歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

伊藤ハクブン

2010年05月12日 | 気になることば
むかしの人は、伊藤博文を伊藤ハクブンといい、森有礼を森ユーレーといった。でもこういうふうに名前を音読されるのって、みんながみんな、ってわけでもない。大久保利通とか山県有朋は、リツーとかユーホーとかあまり言わなさそうだ。人気のあるなしが関係してるんだろうか。でも人気はあるはずの西郷隆盛にしたって、リューセーとは言いませんよね。

そういえば、いま思い出したのだが、若いころ広島で暮らした大叔母が、浅野家の最後の藩主だった浅野長勲さんのことを「広島の人はチョークンさんチョークンさんて言ってたよ」と教えてくれた。敬愛される殿様だったのだ。

ほんとは訓読みなのに有名人の名前を音読みしてしまう風習は、しかしおじいさん世代だけのものではない。わたしもやりますよ。たとえば開高健。ほんとは「たけし」なのに、カイコーケンて言うでしょ。まあ開高健の場合は、カイコーケンで正しいのだ、と思っている人もいそうだけどね。それから、『水戸黄門』のナレーションで有名だった芥川隆行という人も、「たかゆき」のはずだがふつうはリューコーと言われていた。政治家だけぢゃなく、作家やタレントについても言うのだ。それに、ぐっと溯ると、藤原俊成は「としなり」なのにシュンゼイ、定家は「さだいえ」なのにテイカ。名前を音読みする風習は今なお衰えない。

一つには親しみを込めて、だろうし、一つには音読みのほうが発音しやすいから。さらに、ほんとは訓読みするのは承知しているが誤読を避けるためにとりあえず音読みしておく、って場合もある。浅野チョークンさんの例もそうだったのかも知れない。日本史の教科書で出てきたむかしの女のひとの名前はまさにそれで、「彰子」はたぶん「あきこ」のはずなのにショーシ、「定子」は「さだこ」のはずなのにテーシ。

加えて、名前をストレートに訓読みすることに抵抗があったのかも知れない。浅野長勲はたしか「ながこと」と読むんだと思うが、「たかが平民」が、新しい明治の世とはいえ殿様の実名をそうそう気軽に口にすることははばかられたろう。大叔母が広島にいたのは昭和になってからだが、そういう雰囲気は変らなかったろう。