青い空とわたし

青い空の日  白い雲の帆船をみていると

どこかへ どこまでも Harmonyと

走っていきたくなります

7日・いよいよ興福寺・東大寺・奈良公園

2013年11月30日 23時28分10秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月22日(金)

私の大和路めぐりも終盤にきた。今日はいよいよ奈良市内の中心を巡る。

ここではやはり市内の有料駐車場に停めざるを得ない。
1日終日で500円ぽっきりのところを調べてあるので、そこへまず出かけた。



▲ 猿沢池のすぐ近くの引っ込んだ所の駐車場。平日は午前8時以降入場なら500円だ。8時4分に入ってちょうどよかった。




▲ ここから興福寺は歩いてすぐだ。五重塔が見えてきた。




▲ ああ、奈良のシンボル興福寺五重塔だ。 興福寺は藤原氏の氏寺。




▲ 興福寺・東金堂(左)と南円堂(右)。





▲ 興福寺の国宝館に入る。
国宝仏像彫刻の実に17%はこの興福寺が所有するとか。さすが藤原氏だ。しかし、中でも一番有名なのは次のこれ↓だな。断然。


 出典:Google検索画像

▲ 天平仏のスーパースター、阿修羅立像だ。
憂いを帯びた三つの顔、スラリとした6本の腕をもつ異形ながら、絶妙なバランスを保って立つ。この顔も子細に見ると、正面は眉が吊り上り苦渋が強調されるが、右横の顔はライトで頬の紅が強調されて笑みをたたえているように見えた。




▲ 興福寺のあと、奈良公園内を博物館の方へ向かって歩く。




▲ 奈良国立博物館(なら仏像館)。とにかく多種多様な仏像があった。印象なし。




▲ いい写真になるよキミタチ。 東大寺への道(参道?)は、多くの人で賑わっている。




▲ 東大寺への玄関口、南大門にきた。




▲ 南大門の内側左右には、8mの金剛力士像が二体にらみをきかしている。運慶が快慶ら一門を率いて69日で完成させたと伝わる。




▲ 南大門をくぐるとみえてくる、大仏殿だ。 多くのひとが大仏殿を背景に写真を撮っている。幅57m、高さ48m。




▲ 奈良の大仏様。聖武天皇の勅願で造立された本尊の廬舎那仏坐像。高さ約15m。





▲ STOP! と私におっしゃる大仏さん。




▲ 横には、恐そうな方も立っている。


どうして柱の穴をくぐるの? 無病息災を願って、いや単におもしろいから。



▲ この人はスリムだから、するすると抜けた。




▲ 穴の大きさはこんなもの。 中には引っ張り出される人も。




▲ 大仏さんの後ろの方も、分厚いね。





▲ もう一度、右横から見ておこう。

大仏殿を終えて、左横に位置する戒壇堂へ向かう。




▲ 鑑真和上が日本で初めて戒を授けたことから始まる戒壇堂。 堂内(右)には有名な四天王像が安置されている。


出典:Google検索画像

▲ なかでも有名なのはこの広目天像
鬼を踏みつけたまま、鋭い視線で仏敵を凝視する。眉を寄せ、遠くを見つめるような表情は、迫力に満ち満ちている。男の中の男だ。 えっ?阿修羅像の方がイイ? お好きなように。


戒壇堂から大仏殿の裏を廻って東の山の方へ行くと、二月堂だ。



▲ ここは裏道で人通りの少ない階段を上がって行く。




▲ すると二月堂へ上がる長~い階段が出てきた。




▲ 階段の右上には二月堂の張り出し舞台が見える。




▲ 舞台。京都の清水寺みたいなものだ。




▲ ここからは、奈良市街が見渡せる。




▲ 右横から降りて、二月堂を見上げる。 清水寺の方が高さ的には迫力があったなあ。




▲ 東大寺法華堂(三月堂)。本尊は不空羂索観音。薄暗い御堂の中で、観音様の金箔が残るところだけ光っていた。

そのまま南に下りると、若草山のふもとに来る。




▲ 若草山。奈良市内の右端に位置する標高342mのなだらかな山。別名、三笠山。ここから歩いて山頂まで往復1時間らしい。

更に若草山のふもとに沿って歩くと、風情ある茅葺屋根の茶屋が。




▲ 水谷茶屋。手持ちの奈良観光パンフの表紙にも使われていた所だ。
紅葉があたり一面降りかかってきれいだ。




▲ 山菜そばを注文した。寒くないから外で座って食べよう。
昼食にといってももう2時。空いていてよかった。




▲ 「ぜんざい」も食べたかったな。


奈良公園の東南端の春日大社まで着た。



▲ 大きな大社なのだが、まず門をくぐるのに入場料、そして宝物殿料がチャージされる。
あまりこういう紅色を派手に塗ったところは・・好きでないのです。パス。

奈良公園の東南端から、林の中を通っていくと高畑周辺に出る。その林の小径は数本あるようだ。




▲ 「ささやきの小径」と名付けられているところを下っていった。




▲ 志賀直哉が自ら設計し昭和初期の数年間を過ごした家に、突き当たった。




▲ このあたりも山の辺の道の一端になるようだ。 私は新薬師寺へ足を伸ばしてみる。




▲ 新薬師寺。薬師寺だから本尊は当然、薬師如来。しかしこの古刹で有名なのは本尊を、取り囲んで護る12体の神将だ。


出典:Google検索画像

▲ 十二神将立像の中でも、一番有名なのは正面右端のこの伐折羅(バザラ)だ。
何を怒っているのか、威嚇してるのか、神の毛が総立ちなのだ。おーこわ。これもど迫力だ。


新薬師寺から西に向きを変えて高畑を歩いていくと、頭塔(ずとう)と呼ばれる奇妙な所がある。




▲ 頭塔の入り口。普段は鍵がかかっているようだ。近くの管理者さんの家に他の方とともに行って、開けてもらった。




▲ 高さ約10mで7段のピラミッド状になっており、ところどころに石仏彫版がはめ込まれている。奈良時代のもの。僧玄の頭を埋めたという由来から頭塔とよばれるようになったらしい。

ここからさらに西へ歩いて、奈良ホテルの方へ北上する。



▲ 奈良ホテル前の荒池の側を通ると、池の向こうに朝見た興福寺・五重塔のシルエットが見えた。

今日はここまで。


500円駐車場から、またG湯の駐車場に戻る。



▲ 今日の夕食は、シーザーサラダと茄子の肉炒めにした。


明日は、いよいよ奈良路の最終日だ。

ではまたあした。おやすみなさい。




6日・思いを馳せる平城宮跡

2013年11月29日 22時13分41秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月21日(木)

G湯での朝。今日はネットで予報を見ても一日中、本当に晴れだ。 ヨシ。

奈良市中心から少し西の平城宮跡(へいじょうきゅうせき)が今日のメインだ。
とにかくこの駐車場は出発だ。



十数分で平城宮跡の朱雀門(すざくもん)の広大な駐車場に到着だ。ほとんど車がまだ停まっていない。それもそのはず8時30分開場で、ほとんど開場と同時だった。 まず、朝食だ。

向こうに見える↑のが朱雀門。

一昨日、飛鳥に近い橿原の藤原宮跡を見た。藤原宮から奈良盆地の北端に近いこの平城宮に遷都されたのが710年。784年に長岡京に都が移るまでの75年間を奈良時代という。奈良時代とは平城時代だ。


