歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「眼前」?「駅前」?

2010年05月24日 | 気になることば
面白いような困ったような発見をしました。新潮文庫と角川文庫で、本文に異同が見つかった。それも太宰治。昭和17年の「待つ」という掌編。現行の改版された新潮文庫『新ハムレット』のp.354。ちょっと長い一文ですが、「生きているのか、死んでいるのか、わからぬような、白昼の夢を見ているような、なんだか頼りない気持になって、眼前の、人の往来の有様も、望遠鏡を逆に覗いたみたいに、小さく遠く思われて、世界がシンとなってしまうのです。」とある。この中の「眼前の、」が、角川文庫に拠ったという青空文庫では「駅前の、」となっている。

新潮文庫が間違っているのかもしれない。角川文庫が間違っているのかもしれない。青空文庫の入力者が間違って入力し校正者が見落とした、のかもしれない。さらには誰も間違っているわけではなく、新潮文庫と角川文庫が依拠した本文にもともと異同があるのかもしれない。初出と全集とで、違うとか。さあ、真相はどれでしょう。

行文上は「眼前」でも「駅前」でも意味は通じる。この小説「待つ」は、「省線」のある「小さい駅」での話なので、「駅前の、」でもなんら問題ないです。わたしとしては手もとにあるのが新潮文庫なので「眼前」が正解であってほしい。けれどもし「眼前」なら、これは「メノマエ」ではなく「ガンゼン」と読むべきだと思われますが、「待つ」全体の文の調子からして「ガンゼン」て堅い漢語は違和感がある。文体からはむしろ「駅前」のほうがしっくりくる。