あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

個の魅力を感じない

2007-07-31 15:29:53 | サッカー
 これから書くことは、まったく私の個人的な感想であって、今のオシムジャパンを応援されている方に異議を唱えるとかではまったく無い、ということは最初にお断りしておきます。
 タイトルどおりなのですが、私はオシムジャパンのメンバーたちから、個の魅力、選手としてのそれも含めた、もっとトータルな人間としての魅力のようなものをあまり感じない。だから、あまり興味がわかない。トルシエジャパンの選手には、そのような個の魅力を感じさせる選手がたくさんいた。ジーコジャパンにも何人かいた。(ドイツの本戦に出場した選手では、かなり減っていたが。)で、今回のアジアカップですけど、やっぱりねっていう結果でしたが、オシムの言うとおり、内容はよかったというので満足しているのであれば、何も言うことはありませんし、リスクを冒して攻撃するという志もいいとは思うのですが、心が動かない。感動もしない。残念だったね、という気もあまりない。マスコミは例によって、負けたら、あまり取り上げない。だから、何が問題なのかが、例によって議論されない。素人のような会長のひと声でオシムが監督に決まった時のように、何があってもこのまま行くのでしょうからね。(まるで、大臣の不祥事がいくらあっても、任命責任を問われて辞任するのが嫌で、彼らを辞めさせられないどこやらのトップと似ていますが。)問題はどこにあるのかっていうと、居座っているトップもだけど、私はこの何となくっていう体質だと思う。トルシエジャパンのなにが良くって何がだめだったのかを徹底的に究明せずに鶴のひと声でジーコにし、そしてオシムにというその経緯、だから、よかった点がきちんと評価もされないし継承もされない、だから問題点もいつまでも改善されない。雰囲気だけ。協会もマスコミも。

夏は野菜料理で

2007-07-23 22:15:09 | 日記
 暑くて食欲がいまひとつ、という時でも、野菜中心の献立だとなんとか食べられます。我が家の今晩の献立はこんな感じです。「 キンピラゴボウ、かぼちゃの煮物、きゅうりとジャコの酢の物、トマト、ホッケの干物、ナスとソーメンのみそ汁、ラッキョウ、ごはん 」。夏はこういうのがいちばんだなあって思います。かぼちゃのホクホク具合もいい感じだし、ナスとソーメンのみそ汁は夏ならではの献立だし、きゅうりの酢の物も今がいちばんおいしい。特に凝ったことはしなくても、野菜にちょっと手を加えて食べるだけでごはんもすすむし、元気も出る気がします。トマトもおいしいですね。フルーツトマトとかでなくて、昔からある、青くさくて大ぶりのを冷やして、切らずにかぶりつくのがいちばんなんですけど。あと、とうもろこしを茹でたのも、私も含めて、みんな大好きです。

 「時をかける少女」観ましたけど、ブログに感想書くほどではなかったです。思春期向け、というか、観ているときは、そこそこおもしろいんだけど、その面白さがあとにあまり残らない、もういちど観たいという気にはならなかった。

 あと、まえに放映された「シュレック2」ですけど、イケメンへの悪意に満ち満ちているというか、イケメンが徹底的にコケにされる映画です。

「で?だから?」っていう表現

2007-07-13 17:23:20 | 日記
 若者についての負のイメージを倍加させるような著作「ケータイを持ったサル」や「自分以外はバカの時代!」などに描かれている現代の若者の問題点をあらためて認識させられるような出来事に遭遇すると、彼らに対して「何の根拠があって(教養?知力?経験?体力?)、そんなに傲慢で不遜で自信たっぷりなのか?」と腹が立つ。その原因はそれらの著作を読めばきちんと説明されている(つまり、彼らは何の根拠もなく、傲慢で不遜なのだと)のだが、それでも腹立たしい。そんな自分たちのありように何の疑問も抱いてない、大人に対して一片のリスペクトもないという本音がぽろっと漏れたりすると、「もう辛抱できん、相手なんぞしてやるものか」と、私の堪忍袋の緒も切れてしまうのだ。「絶対に媚は売らんぞ」、と。「お子様向けペロペロキャンデーのような表現で満足してろっ!」と悪態を吐きたくなる。それらは、見たところで「で?だから?」って言いたくなるような「甘ったれた優越感」や「幼稚なナルシズム、傲慢さ」に溢れている。そういう感情に擦り寄った(媚を売った)、そういう感情を垂れ流して開き直っただけの表現。そんなものには用は無い。
 私には、若い世代の文化受信力も文化発信力もともに低下している(=ポピュリズム=大衆迎合主義化している)ように見える。そして大人たちも、彼らに迎合している。