朝食も終わった。朱雀門まで歩いていこう。



▲ 朱雀門。1998年に復元された。平城宮の周りは築地塀(ついじべい)で囲まれ、12の門があった。朱雀門は正門。




▲ 朱雀門前の市中の想像図。大道芸人がパフォーマンスをしているのを、人々が見まもる。
この朱雀門から南へ朱雀大路が羅城門(らじょうもん)まで3.7km続き、それが平城京を成していた。




▲ 朱雀門の中に入り、前を見るとはるか向こうに(第一次)大極殿が見える。
実はすぐ手前を近鉄電車が横切っているのだが、これはいずれ迂回ないしは地下化されるらしい。


平城宮を散策する前に、朱雀門の外にある平城宮跡資料館へ行ってみる。




▲ 資料館の前には、遣唐使船の復元したものがある。せんとくんも。
平城宮、平城京の成り立ちをてっとりばやくお勉強できる。




▲ 資料館のあと駐車場に戻りチャリを再び出した。なんせここは広大だから、歩いて回ると時間がかかる。 





▲ さあ、周ろうぜ。目指すは向こうの大極殿(だいごくでん)だ。真っ直ぐには走れないから左回りで行く。




▲ 実際は向こうの大極殿だけ復元されている。あとは、ごらんのとおり野っぱら。1300年前の宮殿跡だから、当然だね。細かいことを言えば、この野っぱらの前は、ここは見渡す限りの「水田」だったのだ。

えっちら、おっちら漕いで着いたよ。



▲ 大極殿。2010年4月に9年の歳月をかけて復元。710年の遷都いらい1300年たっていた。




▲ 大極殿を横から見る。
大極殿は、宮殿の中で最も重要な建物で、天皇の隣席で重要な国家儀式が前の広場にて執り行われた。



▲ 大極殿前の国家儀式の想像図。


大極殿の中に入ってみよう。



▲ 即位の儀式や元日の朝賀(ちょうが)には天皇の玉座(ぎょくざ)である高御座(たかみくら)が置かれた。




▲ 玉座。あそこに座られたのだ。 ギョイッ。

大極殿から南を眺める。



▲ むこうに先ほどの朱雀門が見える。




▲ 大極殿の全景。


ここまで平城宮跡を見たあと、私はチャリオと宮跡を出て、ある所へ向かった。




▲ 近鉄百貨店・奈良近鉄店だ。近鉄大和西大寺駅前にあるのだが、場所がわからなくて聞きまわったよ。

向かったのはデパ地下1階。 あったよ、ヒロさん。



▲ 551蓬莱。ヒロさんが、関東が崎陽軒のシューマイなら関西は蓬莱の肉まんだと(スミマセン正しくは蓬莱の豚まんですゥ)、ブログで激賞する店だ。

セットになっていた豚まん2個320エン焼き餃子10個260エンを買い求めた。
クルマに持ち帰って夜食べてもいいのだが、せっかくの出来立てホカホカだ。
では、私のお得意のデパ屋上でのランチとしよう。



▲ お、ここの屋上は昔なつかしい遊園地になっている。ベンチを一人で占拠して、今日のランチを広げる。(今日はワンコインで済ませられなかったなあ・笑)




▲ 豚まん(左)。うーん??。開けてみると刻み菜が見えたりでサクサク感がウリかなと思ったけれど、そういう食感でもない。じゃ味? 肉の量?。??。特徴が判らない。白い皮が少し厚めだと思った。
餃子(右)。まずくはないけど、普通の餃子。それ以上でもない。

ヒロさん、残念ながら小生には、まずくはないけど・・という感想でした。

今日の昼食はこれでおしまい。(全部食べてしまった。偏ってない?)


大和西大寺駅の裏が、昨日行けなかった西大寺(さいだいじ)だ。そこへ走っていく。



▲ 西大寺本堂。東大寺に対する西の大寺として765年に創建されたもの。
右の階段は、今はなき東塔の基壇と礎石だ。もはや、規模では東大寺に比べることもできない。




▲ 西大寺付属の幼稚園ではないか。さっきから園児の声がしていた。先生に引率されて帰る時は、このお堂の前で「今日も御護りありがとうございます」とか唱えて、帰ったよ。 重要なのは規模じゃないんだよな。



西大寺のあとは、平城宮跡に戻って、宮跡の北側の道を東に一直線に走って宮跡の北東端の内裏(だいり)遺構の有る所へ来た。




▲ 内裏(左)。大極殿はあくまで儀式の所。居住した場所ではない。天皇の普段のくらしは、大極殿の東側の内裏で行われたとか。

役所(右)も別に省別に建物が建てられていたそうだ。




▲ 役所跡が一部復元されていて、中には机・棚などが設置してある。韓流時代劇を見ているようだ。



遺構を見たあと、平城宮の東に隣接する二つの古寺へ向かった。



▲ 法華寺(ほっけじ)。聖武天皇妃の光明皇后が総国分尼寺として創建。




▲ 法華寺本堂。本尊の十一面観音像は光明皇后がモデルといわれる、ふくよかな像だが開示の時期ではなく見れなかった。



▲ 法華寺敷地内にある「から風呂」。ここで光明皇后は千人の垢を流されたという由縁を伝える。さらに、らい病患者と皇后のエピソードは有名。

病は、生きているあいだの我々の最大の苦しみ。病に救済の手を差し伸べてくれる存在に、我々はいつの時代も無条件に光を見る。


次に、すぐ隣の古寺へチャリオを向けた。



▲ 海龍王寺(かいりゅうおうじ) 。これも光明皇后が玄を開基として創建したと伝わる。



▲ 明治時代以降、無住が続き廃寺同然になっていた。1953年に再建された。
門の中の壁は今も一部がくずれ、八重葎(やえむぐら)の蔓がはっている。
奇妙なことに、この廃寺イメージがこの古寺の大きな特徴になっているようだ。




▲ 土壁とこんもりした茂みが、地中海のパティオ風の雰囲気を出している。(お寺が)




▲ 境内に入るにはまた小さな門がある。




▲ 小さな西金堂(さいこんどう)。


ひっそりと、こじんまりしたお寺だった。

海龍王寺から北へ少しいくと、ウワナベ古墳、コナベ古墳があった。




▲ コナベ古墳。満々と水をたたえている。陵墓参考地なのでカタカナ名。このあたりは古墳が多いが、皇室の墓と宮内庁が認めたのが陵墓。陵墓であっても被葬者を特定できないのを陵墓参考地とよぶ。


さあ、予定していたところはほぼ回ったかな。
もう4時だ。日没になる。宮跡の駐車場へ戻らなくては、あそこは5時閉門だ。


▼ 朱雀門が夕日に照らされている・・





▼ Harmony が私を待っている。 おまたせ。





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▼ G湯で。三色そば(左)。それに、今日の昼は豚まんと餃子だけだったから、野菜も摂らなくては。豆腐サラダ(右)。




きょうも、よくチャリオと回った。また腕が少し痛いな。
でもチャリオ、お前のせいではないから。







5日・雨の薬師寺と唐招提寺

2013年11月27日 21時23分03秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月20日(水)

G湯での朝。ご覧↓のとおり晴れていた。



今日は、西の京とよばれる薬師寺、唐招提寺、西大寺のあたりを自転車で回る当初予定だった。
しかし、G湯前の往来の激しい国道24号を見てると、自転車はおじけづいて止めた。

