてくるのですから、結局はまかせました。(71頁)

 
 この決断の結果、彼女は身内の集まりなどで、息子があんな髪型になったのは彼女が出張しすぎたためだと言われたり、「十一歳でこんなまねをさせてるんじゃ、十六歳になったらどうなっちゃうのよ?」と言われたりすることになりますが、
息子さんのほうは、その年さらに風変わりな髪型を七つも八つも試みた後、中学一年になった頃には普通の髪型に戻っていったそうです。そして、彼女はこの項の最後を「―小さな問題で子どもに選択させ、そこで失敗を経験させておけば、後になって重大な失敗をすることはめったにないはずだとわたしは考えています。子どもはささいな失敗を糧にして学び、成長していくからです。」(72頁から73頁)という言葉で結んでいます。
 私たちは、このような状況に際して、彼女のように周囲の批判にも動ぜず、本人に選択させて、その結果を経験させるべく辛抱強く見守り続けるような態度を取れるでしょうか。”言うは易し行うは難し”で、なかなかの覚悟がいることだとは思いますが・・。
 
 ここまで、紹介して、中には単なる放任主義じゃないかと誤解される方もいるかと思いますので、もうひとつのアドバイスを紹介しておきます。 ”子どもが伸びるしつけの四ステップ"の項で、「罰には決してできないやり方で、子どもが学ぶのをはげます」しつけの四ステップとして、

 a まず、子どもがやってしまったことをはっきりさせる
 b 次に、子どもを問題の「当事者」にする
 c 子どもが自分で問題を解決するための選択肢を与えてやる
d 子どもの尊厳を傷つけない 



 を挙げて、息子のジョーが、博物館の校外見学に行ったときにビーバーの餌いれのビンを割ってしまったときのことを例に挙げています。
 このとき、先生は彼に、「ジョー、君は重大な問題を起こした、だが自分で解決できるはずだよ」とはげますように言い聞かせたのです。彼は博物館に手紙を書き、ビーバーの餌入れを弁償しました。
 そして、著者は「息子は罰せられず、しつけられたのです」とコメントしています。もちろん、子どもが体験する自然な結果が、「生命にかかわったり、道徳に反していたり、不健康なものであるなら、子どもを心配する賢明な親として、口を出さなければなりません。」と付け加えるのも忘れていません。
他にも、”44 子ども同士が殴りあいをしているときは”などの項もありますので、興味のある方は読んでみてください。

 
 次に,「男の子って、どうしてこうなの?」の方ですが、著者のビダルフさんは、この本の”はじめに”の項でこう言っています。

 少年たちがいまおかれている状況と、彼らが必要としているものについて書くにあたって、わたしは女性の地位を向上させるためにいたるところでなされている努力をないがしろするつもりはまったくない。しかし、新聞を広げてみれば、少年達もまた傷ついていることはだれの目にもあきらかである。今後、よりよい社会をつくっていくには、男性も女性もともにより健康で幸せになれるように努力していかなければならない。もし、世の中の男性にもっとよくなってほしいなら、男の子たちを責めるのではなく、もっと理解してやる必要があるだろう。 (同書3頁)


 著者がこの本の最初にでこう断らざるを得なかったのは、多くのフェミニストたちやフェミニズム運動が主張してきた、そして今でも主張している考え方と衝突する考え方―”男女間の性差は存在する”という考え方についての理解を求めるためである。(私もこの点については、旧来のフェミニストたちの「男女の間の性差はすべて後天的なものである」とする主張は硬直的すぎると思う)まず、小学校の高学年で最も顕著になる男の子と女の子の発達の速度の差からも明らかな、男女の脳の構造に見られる性差(男の子の右脳と左脳のつながりが少ない、右脳の連結が多い―このことによって、自分の感情を言語で表現するのを苦手としたり、数学が得意だったりという特徴が見られる。また、この時期に女の子と比べて劣等感を抱きやすいことなどにも注意を促している)

