異教徒たちの踊り

まるでリズムの悪い絵と日記のブログ。それでも____
楽しい出来事があればいいなぁ、と、言う、ブログ。

新しい仕事

2021年07月16日 | Weblog

少し前から新しい仕事をしてます。
3Dアニメーションなんだけど、映像じゃなくて、ゲームモーション。

3Dアニメーターはもう10年やってます。
それでも仕様が変わると全然わからなくなる。

使う3Dソフトが変わり、映像からゲームモーションへ変わり。

苦痛が始まった。


立ちポーズ1つ作るのにリテイク6回出ました。
単純な2つのポーズを滑らかに繋ぐ方法がわからない。

冗談じゃなく、そんな事態になってました。

少しづつ少しづつ時間をかけて調整して、なんとなくソレっぽくなって、
次の瞬間に破綻して、
賽の河原を味わった。

いつまで経っても思い通りに使える気がしない、ダメだ、逃げたい。


でも上司はビックリするほどいい人で、社長は知り合い。
遅刻しても怒られない。

…逃げれねぇ、逃げる理由が1ミリもねぇ。

 

 

 

そんな感じで3か月。
なんか覚えてきた。
なんか若干楽しくなってきた。

これだからアニメーションはやめらんねぇ。


才能の定義

2021年06月22日 | Weblog

才能という言葉の意味をgoogleで調べると

ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力。

と出ます。



グーグル日本語辞書はグローバル感が凄い。
通常の日本語辞典的には生まれつきの能力的な意味合いが強いかと思います。
そんなわけで起こる事故とかあるわけよ。



「才能」という言葉を気軽に使うと意外とイラっとする人がいます。
気をつけろッ才能警察だッ

つい最近こんな感じで攻撃されました
「彼らは物凄く努力している、努力してない人が 才能って言葉を軽はずみに使うのはおこがましい」
一瞬場が凍ったじゃねぇか。
何があったらそこまで言われなきゃいけないんじゃ。
そもそも

才能は・・・ありまぁーす


そしてそもそも
人によって才能の定義が違いすぎる。
イライラしたついでに才能の定義を考えてたらしっくりした回答が出ました。


才能とは
環境+個性でたまたま偏った能力が
多数に評価された瞬間
それを人は才能って言う

てところに落ち着きました。

 

 

自分の感覚では
眩しすぎる才能を目の前に、努力でどうにかなると思ってる方がおこがましい
何かの才能はそれぞれあるとは思ってるけど、好きに選べるもんじゃねぇ。


2021年06月18日 | Weblog

大人になってから若いときに遊べばよかったな、って後悔することに何の意味もないのだけれど。
ちょくちょく思ってしまう。
20代前半は仕事の記憶しかない。
休日も仕事関連のことしかしてない。
自分を追い込んで追い込んで、イジメ倒してた。

 

タイムスリップして当時の自分に「もっと遊べ、後悔するぞ」
と警告できたとして

当時の自分は決して言い返してこないだろうけれど、心の中でこう思う筈。

「遊びたかったら今のお前が遊べよ」

って
絶対に思われる。

そして休日に遊びに行こうとしない今を考えると、
後悔してる風で、結局はあの時と何も変わってないっていう。


仏教の本での気付き。一本目の矢でしっかり痛がろう。

2021年04月21日 | Weblog

最近仏教の本を読みました。

そこに書かれていた内容で
「2本目の矢に囚われない」という内容がありました。

一本目の矢とは嫌なこと失敗などのメガティブな出来事、そこで起こる感情。
二本目の矢とはそれにいつまでも囚われてクヨクヨする事。

大切なことは二本目の矢にいつまでも囚われてはいけない、という、そんな内容。

 

この話を読んでいて凄い違和感があった。
2本目の矢に囚われてないのに、この辺ですごいストレスがある。

ん・・・あれ?
そうか。


一本目の矢にガッツリ当たっていいんだ、っていうこと。
そんな気付き。

解説文を読んで解釈した限り、嫌なことがあって、落ち込んだり怒ったりしていいらしい。
いつまでも引きずることは駄目なこと、そう書かれていたと思う。

抜けてた部分があった。
一本目の矢が刺さった瞬間に全力で抜いてた。
その矢をドブに投げ捨てて事無きを得た、気になってた。

一本目の矢は受け入れていい。
相手に対して自分に対して、怒ったり哀れんだり、悲しんだりしていいんだってこと。

 

「理想の自分は思ってはいけない」
そうやって湧き上がる醜い感情を否定するから、
破綻してストレス溜まんじゃね?

1本目の矢がどれだけ醜い自分であっても、
他人にしてあげる優しさのような振る舞いで自分を受け入れてあげればいい。

たまにフラッシュバックのように湧き上がる不快感もきっとその辺からきてる。
醜い感情を優しい気持ちで受け入れていけばその不快感もなくなるような


そんな気がする。


ゆとり教育の成功例

2021年03月02日 | Weblog

15年以上前、自分が高校2年生の終わり頃。
「自分が学びたい内容を書け」といった内容のB4紙が唐突に配られました。

「え?いいの?自分の趣味とか書いていいの…はぁはぁ
 授業中に絵とか描きたい、3Dとかやりたい…はぁはぁ…うッぐ、で、でも何がどこまでやれるのかわかんないし…はぁはぁ…
 そ、そうだ、曖昧に書いて好き勝手にやれるような内容に…」

自分が提出した内容は
「デジタルを使った作品作り」キリッ

無事通過。
3年から授業はスタートなのだけれど、2年生の時点でもう…ああ…楽しみで楽しみでやりたくてしょうがない。


昼休み職員室に向かいました。
担当になった美術の先生に伝えたところ。
先生「いいよー、PC持ってってー」
僕「!!!!????」


使われていない教室を割り当ててもらい、PC設置。

そこから毎日が楽しくなりました。
朝昼放課後、使える時間を全て使わせていただきました。

3Dソフトを使い、映像編集ソフトを使い、実写を使い。
母校の写真を撮り、母校の裏庭に巨大な足跡を掘り、
巨大な宇宙人が母校の裏庭に立つ映像を作って、
それを全校生徒の前で発表して皆に笑ってもらいました。


上記の授業は、ゆとり教育が本格化した時期で、それらの楽しい日々を送ることができました。
自分はいわゆる「ゆとり世代」ではありませんが、ギリギリ本格的なゆとり教育を受けています。
ゆとり教育の「総合的な学習の時間」にあたると思います。


あんなに楽しい授業。
学校という環境で初めて主体性を持って前のめりに学習できたあの思い出。
実はゆとり教育から頂いてたんだと最近知ったので書きたくなりました。

当時は、底辺高校の特別の授業だと…遊ばせてもらってると思ってたケドね!!

ちなみに現在、総合的な学習の時間でやっていたようなお仕事をしてます。