歩いていこう! 軽いほうがいいや、ということで折り畳み傘もクルマの中に置いて出発。




▲ 地図上では、G湯から真っ直ぐに西へ行けば唐招提寺に着くのだ。歩き始めるとすぐ水田・畑の広がる風景になった(左)。しまったな、これなら自転車の方が楽だ・・。20分ほど歩くと、南北に流れる秋篠川を渡る所まできた(右)。ここから南へ少し下れば薬師寺だ。

薬師寺に到着。北の與楽門から入る。雨が降ってきた。あちゃー。今日は帽子も被っていないから、もろ雨に打たれる。回廊で雨宿りしたりしていたが、止みそうにないので周り始める。



▲ 金堂。 薬師寺は薬師の名が示すとおり、天武天皇が皇后の病気回復を願って建立を発願した(680年)のが始まり。その後平城遷都(710年)に伴い飛鳥よりこの地に移された。金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並んでいた。なかでも階と階のあいだに装飾的な裳階(もこし)を施したこの金堂や塔の美しさは、「龍宮造り」と呼ばれたとか。

ま、確かに浦島太郎の竜宮城みたいではある(笑)。

まず、金堂に入ってご本尊の薬師三尊像を拝しさせていただこう。この薬師三尊像は、古代金銅仏像の最高傑作と称される国宝だ。



▲ 外からのスナップ。


 出典:Google検索画像

▲ 薬師如来を中央に、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩だ(左)。

私の目を捉えたのは、両脇侍(わきじ)の日光・月光菩薩。ともに、中央の薬師如来の方向へ腰をひねって立つ。そのひねり方がなんとも動的で・・。それにインドは暑いからだろうか、なぜ菩薩様はこうお召しを付けてられないのだろうか。黒光りするお肌も美しいままに・・。 

と、私は増々煩悩に捕われるばかりだった(笑)。

他にも薬師三尊はあった。内へひねったポーズもほぼ同じ。しかし、薬師寺の三尊が最も写実美に溢れている。これは見る立場は色々あれども、最高傑作だ。





▲ 西塔。これは焼失したものを、昭和56年に453年ぶりに復興したもの。


本当に見たいのは、やはり”凍れる音楽”という愛称を持つ東塔だ。東塔は薬師寺当初から、唯一そのまま残る建物だからだ。




▲ しかし東塔は現在修復中で、おおいがすっぽり被さり、中はまったくわからない。

そのかわりか、現在は東塔の塔頂の相輪と水煙が公開展示されていた。



▲ 「東塔水煙降臨展」9.16~11.30



▲ 左が相輪。相輪の上に被せられるのが水煙(右)。




▲ 水煙は美術の教科書等に出てくる。透かし彫りの飛天たちが舞い飛ぶ姿を描いている。




▲ 飛天。 飛雲の中を、笛を奏で、花をまき、衣をひるがえして舞う飛天が24人が、透かし彫りになっている。 いわば日本版エンジェルだ。


水煙を鑑賞したあと、與楽門を出て近くの近鉄西の京駅前に行った。傘を売っている店がないか見つけにだ。売っている喫茶店があったが、売り切れ。そうだろうな。突然の雨だもんなあ。

しょうがなく、濡れるままに少し北の玄奘三蔵院伽藍へ歩いていった。



▲ 玄奘三蔵院伽藍は新しい。薬師寺は法相宗。法相宗の始祖が西遊記で有名な玄奘三蔵。その三蔵を祀るところだ。中には、平山郁夫画伯がシルクロードのような壁画を描いてあった。


雨の中、唐招提寺へ向かう途中、食事処があった。



▲ 蕎麦切り よしむら。 




▲ 自家挽き国産そばに、色んな野菜が入ったかき揚げと豆腐。さすが関西の味、どれも丁寧な作りで美味だった。 (寒い外から中に入ったため、カメラレンズが曇って写真がボケている)

この店で傘500エンを売っていたので買った。
これで安心と思って外に出ると、雨は止んでいた。


更に北へ歩くと突き当たりが唐招提寺だった。



▲ 突き当たりを右に曲がると、松林に囲まれた唐招提寺南大門の前になった。




▲ 門をくぐると砂利道の先に、大きく構えているのが金堂だ。井上靖が「天平の甍(いらか)」と呼んだ、大きく豊かに広がりながら簡素な美しさをもつ屋根が特徴だ。




▲ 正面に並ぶ八本のギリシャ風エンタシス列柱の吹き放ちも、その簡素な風情が魅力だ。
さまざまにヒビの入った太いエンタシスに触れると、陽を浴びた柱からぬくもりが伝わった。




▲ 今度は陽が出てきた。天平の甍を見上げる。


唐招提寺は、中国からの鑑真和上の開いたお寺(759年)。

金堂の裏の方には鑑真和上の御影堂がある。





▲ 御影堂のあたりの小道は、紅葉できれいだった。




▲ 陽が出て、明るく映える金堂をもう一度眺めながら、唐招提寺をあとにした。


ここからさらに北にある垂仁天皇陵まで歩いていこう。




▲ 右横を近鉄電車が走っていく、野っぱらみたいなところを歩く。




▲ 第11代垂仁天皇の陵とされる巨大前方後円噴が、広い濠に浮かんでいた。


まだ早いが、今日は頭も体も濡れたから、これで引き揚げよう。

残りは、また明日回ろう。


G湯Pで連泊となった。





4日・斑鳩の里を散策

2013年11月23日 15時58分51秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月19日(火)

朝、天理のKランドから西方の生駒郡斑鳩町へ移動してきた。天気は今日も雨模様。
ある運動施設の無料駐車場に停める。

斑鳩(いかるが)はその昔、聖徳太子が斑鳩宮を601年に造営し移り住んだ由緒ある所だ。
また太子は斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)を建立したと考えられている。
今日はここを散策する計画だ。


無料駐車場からは、当初は自転車で回ろうと計画していたが、手の負傷もあるし雨模様では止めたほうがよい。自分の足で歩きまわろう、ということで法隆寺へ向けて出発。




▲ このあたりはかって法隆寺の大工集団が住んでいた西里集落。白壁の土蔵や築地塀が残る細い道をたどっていくと法隆寺の西大門へ着く。南大門がいわば正門だから、裏口から法隆寺に入るようなものだ(笑)。




▲ 西大門をくぐると、右手には法隆寺を囲む白い土塀がずっと奥の、夢殿に至るまで続いているのが見える。少し歩むと左手に出てきた。あの有名な五重塔が、松林に囲まれて出てきた。塔はいくらでも見てきたが、やはり雰囲気というか格調が明らかに違う。端正だ。





▲ 雨で白くけむる、日本最古の五重塔。他の塔と違って朱色が塗ってない、というか剥げたのか、白くなった木のままだ。最下部の格子などは古くなって板目がはずれそうな気すらしてくる・・。
四方の入り口からは他の塔と違って、塔の内部が覗ける。内陣とよばれる内部には、釈迦の生涯の塑像パネルがはめ込んであるのだ。





