あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

詩「夕焼け」吉野弘作 を思い出しながら

2015-06-30 21:59:25 | 日記
ボランティアを通して いろんな人のいろんな話を聞いていると、いつもたどり着くのが 「夕焼け」の詩です。

中でも 頭に浮かんでくるのが 終末の一節です。

~ やさしい心の持主は
  いつでもどこでも
  われにもあらず受難者となる。
  何故って
  やさしい心の持主は
  他人のつらさを自分のつらさのように
  感じるから。
  やさしい心に責められながら
  娘はどこまでゆけるだろう。
  下唇を噛んで
  つらい気持で
  美しい夕焼けも見ないで。


満員電車の中で、娘は 二度まで としよりに席を譲りますが、三度目は席を立たず 娘の前に押し出されてきた 
としよりを前にし うつむいて/ 下唇をキュッと噛んで/ 身体をこわばらせたまま/ 座り続けます。
娘は仕事帰りなのかもしれません。自らも疲れ果てているのでしょう。
やさしさを 二度までは行動で示し、三度目は 耐えることで示した娘。

そのどちらも 娘のやさしさと とらえるところに、作者である吉野さんの深い人間愛を感じます。

目に見えるもの以上に 見えないところに込められた やさしさ。
他人のつらさを自分のつらさのように受け止めてしまうやさしさが、さらに自分を責めてしまうことの矛盾。

つらい思いを抱えている人は、やさしさ故に 自分を責め、やさしさ故に すべての重荷を背負おうとしてしまうのでしょうか。
背負うには あまりにも 痛々しいほど 傷ついた背中であるはずなのに、どこまで行こうとするのでしょうか。

その痛みに耐えながら、この詩に 登場した娘は、やがては やさしい妻となり、やさしい母となっていくのだと 想います。
そうして 夕焼けの美しさも心から感じ取っていくことと思います。

やさしい心の持主は、受難者としての道を歩みながら より人間的な人間としての道を歩んでいくことになるのだと思います。

どこまで耐えて どこまでゆくのか
「それでも人生にイエスと言う」 フランクルが語るように、自分と自分の人生を肯定し 受け入れ
美しい夕焼けを心ゆくまで見つめる日が訪れることを 心から願います。
 



 
コメント
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