さいたま市のアパートで、男性2人と女性1人が死んでいるのが発見されました。この部屋に住んでいた60代の夫婦と30代の長男と見られ、いずれもやせ細っていたことなどから、餓死した可能性があるとのこと。ガスと電気は止められ、水道だけは使える状態にあり、遺体のそばには水の入ったペットボトルやコップが置かれていたそうです。
室内から見つかった現金は、1円玉が数枚だけで、食べ物はなく、水を飲んで生活していたとみられています。アパートの所有者の話だと、家賃の滞納は2年前ほど前から始まり、その頃に夫が腰を痛め、働けなくなったとのこと。
水道については、滞納のため水道局の職員が訪れた時に、妻とみられる女性が出てきて「夫が入院している」と説明したため、その事情に配慮し給水を止めなかったとのことです。
3人は住民票がなく、生活保護の申請もしていなかったようです。何らかの事情があったものと思われますが、死に至るまでの間に救える道はなかったのだろうかと、考えてしまいます。
お金も食べる物もなく、水だけを飲みながら、布団に体を横たえ 死期を待ち続ける 痛々しい姿が目に浮かんできます。30代の長男には、働く道も閉ざされていたのでしょうか。近所の方に借金をお願いした妻には、生活保護という道を選ぶ選択肢はなかったのでしょうか。生活保護は、住民票のあるなしにかかわらず申請が可能だということなのですが……。腰を痛めた夫は、どんな思いで布団に横たわっていたのでしょうか。
生きることは、死を選ぶことより難しいことだったのでしょうか。
以前、母親が育児を放棄し幼い姉妹が餓死するという悲しい出来事がありました。亡くなった子どもたちは、空腹のため食べることのできないものまで口に入れて亡くなっていたとのこと。最後まで生きようと必死だった子どもたちの姿に、二人の閉ざされた未来に、悲しみと憤りを感じたことを思い出しました。
生きたくても、大人の手でその未来を閉ざされてしまった子どもたちもいます。生きることを選ぶことさえできなかった子どもたちです。
どんな事情があっても、与えられた命を粗末にすることは許されないことなのではないでしょうか。死は、選ぶものではなく、与えられた命を全うすることで迎えるものです。
命は、何よりも尊く重いものです。三人の尊い命が失われたことをとても悲しく残念に思います。
家賃の滞納があった時点で、ガスや電気代の未納があった時点で、近所の方が借金を依頼された時点で、水道局の職員が訪れた時点で、周りの人が手をさしのべることはできなかったのでしょうか。苦しい事情や辛い思いに耳を傾けることは、できなかったのでしょうか。
もし、自分が身近にいたら何ができたのだろうかと考えてしまいます。
三人のご冥福を心から祈りたいと思います。
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