▲ そして法隆寺の中央に位置する金堂。中には聖徳太子の冥福を祈って推古天皇に造られた(623年)釈迦三尊像(国宝)↓が安置されていた。



出典:google検索画像

▲ ご本尊は、面長な顔にほのかな笑みを浮かべている。アルカイックスマイルだ。古代ギリシャのアルカイク期(紀元前700~500)には笑みを浮かべている彫像が多いことからきている。生命観と幸福感を演出するためのものだと(Wiki)。飛鳥仏によくみられるスマイルだ。
ただでも気難しいと思われる(笑)私は渋面ではなくて、アルカイックスマイルを常としたいものだ。




▲ 中門回廊(左)は五重塔と金堂を壮麗に包み込んでいる。回廊を支える柱は下部がわずかに絞られたエンタシス状だ(右)。




▲ 回廊から金堂と五重塔をもう一度眺めて、西院伽藍とよばれるこの法隆寺の中心部を出よう。





▲ 西院伽藍を出ると左手に鏡池があり、池の側には正岡子規の句碑が立っていた。


いよいよ、この大和路の旅で最も見たかった仏像にお会いに行くとしよう。

百済観音像だ。どのように造られたのか等の出自は不明なミステリアスな美仏。
長らく安置する場所がなかったが、平成10年秋に百済観音堂が造られた。



▲ 大宝蔵院。この建物の奥に特別に百済観音堂がある。その美仏は大きなガラスケースの中に納められ、我々は前・左右横から拝することができる。


  出典:Google検索画像

▲ 高さ210.9cm。制作年代は飛鳥時代、7世紀前半~中葉とされる。

後背の焔(ほのお)とともに、すらりと上に伸び上るような体躯。少し前屈した両膝は上部の体躯を後ろに反らせて、細身の体躯の優美さをより強調する。8頭身の・・とよく描写されるが、実際は10頭身もありそうで(笑)、ありえないプロポーションだ。
親指と小指だけでつまむように小瓶を持つしぐさも繊細で美しい。

そしてお顔は、先の釈迦三尊と同じくやや下ぶくれで、童話的面影(おもかげ)を残してアルカイックスマイルをたたえる・・。ああすごいな~。

ただ、正面からのこのかすかな悦(よろこ)びを含んだ女性的な微笑も、右横に回って眺めると、光の加減からか、太い眉が黒く前面に突出しているように見え、元の色の剥奪によって黒くなった頬はお顔全体の浅黒さとして映り、男性の厳しさを含んだ顔に変貌する・・ように私には見えた。
その時、観音様に自分の心が覗(のぞ)かれたようで身構える。
「深淵(しんえん)を長く窺(うかが)えば、深淵もまた汝(なんじ)を窺うであろう」(ニーチェ)みたいな・・・


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丹念にみているうちに、午後1時を過ぎた。お腹も空いた食事にしよう。



▲ 南大門を出て、法隆寺門前の前に(左)。門前通りは幅が広くずっと向こうまで続く。
てっとり早く、右側の一番手前にあった「松本屋」というお店に入った。




▲ 「季節限定」と大きくうたっていた「茶粥(ちゃがゆ)定食」を頼んだ。
茶粥とは米を茶を入れて炊いた粥。大和では1000年以上前からの伝統食のようだ。
この粥は粘り気がなく、さらさら。淡泊。はっきりいって別にうまいもん、ではない。
他に豆腐がついていた。今晩は肉を食べようと決意した。





▲ 食事のあと、壁ぞいに東院伽藍の方へ歩いて行った。向こうの突き当たりに夢殿の建物が見える。




▲ 夢殿(ゆめどの)。 金堂、五重塔が飛鳥時代のものに対して夢殿は、行信僧都(ぎょうしんそうず)という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の739年に建てたもの。
聖徳太子が図柄の旧一万円札は、透かしてみると真ん中にこの夢殿が現れたのだが・・(もう知らないよね・笑)

ここには聖徳太子等身の救世観音(くせかんのん)を安置する。この救世観音も太目の唇で、謎めいた微笑アルカイックスマイルで有名だが、薄暗い御堂でよく見えず印象無く、画像省略。





▲ 夢殿の裏には、中宮寺↑がある。もともとは聖徳太子の母が創建された尼寺。写真の本堂は昭和43年に新たに造られたもの。この中に本尊、菩薩半跏像が安置されていた。




▲ あまりにも有名な中宮寺・半跏思惟像(はんかしゆいぞう)(左)。足を組んで台座に腰掛け、右手を頬にあて思索する半跏思惟の美しい姿だ。この優美な微笑は、アルカイックスマイルの典型。中宮寺のパンフによると、エジプトのスフインクス、レオナルドダビンチのモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」と呼ばれるそうだ。(スフィンクスは笑ってたかな?)

何を思惟しているか? 「人間の救いをいかにせん」だ。

大和路に出発する前に読んできた、亀井勝一郎著「大和古寺風物誌」で、亀井氏はロダンの「考える人」と比較している。

それによると、ともに現生の地獄について考えているわけだが、「考える人」は論理を追及する厳しさが感じられ、精密な分析力や体系を組織する力が、あの一つ一つの筋肉に宿っているようだ。しかし半跏思惟像にはそういう面影はない。かといって、眼前の地獄をしかと見つめずに夢想にふけっているわけではない。この菩薩が見るということは、捨身(しゃしん)を意味すると。簡単に言ってしまえば身も心も仏陀に委ねた、法悦の至境にあるということだろう。仏陀の哲学をはじめて受け取った飛鳥人は、直(す)ぐな心でこの教えに陶酔したのであろうと。

ふうーむ。理詰めの思索と捨身の法悦、どちらがいいのかまた渋面で考えてしまうSoraだ。


法隆寺・中宮寺を後にして、斑鳩の里を北に歩いていくことにした。雨は止んでいた。
ため池を二つ、墓場を一つ過ぎて、まばらな人家と田畑の間を歩いていった。




▲ 柿畑の向こうに、法輪寺の三重塔が見えてきた。法輪寺は聖徳太子の子山背大兄王子が太子の病気恢復を願って創建したと伝わる。ここは中に入らなかった。





▲ 法輪寺を東に折れて真っ直ぐに畑の中を行くと、今度は法起寺に到着。
法起寺も聖徳太子ゆかりの寺。706年に建立された三重塔は現存する日本最古の三重塔で国宝。世界遺産としても登録されている。

さあこれで、斑鳩の里の聖徳太子ゆかりの古寺・古仏めぐりは無事終わった。
また、南に向かって歩いて戻る。

朝出だしに通り過ぎた西里集落の近くには藤ノ木古墳がある。そこに寄ってみる。



▲ 6世紀後半のものとみられる藤ノ木古墳。昭和60年代に行われた発掘調査で、豪華な金銅製馬具や冠などの副葬品や2体の人骨が出土し、話題を呼んだ所だ。

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公共施設の駐車場に戻り、今日のねぐらへ向けて出発だ。
今度は、奈良市の中心に近いところだ。




▲ ここはスーパー銭湯と食品スーパーが同じ敷地内にあり生活の拠点とするには便利だ(笑)。




▲ 入浴のあとの食事は、そう、肉にした。 ジューシー豚カツ定食830エンと豆腐サラダ350エン。
風呂上りは美味しいよ。

今日はよく歩いた。 お疲れさん。





3日・大和三山と藤原宮跡にたたずむ

2013年11月21日 19時12分41秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月18日(月)

