あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

「散るぞ悲しき」

2007-06-30 00:50:59 | 
 生協のピースライブラリーで見つけて、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(梯久美子・著/新潮社)を読んだ。読むのは大体夜中、寝る前だったのだが、読んでいる間は、その後眠れなくなって困った、そんな本だった。そして、読むのが止めれなくなるような本だった。
 内容は、映画「硫黄島からの手紙」で描かれている栗林忠道像を、その硫黄島での日々、戦闘そして最期を、そのまま詳しく描写した感じで、あの映画が、かなりリアルに、栗林忠道という人物を描いていたということがわかった。
 
 この本のタイトル「散るぞ悲しき」は、彼が最後の総攻撃前に、大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられた辞世の歌3首のうちの1首、

 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 から来ています。当時、軍人(指揮官)として、戦闘行為を詠むに当たって、タブーとされていた”悲しき”という言葉―新聞発表では”口惜し”と改変されて発表された―が、どのような経緯で、どのような思い(意志)が籠められて発せられたのかを、軍人、家庭人としての栗林の性格や、島での地下陣地構築の日々、「生地獄」とも表現された、過酷で凄絶な戦闘の様子やその最期をていねいに描写していくことによって、描いている。もちろん、映画でも使われた手紙も数多く紹介されている。
 私が最も印象的だったのは、生前の栗林を知る者を訪ねて、軍の軍属(裁縫係)として、生前の栗林と親しく接し、彼のことを”うちの閣下”と呼ぶ85歳の貞岡氏に会った時のエピソードだ。当時「閣下のもとで死にたい」と願い、硫黄島に渡ろうとしたが、本人から「来てはならん」と怒鳴られ、その願いを果たせず、今でも栗林の最期の電報の電文の一言一句を忘れず、まるでお経を読むように朗誦するという貞岡氏は、栗林の死から33年後の昭和53年に慰霊巡拝団の一員として島に渡ったときに、案内の人が栗林が潜んでいた司令部壕を指すと、「閣下ぁー、貞岡が、ただいま参りましたーっ!」と呼びかけながら、その方向に駆け出したという件を読んだときは、われ知らず泣けた。
 映画でも使われた最後の出撃前の栗林の言葉、

日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。

 を、思い出した。

 貞岡氏の電文朗誦は、硫黄島の死者の霊に対する、私たちに代わっての、やはりお経なのだ。それは、そのような戦争があったことも、そこで亡くなった兵士たちのことも忘れて暮らしている私たちの戦後を照射している。私たちはそれらの死者を思い出し、涙することがあったのかと。(私は、栗林忠道のことを映画「硫黄島からの手紙」を観るまで知らなかった。)


 アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。(同書220頁より)

 スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。(同書126頁より)

(※スミス中将=米海兵隊硫黄島上陸作戦の指揮官、ホーランド・M・スミス中将)

 しかし、その闘いは、栗林本人をして、「鬼神(きじん)を哭(なか)しむる」と表現させずにはおかないほどの戦いだったのだ。
 この本からは、栗林の”絶唱”としての電文に籠められたその闘いの哀切さとともに、その最期のときまで徹底した現実主義者(現実主義者としてアメリカとの開戦に反対していた)だった軍人栗林の姿が浮び上がって来る。硫黄島の地下陣地やその闘いぶりによって、敵将を感嘆させ、彼に対して畏敬の念を抱かせるほどの。そしてその現実主義者の彼が、留守宅のこまごまとした事までを気遣う手紙を書く、よき父親であり、夫であったことは、映画でも描かれていたとおりだった。


 ※男はどうして戦争映画がすきなのだろう(「硫黄島からの手紙」を観て感じたこと)

 ※「父親たちの星条旗」より

 ※「 硫黄島からの手紙 」



つれづれ日記(映画のこととかいろいろ)