 ここまで、書いて思い出すのは、町田市で起きた少年による同級生の少女の殺人事件である。
 この事件は、これからの調べで事件を起こした少年の心理や精神状態などが明らかになっていくと思うが、私には、殺人という部分をのぞいてこの事件を見ると、少女の取った行動も、そして、少年がその言動によって傷ついたであろうことも理解できる。少女たちの「おたがいにささやきあい、少年たちをあざけっている」(171頁)態度に、少女たちの思う以上に少年たちが傷つき劣等感にさいなまれているということに対して、当の少女たちが少しでも気づいていたら、あのような事件は起こらなかったのではという気がするのだ。

 また、この本では、少年や少女たちにとっての。「役割モデル]の重要さを説いている。彼らや彼女たちの憧れの対象でもあり、さらに彼らに対して、肯定的な男性の(女性の)イメージを与えてくれる同性の年長者―「お手本になる男性(女性)」の必要性が説かれている。
 このことは、前回の投稿記事で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」の中でも述べられている。著者は「模範として目立つ大人はほとんどいない」と嘆きながら、こう言っている。それは、退行して子どものような「思春期気分のオトナ」ではない「本当の大人」「年長者による真の指導が若者にとって不可欠」であると

 私たちの周囲を見渡して、彼らにとってモデルとなるような真の大人が学校やスポーツクラブなどの指導者のなかに多く存在することを祈らずにいられないが、もし、彼らが、本も全く読まず、テレビしか見ないような環境にあるとすれば、彼らは、出来の悪い役割モデルしか見いだせないだろうことは確かである。テレビの中のそれらの出来の悪い役割モデルのご託宣を後生大事に聞くしかない状況は、とても貧しくばかばかしい状況であることに気付いてほしいと思う。細木数子、明石屋さんま・・出来の悪い役割モデルについてはもう少し書いてみたいところですが、今日はこの辺で。

クイズ番組に見る学力の低下あるいは教師の指導力の低下

2005-11-27 00:26:14 | 教育
 子どもたちがクイズ番組をよく見るので(ヘキサゴンあたりを)、一緒に見ているとすぐにあることに気付く。一般的に若いタレントほどものを知らないということに。どの辺りにボーダーラインがあるのかを調べたわけではないが、そういう番組で正答率一位とか二位とかになるのは、いつも一定の年配のメンバーである。先日見た番組では、あるアイドルグループのメンバーが7×8=45と答えて、皆を絶句させていた。私は、一生アイドルをやっていくわけにもいかないだろう彼女の行く末を案じてしまった。まあ、仕事が忙しくて学校に行く暇もなかったのかもしれないし、計算機があるから別にいいではないかと言われるかもしれないけど。(九九は小学二年生で習うんですけどね)皆さんはどう思われるでしょうか。
 芸能界でも生き残っていく人や俳優さんで成功する人にはそんなにおバカなひとはいない。俳優で成功するにしても、まず漢字が読めないとセリフを覚えられないし、役の設定を理解し、その感情を表現するのにはある程度の知性は絶対に必要だ。知性の欠けたうすっぺらい演技しかできない者はいつの間にか消えていく。主役を張っている俳優さんや女優さんたちの豊かな感情表現はある程度の常識や知性の裏づけがないと絶対に出てこないものだと思う。

 で、私が学力の低下の原因を考える時に、まず考えるのは、教師の指導力の低下ですが、わが子の担任の例をとってみると、ふたりとも担任が新採用の先生の時にクラスが荒れた、荒れている(新採用の先生が担任している下の子のクラスは今荒れています)ことなどを見ると教師の指導力も年年歳歳落ちてきているのではないかと危惧してしまう。
 中堅どころの今の兄のクラスの担任の先生は、授業もおもしろく且つわかりやすく、学級経営も見事で、生徒達にも大人気の親から見ても申し分のない先生なのですが、弟のクラスの先生は、授業もわかりにくく、宿題を出すのにも四苦八苦して、学級通信も形式的なものがたまに出るだけで、授業中騒ぐ生徒達にひとりではなすすべもないという、親から見ても「はあ~・・・」という先生で、兄のクラスの先生とは天と地ほども差がある。そういう状況を見るに付け、これは単に個人の能力の問題だろうか、それとも世代的な社会構造的な問題なのだろうかと考え込んでしまう。兄のクラスが一昨年学級崩壊と呼ばれる状況になった時の担任の先生も(この件についてはdaruさんのブログのコメント欄での長いコメントのやりとりをしました)魅力ある授業や子どもたちにとって魅力ある人間性を持っていたかというとそのどちらにも欠けていたように思う。
 親としては、新任の先生が経験不足なのは仕方ないとしても、やはり担任を持つからには、ある一定のレベルには達していてほしいし、せめて、授業をしっかりとできる、あるいは、人間的に魅力があるかのどちらかでも備えていてくれと思う。(現在の弟の担任は残念ながらどちらも×です。)私たちは、子どもたちの将来を考えると、このめぐりあわせを単に運が悪かったですますことはできない。本当に山あり谷ありで、よい先生とそうでない先生との差がありすぎる。そして、前にも書いたように、子どもたちが出会った”そうでもない先生たち”の特徴が世代的なものでないかということを危惧してしまうのです。