今日の朝も雨模様。
昨晩は、冷蔵庫の保冷パックをベッド横において手首を冷やしながら寝た。
起きて、甘樫丘のふもとのコンビニへ歩いて行き、消毒液、バンドエイドと熱冷却シートを買ってきた。 ま、こういうのは車内に常備しておいた方が良かったのだろう。

明日香を出発する前に、甘樫丘(あまかしのおか)の展望台に行ってこよう。明日香が見渡せるはずだ。



▲ 甘樫丘は標高148mの小高い丘。飛鳥歴史公園としてよく整備されている。




▲ 展望台が見えてきた。明日香地区だけでなく奈良盆地が見渡せる、絶好のビュースポットだった。
天気がいまひとつだが・・。




▲ 左手には畝傍山(うねびやま)199m。少しいびつな形をしているかな。ふもとには橿原神宮がある。




▲ 真ん中には、耳成山(みみなしやま)140m。標高は低いが円錐状の美しい形をしているのですぐ分かる。事前の計画では、大和三山、全部を登るつもりだったが、膝の痛みもまだ少し残るので、この山だけ登ることにしよう。




▲ 耳成山の左手には、こんもりと横に拡がる香久山(かぐやま)152mがある。昨日はこの麓の「香久山観光トイレ」駐車場に車中泊したから、もう登るのはよしとしよう。

この香久山は天香久山(あめのかぐやま)といわれ大和三山の中でも最も神聖な山とされたとか。

実際万葉集にも、香久山を歌った有名な歌が多い。

大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ
天の香久山登りたち 国見をすれば
国原は煙立つ 海原は鴎(かまめ)立ち立つ
うまし国ぞ蜻蛉(あきづしま) 大和の国は
 欽明天皇


(大和には群がる山々があるけれども、中でも精霊のとりわけ神々しくよりつく
 天の香久山、この山の頂に出て立って国見をすると、
 国原にはけむりが盛んに立ち上っている。海原にはかもめが盛んに飛び立っている。
 ああよい国だ。蜻蛉(あきづしま)大和の国は。)

「うまし国ぞあきづしま 大和の国は」の大和賛美のフレーズは、観光パンフレットによく引用される。 やはり、私も香久山に登って「国見(くにみ)」の気分を味わうべきかな・・

次の2首は教科書でもみかけたのでは。

春には、

ひさかたの天の香久山 この夕(ゆふへ)
霞(かすみ)たなびく 春立つらしも
  柿本人麻呂

夏には、

春過ぎて夏来るらし白袴(しろたえ)の
衣干したり天の香久山


(今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの香久山に真っ白い衣が
 干してあるのをみると)

非常に絵画的な歌でいいねー。


正面の大和三山に囲まれたところに、今日訪れる藤原京跡がある。

更に右手の東側には、昨日自転車で駆け回った飛鳥だった。




▲ 飛鳥寺も小さく見える。



▲ 飛鳥寺をズームすると、こう。


さあ、甘樫丘からの国見は終わった。麓に下りよう。 明日香を出発だ。


まず、メガネのパリミキ店に寄ろう。
実は昨日転んだ時、かけていたメガネもふっとんで、ヤバイと思ったが、幸いレンズは割れなかった。しかし、シャフトが曲がってしまったのだ。そのあとは、もう一つの自動車運転用のメガネをしているが、この普段用メガネを直したい。



▲ ネットで近隣の店舗を検索。この↑橿原ロイヤルホームセンター内の店舗へ来た。
直ぐ直していただけいて、無料サービスだった。パリミキは安値販売はしないが、どこの店舗でもこういう簡単な修理は無料でしてくれるようだ。札幌でも以前直してもらったことがある。
ありがとうございました。助かりました。


さあ、耳成山へ行こう。
もう一度見てみようこの山↓だ。



▲ なぜ耳なし山というか? もとはもっと高い山だったが盆地が沈下、山の頭部が地上に残されて単純な円錐形が残った。人の顔にたとえれば耳がないような山なので、耳無山→耳成山と呼ばれるようになったらしい。

一昨日の夜、この駐車場にアプローチしたがみつからなかった。今回もよくわからないまま手近に目に入ったここに入れた。




▲ 私営なのか公営なのか表示が全くない。しかし駐輪場があるから公営だろうと勝手に判断。
後ろは耳成山。




▲ 登山道を探して少しくるくる回ったが、ここから登った(左)。登山口に入ったあとも、らせん状に登山道ができており勾配は楽だ。 15分ど歩いて頂上に到着(右)。



▲ 見晴はまったくない。三角点が一応あった。耳成山139.6mだった。


耳成山から、南へ少し下ったところにある藤原宮跡へ移動した。




▲ 694年持統天皇の時に、都が飛鳥からこの地に遷都され、平城京遷都までの16年3代の都だった藤原京の中枢部がこの地。今は、ご覧のとおりだだっぴろい野原だ。



▲ 1990年代に発掘され、中国の都城制にならって造られた日本初の本格的な都だった。



▲ 内裏後には、このように円柱が置かれている。



▲ 今もなお発掘が続けられている。 藤原宮跡の資料館を見たかったが、月曜日は残念ながら休館日だった。

となると、藤原宮をこの地で想像するにも限界があり、広いなあ・・という思いだけでここを後にした。


今日のねぐらは、初日の15日と同じく天理の健康ランドへ向かった。



▲ 前回はなでしこ御膳。今晩は「シニア向け」とうたっていた幸楽御膳1050エン とした。
これも、色々ついていて私好みで満足、満足。

明日は斑鳩の里を訪れよう。


おつかれさん。




2日・飛鳥を走る

2013年11月19日 00時33分33秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月17日(日)

香久山の駐車場にて朝を迎える。



▲ 後ろの山が、大和三山の一つ香久山。ずいぶん平たい山だな。明日、三山を登る予定。


今日は、古代ロマンの里・明日香地区をmyチャリでめぐる。
甘樫丘(あまかしのおか)の無料駐車場へ向かう。



▲ 甘樫丘の駐車場に8時過ぎに入る(左)。簡単な朝食のあと、さあサイクリングだ。ということでクルマの後部から折りたたみチャリを出す。駐車場でちょっと乗り回してみる。タイヤが小さいので乗った感じが固くて振動が直に尻に当たる。小さいから走行安定性は悪い。ハンドルがくらくらぶれる。
まあ、しょうがないかなあ。

小さいリュックを背負い9時過ぎに出発。
そのとたん、思いもよらないアクシデント発生!!



▲ 駐車場先のこの坂を下り始めたとたん、スピードが出た。どう止めていいかわからなーい!!