2007-06-23 00:56:40 | 日記
 最初に、ちょっとだけ映画について。(予想どおり観てない映画です。)「300」というスパルタ軍とペルシャ軍の有名な闘いを描いているのだそうですが、スパルタって、あのスパルタ教育しか思い浮かびませんし、あんまりよいイメージがありませんが。予告編のグロくて暑苦しいCGやメーク、ちっともいいと思わないラブ(お色気)シーン等々、予告編だけでもノーサンキューって感じでした。レビューに、「グロくない殺戮シーン」とか「キレイな戦闘シーン」とかありましたけど、それはマズいんじゃないんでしょうか。殺人とか戦争をキレイに表現するのは。そして、この時期にこういう映画が作られた意図とかを考えると、どこかの国の誰かさんの広報・洗脳映画?って感じで、ほんとういい加減にしてほしいです。観てない映画の感想を書くとまた叱られそうなので、この辺にしておきますが、いくら、意匠を新しくしても、根底にあるものが見え見えで、こんな作品を作って、なおかつヒットしてしまうとしたら、嘆かわしいというか、落ちたもんだというかね・・・。

 みんなの人気者にあまり興味のない私からするとあまり理解できないことなのですが、この国には、どんなスキャンダルにもビクともしない一線というのがあるらしくて、それを越えると、どんなスキャンダルも、「あのひとに限ってそんなはずはない」という皆の潜在意識のような力で、いつの間にか消えてしまうような一線というのがある。例えば、イチローとか、ヒデとか、キムタクとかのようなひとについての、マイナスイメージとなるような報道は、マスメディアにまでは、まず上がって来ない。小泉前総理についても、その中に入れてもいいだろうと思う。なぜかは知らないが、小泉政権時代、結構危うい時期、噂は、何回も、そしていくつもあったと思うが、致命的なことにまで至らず、いつの間にか消えてしまっていたのは、この力のせいもあったと思う。イチローなどは、実力からしてある程度は納得なのですが、というか、個人的には、私の中では、イチローもヒデもキムタクもそこまでスーパーな存在ではないので、欠点も目につくのですが、(特にヒデに関しては、ドイツWカップと、その後の引退宣言メールとかについて、もう1回書いてみたいことがあるのですが、)小泉前総理が、そのような潜在意識の対象となったことが、どうも納得いかない。最後の最後の”プレスリー親父”ぶりは、お友だちのブッシュ氏でさえ内心あきれただろうと思うほどでしたが、皆は、あきれているのかいないのか、最後まで見て見ぬふりでしたよね。その基準って何なのって思う。私にはわからない。実力や人格に正確に対応したものではないことはわかりますが・・。シンタローやジミントーなんてのもその中に入っているんだろうか。盲目的ってことでは、宗教的(信仰)って言ってもいい現象ですよね。アンタッチャブルな存在を作っちゃいけない、堕落する!と私は思うけど。

 あと、たけしと松本人志について、、「永遠の少年」というキーワードで書けるなと思ったけれど、ちょっと時間がなくなりました。

天木さんとベンジャミン・フルフォード氏との対談の動画(「天木直人のブログ」より)

2007-06-19 13:10:10 | 政治・経済
 天木直人氏の6月16日付けブログ、ベンジャミン・フルフォード氏との対談の動画がアップされています。

 天木直人のブログ、ベンジャミン・フルフォード氏との対談

 対談では、松岡元大臣の自殺の本当の理由(リクルート疑惑をばらしたひとが最近殺された、)などについても触れられていて、それらの裏で、日本を影で動かしているもの(ベンジャミン氏はそれを”国体”と呼んでいて、その正体については言えないとしていましたが、)についてや、(急な年金問題の浮上についても、その影の力の”もう出してもよい”という許可が出たため指摘されています)対立を友好関係にさせないアメリカのやり口、(なかよくしている人の片方の犬を殺しておいて、片方に、彼が殺したと告げ口するとか)、(中国をつぶすための)第3次世界大戦という長期的計画(そのための日本の軍事化ー9条改正、日本軍がアメリカといっしょに戦うように国民を洗脳)などというとても怖い話などが紹介されています。ぜひ訪問してみてください。

カンヌという権威を借りた商業主義(武と松本人志の映画について)

2007-06-14 17:56:25 | 映画・ドラマ
 「王様は裸だ」ということが、ヤフーの掲示板とかの酷評などによっても証明されているので、いまさらこんなマイナーブログで取り上げることもない、無視しようと思ったけれど、松本氏の映画は結構ヒットしているみたいなので、少しだけ書くことにしました。現在、公開中の松本人志氏の「大日本人」と北野武氏の「監督ばんざい」について。(両方とも予告編しか見てないことはお断りしておきます。両方とも観たいという気がおこらないので。)