 ※参考記事:最近読んだ本2~他人を見下す若者たち(少し追記しました)

 ※参考記事:大人とは・・

つれづれ日記(「散るぞ悲しき」追記、石橋湛山他)

2007-07-09 16:43:26 | 
 いろいろ書きたいことはあるんですが、じっくり書く時間が無いのと、湿度の高い暑さのせいで、夜更かしが辛いというのもあります。(ココログにフランスのアニメ「王と鳥」について少しだけ書きました。よかったら訪問してみてください。)

 それと、前記事で紹介した「散るぞ悲しき」という本を読み返して、ずっといろいろと考えたりしていたりもしていて、少しそのことで追記したいこともあったのです。私が映画「硫黄島からの手紙」「散るぞ悲しき」という本から浮び上がって来る、軍人栗林忠道像の何に感銘を受けたのか、ということをずっと考えていたのです。硫黄島での、軍人としての彼の思考やその戦闘は、現在の平和な日本に暮らす私たちの感覚からは、かけ離れた部分があります。そして、これらの作品はとり方によっては、他の戦記物同様、ヒロイズムに酔いたいひとたちに、都合よく解釈される危険性もあると思います。それでも私は、これらの作品に描かれた栗林という人物に惹きつけられるものが多々ありました。それは、家族にやさしい手紙を書き送った、ほとんど理想的な家庭人、父親としての姿の部分が、そのひとつですが、それと同時に、関係者へのていねいな取材や証言を通して描かれた、軍人としての彼の行動や思考から現れる、徹底した”現実主義者”としての彼の姿にも感銘を受けたのです。アメリカ留学の経験があった栗林は、現実主義者として、最後までアメリカとの開戦に反対していたそうです。でも硫黄島に赴任してからは、軍人として、自らの経験と知力のすべてを投入して戦いました。その戦いぶりから、現在においても、米軍人の間では”General KURIBAYASHI”の評価は非常に高いそうです。そして、その高評価は、彼の徹底した現実主義(緻密に現実を観察して分析し、最も有効な対策を考える)から来ていると思うのです。その彼が、自らの死を覚悟した最後の総攻撃の前に(その先頭に立って闘うことが、若い兵士たちに死ぬしかない過酷な戦いを強いた指揮官としての彼の責任の取り方だった)発した決別電報の本文や辞世において、言わずにはおれなかった言葉、そのぎりぎりの軍中枢部批判―前線の現実をよく知りもせず、机上で楽観的な大局ばかりを語った彼らの方針が、いかに現場の兵士たちを苦しめたかを―に籠められたその思いを知ることは、意味のあることだと思うのです。右とか左とかに関係なく、戦争の現実とその虚しさを知るために。彼が残した最後の言葉は、その戦場の悲惨な現実をわれわれに伝えたいという強い意志と思いが籠められて発せられたものだったのです。その強い思いに60年という歳月を越えて答えたのが、映画「硫黄島からの手紙」であり、「散るぞ悲しき」という著作だったのです。


 (※追記:「美しい国」と言いながらうっとりすることは、現実を見ずに、現実から遊離してしまっていることそのものではないだろうか。)
 

 最後に、先日、NHKで放映された、石橋湛山が特集された「その時歴史は動いた」という番組もなかなかよかったのですが、これについては天木さんのブログで紹介されていますので、そちらを訪問してみてください。