ほんと、アホだねー。グリップを握ればブレーキになるということを、もう完全に忘れていた
坂の下は、クルマが左右激しく通る車道。突っ込むわけにはいかない! で、私はチャリを横に倒した、というか自ら倒れた。止まるための原初的方法だ(笑)。

次の瞬間、左側の肩・胴体をザラメ状のコンクリート坂に打ち付けた。チャリは止まった。
手がと足に痛みがあったが、それでもよろよろと立ちあがって、チャリを引きづって、どうにかクルマへ戻った。

心的ショックで頭がぼーっとしている。。じーっと心の衝撃が収まるまで待った。心因性ショック死というのがあるのは知っていたが、ほんとだ。初めての体験。心の動揺が収まって、手を見ると甲、指をすりむいて、皮が1cm四方で数か所剥けて血が出ている。血液の粘度を下げるアスピリンを飲んでいるのに、血がだらだら止まらないわけではない。にじんでくる程度だ。

30分ほど休んでいた。血も固まってきたので、ティッシュで上から包んで、毛糸の手袋をして、それでまたチャリで走ることにした。(自分でも、まだ走るというという判断をする自分はヘンだと思う)

手も足も痛いが動かせないことはない。打ち身だけで、骨折とかではない。ということで、チャリにまたがって、ブレーキを掛ける練習をして(笑)、出発。



15分ほどで近くの飛鳥寺に到着。



▲ 駐輪所にチャリを置いて、受付で困った。手袋をとらなくては、小銭を出せない。手袋を脱ぐと血だらけの手が見えた。驚いたのは受付の女性。「どうしたのですか、それは!」
ブレーキのかけ方を忘れたとは言えないので、坂で転んだとだけ言った。「バンドエイドを持ってきます。」 親切な方だ。
ということで、大・中・小のバンドエイドを貼っていただいた。ありがとうございました。


飛鳥寺は蘇我馬子が6世紀末に建立した日本初の本格的寺院。



▲ ここで有名なのは、飛鳥大仏の通称で親しまれるこの本尊釈迦如来坐像だ。鞍作止利が7世紀初めに作った日本最古の仏像だ。撮影可なので撮らせてもらう。




▲ 武士のような厳格な顔立ち、アーモンド形の目、細長めの首が飛鳥仏の特徴を表しているとか。
私はあの分厚い両手に惹かれた。あの手なら衆生を救うことができるかもしれないと。




▲ 本堂。この中に飛鳥大仏がどっしりと昔から鎮座している。




▲ 飛鳥寺の裏口を出てすぐのところに、蘇我入鹿の首塚がある。大化の改新で斬殺された入鹿の首を埋めた場所とされる。入鹿は馬子の孫。首塚の後ろに見える丘が、私が駐車している甘樫丘だ。この甘樫丘に、蘇我入鹿の邸宅があったのだ。




▲ 首塚から眺めた飛鳥寺。 いかにも飛鳥の寺という感じの、のどかさだが、中大兄皇子(後の天智天皇)らが、権勢をふるった蘇我氏本宗家を滅ぼすというクーデターが起こした地でもある。


飛鳥寺の後、近くの奈良県立万葉文化館というところへ行った。



▲ 万葉集を中心に古代文化を紹介するミュージアムのようだ。
覗いてみると、今日は関西文化の日とかで無料! もちろん入った。




▲ 最初にあの歌垣を行っている人形展示があった。単に求愛歌を定律で作るだけでなく、固定的な旋律で歌ったようだ。約束事を守りながら即興でうたう技量と教養を必要とし、かつ相手の気を惹かねばならない。大変だね。




▲ 万葉文化館の横の山の竹林に酒船石(さかふないし)がポツンとある。酒を搾るために作られたというが不明。石の造形物は朽ちずに残るため、意図不明の石造物が飛鳥にはあちこちに残る。




▲ 少し小高くなったところにある厄除けの岡寺。三重の塔が新品できれいだった(笑)。


岡寺へは、チャリをひいていったが、後は滑るようにチャリを走らせる。
もうブレーキ操作は習得した(笑)



次に来たのは、石舞台古墳だ。ここは、人もクルマも集まる人気スポットだ。

時間はもう2時だ。昼食を食べなくては。



▲ すぐそばにあった農村レストラン夢市茶屋に入る。



▲ ガイドブックにも載っていた古代米御膳1050エン。赤米も味わい深かったが、チキンの唐揚げがうまかった(笑)。


さあ、お腹もいっぱいになった。石舞台を見よう。



▲ 石舞台は古墳だから、濠を渡って上へ登る。




▲ (飛鳥寺を建立した)蘇我馬子の墓という説が有力だ。地上に見えている巨石は元々は土が被さっていたのが、自然変化で露出してしまったらしい。巨石の上部が平らで舞台のようだから石舞台と名付けられたらしい。




▲ 前からみるとこれが横穴式石室だということが明確だ。巨石を三段積み上げて壁にしてあり、上の三段目から露出している。
石室の中は高く広い。




▲ すると男女が、石室の高さを強調するためか、肩車をしたポーズをセルフタイマーで写真を撮り始めた。 言葉から大和人(やまとびと)の末裔だ。

それにしてもああ、大和撫子(やまとなでしこ) いまいずこ・・(笑)。




▲ お濠から離れて石舞台を見ると方墳だということがよくわかる。


チャリにはナビが付いていないので、どの方角へ行ったらよいものかまごついたが、慣れてきた。
うまく散策の道が作ってある。



▲ 山のふもとの橘寺へ向かう道だ。




▲ 本堂(左)と観音堂(右)。橘寺は聖徳太子の生誕地に太子自身が建立したと伝わる。




▲ 紅葉がより一層この古寺の趣を深くしている。




▲ 小さな古びた門をくぐり外に出てみる。




▲ 陽が赤く傾いて、飛鳥の田園を照らす。




▲ 駐輪場には私のチャリ1台が残っていた。


飛鳥サイクリングロードも、いよいよ最後。明日香駅に近い高松塚古墳へ向かった。



▲ 丘状の整備されたフイールドの中を進んでいく。





▲ プディンみたいに盛られた古墳が高松塚古墳だ。ここから昭和47年に飛鳥美人と表現される女子群像、白虎や青竜などの四神図の壁画が見つかった。

もともとは、この古墳はその上に柿木がなっているだけの荒れた丘陵地だったのだが、今は芝生も植えられきれいに整地されている。




▲ 少し高台からこのプディン状の高松塚古墳を眺める。





▲ このあたりの景観。うねうねと丘やら小高い山が連なる。他の地方にはあまりないように思う。整地されずに、保存地区として明日香は守られてきたからだろうか。


サイクリング行程を終えて、うす暗くなった中、チャリを引きつつ甘樫丘の駐車場へ戻る。
途中甘樫丘に上がる角のコンビニで、バンドエイド、消毒液、八宝菜中華麺を買っていく。

クルマの中で手をみると右手手首が痛く腫れてきた。振動のある自転車のハンドルを握っていたから、今になって痛くなってきたのだろう。

OH NO!!

雨も降ってきた。でも風呂に行かなくては。チャリを積み込んで準備。




▲ 運転してみると、右手が痛くてハンドル操作がしにくい。それでも、10分ほどで明日香村の太子の湯に到着。

風呂から戻るころには、ザーザー降りになっていた。

腫れた右手を見ながら、明日は腫れが引いているだろうか、運転できるだろうか・・
骨が折れていることはないよなあ。保険証も持ってこなかったし・・

と大和路の夜、不安になってくるSoraだった。





1日・山の辺の道をたどる

2013年11月18日 12時30分54秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月16日(土)