まず最初に、私は、お笑い芸人(最近は司会者としてしか見かけないが)としてのこのふたりの笑いをちっとも笑えない、古臭さと痛さしか感じない、ということを言っておきたいと思います。カンヌでのビートたけし=北野監督のチョンマゲパフォーマンスについても、カンヌという権威とそのセレモニーにびしっと決めて出席する自分への照れからだろうけれど、笑えたらまだしも、「かぶりもの」程度じゃ笑えない。それと同様に、映画のほうも笑えない。特に「たけし人形」とか出てくると、最近の彼のバラエティの痛いギャグを思い出して辛くなる。今までの自分の作品も含めてちゃかしたのだろうけど、実際のところは、映画作りに行き詰って、お笑いに逃げたら、余計に駄目だったという感じです。中途半端なパフォーマンスもやめたほうがいいと思う。笑えないから。恥ずかしさに耐えて、びしっと決めて出席したほうがずっとかっこいいのにと思います。
 
 松本氏の映画については、印象としては、”学級崩壊したクラスをアナーキズム化しようとする悪ガキ”のような表現と言った感じでしょうか。武には一般教養と常識はあります。しかし、松本氏には、そういう表現の基礎部分がありません。あるのは、現在に対する「何かが違う」という違和感=気分のようなものだけでしょう。そのような基礎部分の無い”気分による異議申し立て”は、残念ながら、松本氏のファンも含めての映画への酷評で明らかなように、ひとつの作品として形を成すはずがありません。彼の笑いも同様でしょう。一般教養や常識を欠いた(お笑いには必要です)、アナーキーな、ある年代以下の支持しか得られない幼稚な笑い。映画も同様に幼稚さと独身中年男のうす気味悪い気分の稚拙な表現でしかありません。映画は気分や感じだけでは作れません。そのようなものが、哲学と大人文化の国フランスで受けるはずがありません。今回の映画で、本人にとってもファンにとっても、「王様は裸だ」ということがわかってよかったね、と思うばかりです。
 
 武には、映画では笑いに逃げるな、と言いたい。松本氏には、今後も映画を作るつもりなら、すべてについてもっと勉強してください、と言うしかないです。幼稚な傲慢さは醜悪なだけです。「受け手がバカだから」などという言い訳をするようなら、今後いっさい映画など作らないほうがいいと思う。

爪と声色が見え隠れしているにもかかわらず

2007-06-07 13:29:30 | 政治・経済
 扉のすき間から、現政権の本性を隠した声色や牙や爪が見え隠れしているにもかかわらず、子山羊たちは気付こうとしない。とんとん「 お母さんですよ(美しい国、ですよ )」というしわがれた、もとい、甲高い声が聞こえるにもかかわらず。明らかな憲法違反行為が行われているにもかかわらず(参照:天木直人ブログ)、大政翼賛マスコミ(特にテレビ)のせいで、現政権の危険性に対して国民の世論が盛り上がらない。そして、子山羊よろしくだまされて扉をあけようとしているまったく権力に無警戒な二十代、三十代。とんとん「お母さんですよ」というしらじらしい声に、「おまえは おおかみだろ!」という賢い子山羊はいないようだ。

 映画「アラビアのロレンス」の脚本家ロバート・ボルトは、「ロレンス」の脚本執筆中に反政府系のデモに参加して拘束されたそうだ。そのため映画の完成の遅れることを危惧したプロデューサーのサム・スピーゲルの計らいで早期に釈放されたのだそうだが、それを知ったボルトは、そのあとスピーゲルと口を利かなかったそうだ。ボルトのデモ参加は当時の文化人としてはふつうの(よくある)行為だったそうです。今の日本の文化人に、表立ってこういう異議申し立てに参加するひとがいないのは、そういう異議申し立てをすること自体を変な目で見る日本の社会の体質のせいだと言えるし、日本の社会が、まだまだ成熟してない証拠なのだと思う。政治的な話をちょっとしただけで、疎まれたり、変な目で見られたりですから、逮捕でもされようものならもうお終いというような、びくびくした子山羊の体質。だから、自衛隊による国民監視のようなトンデモナイ事件が明るみになっても、それを批判するどころか、だから黙っていようという自己規制のほうに向かうという体質。そんな最近の若い世代は、死語だと思われていた「アカ」とかいう言葉を使いかねないくらいで、本当にうんざりします。