 学校の先生というのは聖職であると言われてきたわけですが、人間の一生に影響を与える仕事であることを考えると、やはり、”聖職”と言われるような覚悟を持って就く仕事には変わりないと思う。
 現在の、弟のクラスの問題で開かれた会で、ある保護者が担任に向かって「先生はどうして教師になったのですか?」という質問をした。答えは「尊敬する先生がいて、その先生のような教師になりたくて・・・」というようなよくある答えでしたが、これから教師を目指すひとには、自分は教師としての適性が本当にあるのかということをもっと真剣に見極めてから教師を目指してほしいと思う。単に安定しているからとか、他の就職と同じ次元で安易に目指してほしくない。経験で補えない適性というのはやっぱりある。そしてそういうことを子どもたちは敏感に察知するのである。給料のためだけの教師になってほしくない。
 
 公立校の先生には、多様な学力や家庭環境の生徒たちに対応できる柔軟性が必要だと思う。そして、その能力は、もし彼らが小学校高学年から塾通いをして、エリートや裕福な家庭の子どもたちばかりを集めた有名私立校を卒業して教師になったのであれば、彼等に公立校の学級を経営していくための経験値は絶対的に不足しているのも無理はないし、自らの多くの落ちこぼしを産む授業を改善しようとせず、「授業がわからなければ塾に行けばよいではないか」と自らの責任に目をつぶるしかない「給料のためだけに働いている」と言われてもしょうがないような教師なってしまうのではないだろうかという気がする。


 自分の子どもの頃のことを考えると、そんなにすばらしい先生(兄の先生のような民主的で生徒に人気のある先生)にはめぐりあわなかったが、教えるということについては、(特に小学校では)皆一定のレベルを保っていたし、ひとつのことを教えるのにも、それに付帯した知識やことわざなども折に触れて教えてくれていて、そういった教えなどが今でも心に残っていたりする。今の先生には、一部の先生をのぞくと、そういう先生がいなくなってしまった感じをうける。どこかに知の断絶があって、代々受け継がれるべき知識や価値観が途切れてしまった感じ。

 そういう現代の状況を考えるのに示唆的な本をひとつ挙げておきます。「未熟なオトナと不遜なコドモ」「きょうだい主義社会」への処方箋(という副題が付いています。)(ロバート・ブライ著)(図書館で借りた本なので、手元にないため出版社はわかりません。)

 ここで、ちょっとその一節を紹介してみます。

 われわれの社会の三分の一は、こうした新しい”きょうだい主義者”の性質を身につけているだろう。残りもその方向へと向かっている。われわれ全員がそこにたどり着く時には、耳を貸す価値があるのは同年代の人間だけになっているので、公立学校はまったく姿を消し、過去の対象把握方法もなくなっているかもしれない。
 未開状態への、そしてファシズムが好む退行状態への堕落を食い止めるものは、きょうだい主義社会にはほとんどない。
   (同書6頁~7頁)


 そして、現代を「思春期の孤児の社会」であると、そして、「思春期気分の大人によって営まれる文化」は「子どもたちにひどい仕打ちをする」と。この状況はまさに現代の私たちの状況の説明ではないですか?