おはようございます。今日は晴天。

秋の大和路・歴史ロマンの旅の第1日は、山の辺の道をたどることに。
山の辺の道は、古事記や日本書紀にも登場する最古の道といわれる。

まずは、北の方の道、天理から歩き始めよう、ということで石上神宮(いそのかみ)の駐車場へクルマを置いた。



▲ 石神神宮は古代豪族物部氏の氏神だったところ。朝8時だったからか、境内はおごそかな神さびた雰囲気がただよう。




▲ しかし、ここの境内ではあっちこっちからコケコッコーの鳴き声が。ニワトリが約30羽、放し飼いにされているのだ。

コケコッコーの声を後にして、天理市内の方へ歩いて行った。


天理市は日本で唯一宗教団体の名称を市名とするところで、天理教の施設が集中しているようだ。



▲ 桜の紅葉が見事な通用門口の先には天理大学・小学校があった。続いて天理参考館という博物館も。建物は整然としてきれいだ。




▲ 天理教教会本部もある。宗教関係の建物は、見るものを訪れるものを圧倒し、頭を垂れさせるように壮大、華麗、神秘的なものが多い。


天理市をあとにして、クルマを少し南の崇神天皇陵前の駐車場へ移動した。




▲ 弘法大師の創建と伝わる長岳寺へ行く。楼門(重文)と本堂を映す放生池。紅葉の名所とあったのできたが、いまひとつか。


長岳寺のあと、山の辺の道を北上した。これが間違いだった。環濠集落を見に、萱生(かよう)環濠集落まで歩いて行ったのだ。昔外的の侵入を防ぐために周囲の濠(ほり)をめぐらした集落だ。歴史的に古代王朝の跡だと、私が勘違いして行くのにこだわったところ。帰ってから調べてみるとまったくの無関係だった。



▲ 萱生集落。濠の一部が今も残る。みかん畑の中をてくてく歩いていって、ある意味思い出になってしまったので一応アップしておこう。

萱生集落から今度は国道169に出て、崇神天皇陵の駐車場まで戻った。

駐車場から、JR柳本の駅の方へ少し歩いたところに、黒塚古墳があるので次はそこへ。
時間が2時間近く予定よりおしているので、古墳は駆け足的に見ることに。



▲ この全長約130mの前方後円墳は、平成10年の卑弥呼の鏡ともいわれるものが発掘されて、一躍有名になった古墳。古墳の頂上は発掘跡が、今はカバーをかけてある。




▲ 左は縦長の発掘跡を復元したもの。右は三角縁神獣鏡が33面も発見された。これらのレプリカが古墳に隣接する展示館で見られた(無料)。


JR柳本駅から桜井方面の電車12:33に乗った。ここから、山の辺の道が一応終了する桜井駅の一つ手前の三輪駅まで乗った。2駅280円ですぐだ。

お目当ては、大神神社(おおみわ)と三輪山(みわやま)の登拝だ。
大神神社は日本で最も古い神社のひとつ。古来本殿はなく、三輪山をご神体として仰ぐ古代の信仰形態そのものの神社だ。



▲ 大神神社の大鳥居。国道に面して建つ22mの鳥居は周囲に建物がないのでひときわ目立つ。
うしろの山が、ご神体の三輪山だ。


大神神社へは直接いかずに、その隣の狭井神社(さい)へ行く。



▲ 狭井神社。この本殿横に三輪山への登山口、(おっとここでは登山とは呼ばない)登拝口があるのだ。




▲ 入山初穂料300円を払うと、この三輪山登拝証をもらう。このたすきを掛けて登るきまりだ。




▲ 登拝口。ここから登る。横に金剛杖みたいなものがあるこれを持って。登拝中は、飲食禁止。撮影禁止だ。聖なる信仰の対象だからだ。
頂上447mには、岩場の中に祠(ほこら)があった。見晴はまったく無し。標高差は約400m。上までずっと、階段状になっており急登攀はなく登りやすい。1時間35分往復に要した。登拝者の7割方は女性。なんだこの山は(笑)。

余談だが、山の様子を伝えることは禁止がマナー。したがって「あと山頂までどれくらいですか?」とか「山頂は、晴れてましたか?」とかの通常の登山者どうしの会話はアリエナイ。たいていの一般登拝者は「コンチハ」を交わしていたが、白装束のホンチャン登拝者は無言だから、声をかけないように。




▲ 三輪山の登拝を終えたのち大神神社にも寄る。午後3時前。登拝は2時前までの規則だから、登拝を急いだゆえ。





▲ 3時過ぎ。お腹が空いた。無理もない。朝菓子パンを2個食べただけだから。
大神神社のすぐそばの食事処に入る。「大和名物 三輪そうめん」の看板を掲げている。




▲ 三輪はそうめん発祥の地だ。「冷やしそうめん」、「にゅうめん」の二つがメニューにあるので、違いは何か店員さんに聞くと、「にゅうめん」は暖かいそうめんだと。じゃあ「にゅうめん」。

ここのそうめんは、細い。これが三輪そうめんの特徴のようだ。ネギ、細いきのこ、わかめ、なるとがトッピング。味は、レモンかみかん汁が入れてあるのか、柑橘系の味と透き通ったスープで、食べやすい、飲みやすい。ヒロさん風に、スープ全部飲み干してしまい完食。

さあ、山の辺の道旅は続く。出発。

大神神社から、桜井の方へ少し南下。南の山の辺の道の始点の海柘榴市(つばいち)へ。



▲ 昔の海柘榴市が有ったあたり。海柘榴市とは、山の辺の道の他、街道が交わる交易の中心地、市場の有ったところとして、日本書紀、万葉集にも登場する。




▲ 道端に万葉歌碑が置いてある。



▲ 「むらさきは 灰さすものぞつば市の 八十(やそ)のちまたに逢へる児や誰」
  
   訳(紫染めには椿の灰を入れるもの。その椿のある海柘榴市で出会った乙女。あなたは誰?)

と問われ
   
  「たらちねの 母が呼ぶ名を申(もう)さめど 路(みち)行く人を誰と知りてか」

   訳(母から付けてもらった私の名前を教えてもいいけど、すれ違っただけのどこの誰かもわからない方に何と言えばいいかしら)

とかわす。

古代の市場では、男女が集まる。物々交換の機能だけでなく集団見合いの機能を市場は持っていた。歌を互いに詠み掛け合い、フイーリングが合うかを見る。この恋歌を掛けあう場を歌垣と呼んだ。歌を掛けあう、男女が垣根のように並んだから、歌垣と呼ぶようになったらしい。

歌垣で名を問うのは求婚を意味し、答えれば承諾。とはいえ、この作者不詳の万葉歌のように女性は一度ははぐらかすのが常だったよう。時代は変わっても乙女心は複雑だ(笑)。対して男性は、再度別の歌を作って意中の女性に結婚を掛け合ったのだろう。

なんという、古代ロマンだ。

あなたは名前をすぐ教えていませんか。それはいけない、はしたない。
あなたはすぐあきらめていませんか。それは草食的。もう少し男としてくいさがりなさい。(笑)


海柘榴市(つばいち)の地名は桜井周辺にもはや無い。海柘榴市観音堂に名を留めるだけ。

ああ、感慨にふけって時間をつぶしてしまった。
出発。再度、道を北上して戻る。駐車場まで歩いて戻るのだ(二駅分!)。




▲ こんな細い道。もろ山に沿った道も、「山の辺の道」にはある。女性一人歩きは無理だ。



狭井神社を過ぎて、もう一つのスポット檜原神社(ひばら)に到着した。



檜原神社は大神神社の摂社のひとつ。従ってここには本殿も拝殿もない。三ツ鳥居(左)を通して三輪山の頂上の磐座を拝するだけだ。




▲ しかし、私が檜原神社に来たのは三ツ鳥居の反対側を望むと、二上山(にじょうざん)が正面に見え、ここから見る落日は美しいということだったから。

しかし残念ながら、西の方向は雲がかかっており、二上山自体がぼやけていた。それでももう少し待てば、日没後、雲が茜色(あかねいろ)に輝いたかもしれないが、そこまで待っていると本当に暗くなって、駐車場に戻れなくなる。