 社会的に影響力のある文化人、有名人が、政治的発言をしたり政党や政治家への支持を表明することは、先進国ではふつうのことなのに、日本のこの硬直した状態は、やはりこの国の民主主義の程度と有象無象の暴力による支配の影を感じます。でもあまりにも萎縮していると思う。それは、私たちの姿を映す鏡なのでしょうが。”沈黙”という異議申し立てもあると信じたいのですが、それは楽観的すぎる気がします。

※ココログに「武士の一分」「名犬ラッシー」の感想を書きました。

ひとは自分の生きて来た時代に規定されている(ココログの記事紹介)

2007-06-04 16:24:09 | 日記
  [公式] 天木直人のブログ

 
 私は、ZARDと聞いても、J-POPと聞いても、自分の中に特別な感情が沸いて来ない世代です。高校生の頃、ビートルマニアの同級生がいたり、美術室でロンドンブーツを履いている先輩がいたりして、自分も洋楽のレコードばかり頑張って聴いていました。映画「パッチギ」に出てきたフォーク・クルセダーズの名前は知っていたましたが、当時はまだ子どもだったので、「帰って来たヨッパライ」を喜んで唄っていたくらいの記憶しかなく、「イムジン河」という楽曲についての知識はほとんどなかったのですが、「悲しくてやりきれない」などを聴くと、こころにぐっと来る、言葉が感情を伴ってこちらに届いてくる感じがある。これが最近のJ-POPには、そういう感情移入がまったくできない。(※参考記事「日本のサブカルは今年もますます「痛み」や「悲劇」から遠ざかりました」(MIYDAI.comBlog)

 以前は、ふつうのOLがベルトルッチの映画とかをふつうに観ていた、と思う。(今だと「バベル」とかを観るように。)それがそんなにマニアックなことでもなかった。初期の雑誌「マリークレール」に、えらく難解な映画評が掲載されたりしていた。ジム・ジャームッシュの映画が人気だった。それらは、すべてファッション的なものだったのかもしれないが、文化のすべての分野が今よりグローバルな多様さに満ちていて、それらに接することが、いまほど一部のスノッブだけの世界でも、オタク的なことでもなく、日常のなかにあった。そんな時代だったと思う。

 ひとは、自分の生きて来た時代にどうしようもなく規定されている。昔はよかったと言いたがる。(こと日本のサッカーに関しては、そんなことはまったくないのですが。)でも、テレビ番組のくだらなさに溜息をついているのは私だけだろうか。私には、制作側の劣化は否めない事実に思える。 

※ココログに「武士の一分」「名犬ラッシー」の感想を書きました。

ニヒリズムはいけない (立花隆「メディアソシオ-ポリティクス」より)

2007-06-01 14:49:25 | 政治・経済
 松岡前農水相及びその関係者の自殺について、立花隆氏の「メディアソシオ-ポリティクス」に、3件の関連記事がアップされていますので、訪問してみてください。記事によると、松岡氏は「ナントカ還元水」程度の問題で自殺したのではない、安倍政権にとって大打撃となる巨額汚職疑惑に対する検察の捜査にむりやり蓋をするための自殺だったということが指摘されています。そして、安倍首相のこの件に関する発言が、捜査に対する”「指揮権発動」まがい”であるという指摘もされていて、安倍氏の総理大臣としての資質に対する疑問が呈されています。安倍総理の軽はずみな発言に関しては、天木直人氏もブログで指摘しています。(※こちらには、防衛大学の卒業式での訓辞がシビリアンコントロールの点から大きな問題があったことも指摘されています。)

追記:タイトルの「ニヒリズム」というのは政府や外務省の「アメリカ追随」というニヒリズムのことです。そして、安倍政権の背後の巨大な闇が透けて見えるにも関わらず、今後も現政権が続くのだとした、それは私たちが巨大なニヒリズムに浸っているということではないのだろうか。三猿よろしく。