実際、暗くなってきて、相撲神社のあたりからは山の辺の道をそれて、国道269号へ出た。



▲ 途中、景行天皇陵の前を通る。このスナップは感度を上げて明るいが、実際は午後5時を過ぎているので薄暗い。

景行天皇陵を過ぎて、次の崇神天皇陵の駐車場に戻った時は真っ暗。
それでも、この陵をまだ見ていないので見に行く。



▲ お濠に囲まれた崇神天皇陵。これも感度を上げているだけで辺りは暗い。正面の階段を上っていくときに、翌日も続く躓き(つまずき)が始まる(涙)。階段で、足をとられてコケタのだ。この時は「イテエー」で済んだが。


クルマを少し南下させ、橿原(かしはら)市へ入った。



▲ 橿原市福祉センター「やわらぎの郷」へ。センターへ入るといっても、入浴施設を利用するだけなのだが(笑)。400円。あとで調べると、それは市内人料金。市外人は900円だ。すみませんね、橿原市の納税者の皆さん。

入浴のあとは、かの大和三山の耳成山(みみなしやま)の駐車場に行くが見当たらず。次に藤原宮跡駐車場に行くも暗くて入れるのか閉鎖しているのか不明。次に行ったのが、天の(あめの)香久山の駐車場。5台しか停められないが、当然誰もいない。

突然の闖入者を嗅ぎつけた、隣家の犬が泣き騒ぐ。

「オイ、ワンコ。頼むから泊めさせてくれよな。」 もう完全な流浪の民・車上生活者のSoraだった(笑)。





大和路 奈良に到着

2013年11月15日 19時30分25秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月15日(金)

これは何だと思います?



▲ 足湯カフェ。 黒いお椀状の中にはお湯が。そこへ足をいれて、くつろぎます。




▲ 昨晩車中泊した中井PAの次が足柄SA。足柄SAの2階にありました。




▲ 足湯カフェの横には、「あしがら湯」もある。 金太郎さんもビックリ!




▲ 足湯カフェは、420円~のワンドリンク注文すれば、ひねもす足をつけてリラックスできる(笑)。 あなたもどうですか?
 
お風呂の方は630円。これは理解できる。 ここで夏車中泊したら、入りたいなあ。




新東名に入って、駿河湾沼津SAに寄ってみる。あった、ありましたよ。

シラス丼も、桜えび丼も。しかし、今回はこれ↓にした。

海宴丼980円。





▲ シラスも桜エビもマグロも、それにウニ、イクラも入って・・・
クルマの中でいただいた。 オイチー。


東名高速道、伊勢湾岸自動車道と小雨がぱらつくなか、順調に走行を続けた。
名阪国道に入ったころには、雨は止んでいた。



奈良にトーチャコ 午後4時40分。

奈良最初のお休み処はここに。ここは天理市になるのかな?
奈良健康ランド。24時間営業だ。



▲ パチンコ屋さんと、隣り合わせだが、ウム・・構わない。




▲ お風呂のあとは、場内のお食事処で、なでしこ御膳1050エンを。「女性の方に」とかメニューに書いてあったので、男が注文していいかと一応聞いて注文した(笑)。少量で品数が多いのは私好みでもあるのだ。


今晩は、パチンコ玉の音を聞きながら眠りにつくのだろうか。
古都にふさわしい初日だ(笑)。

明日は、歴史ロマンあふるる「山の辺の道」をたどる。



秋の大和路・歴史ロマンの旅~出発

2013年11月14日 23時50分59秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月14日(木)

仕事を終えて帰宅後、あたふたと出発準備・積み込みをする。午後9時半に自宅を出発。
厚木ICから東名高速に乗って、ここ中井PAに11時半頃に到着。今晩はここで車中泊だ。
自宅から奈良までは約470kmの道のり。
明日の朝出発しても、一気に行けない距離ではないが、夜間半額割引適用ため、いつものとおり前夜出発・車中泊とした。


 中井PAはトラックで一杯


奈良を訪れるのは、何十年も前の学生時代以来のこと。もはや何も覚えておらず、ほとんど初めての地といってもいい。

今回この旅に期待するものは、古墳時代のいにしえの人々の素朴な心情、飛鳥・天平時代の人々の祈りの思いみたいなもの (があるのではと私が思い込んでいるわけだが) に、触れてみたいということ。しかし、そんな旅目的では誰も読んで頂けないだろうから(笑)、コピー風に今回の旅は「大和路・歴史ロマンの旅」としておこう。

さて、気になるお天気、



11月16日から23日まで、私が奈良を周遊しているあいだ、ほぼ晴れ!ではないか。冷え込んだ気温も、この間は15度前後でそう寒いわけではない。今回は、歩く時間が長そうだから安心した。 やはり、日ごろの行いが・・、いやそれは言うまい(笑)。

明日は雨模様のようだが、夕方までに奈良市内に入ればよく、時間的には余裕。少し寝坊してから安全走行開始だ。

ではお休みなさい。

奥多摩の秋と釜めし

2013年11月09日 17時46分26秒 | 青い空の日は旅立(全般)
11月9日(土)

当初は、decoと二人でこの山中に来る予定だったのだが・・



聞きつけた息子夫婦が子供を連れて、一緒にジョインしたいというので



▲ 来たのが、(東京都)奥多摩町の「なかい」という釜めし食事処。
午前11時の開店の数分前。のれんを店員さんが掛けていた。

この辺りへ来るのは、今年1月の御岳山(みたけさん)登頂以来。青梅を越えて、御岳山とは多摩川を挟んでちょうど逆サイドの山の中。




▲ 釜めしなかい、は民家みたいなたたずまいの小さなお店。
例によって、TVの旅番組で1か月ほど前に紹介されて、decoが行きたいと言いだし、聞きつけた息子家族も・・あとは軽井沢の朝食と同じパターン(笑)。




▲ 本日の釜めしメニューは、「きのこ釜めし」、「山菜おこわ釜めし」、「うなぎ釜めし」、そして「鶏ごぼう釜めし」。残念ながら「くり釜めし」は10月で終了。

私達は、「山菜おこわ」と「鶏ごぼう」にした。




▲ 山菜おこわ釜めし(左)。野菜を煮込んだ水たき(右)のなべも付く。刺身こんにゃくとゆでまんじゅうも。

 鶏ごぼう釜めし

おこわは好きだから、山菜おこわ釜めしも悪くはないが、鶏ごぼう釜めしの方がごはんに味が浸透していて美味しいかな。




▲ 庭の紅葉を観ながら、ゆっくりと釜めしを味わったと言いたいところ、今日はUmiちゃんがぐずりがちで、みんなでなだめるのに忙しくて落ち着かなかった(苦笑)。




▲ 食事を終えて。なかいの庭で、みんな笑っているが・・?
Umiちゃんに、池の金魚を見せているところ。 Umiちゃんは、家族の小さなお姫さまなのだ。





▲ Harmonyを止めた駐車場には、赤い柿がなっていた。

  
秋ふかし みんなのおなかも 満足だ