青い空とわたし

青い空の日  白い雲の帆船をみていると

どこかへ どこまでも Harmonyと

走っていきたくなります

避暑地では読書だ

2021年08月30日 12時00分14秒 | 文芸・アート

8月29日(日)

 

▲ 乗鞍高原・朝6時20分

陽が昇ってくる。

今日も暑くなりそう?だ。

(隣の乗用車には誰もいない)

朝食のあと、きのうのブログを書く。

 

書き終えて、昼前にちょっと散歩。

 

▲ ウン? なんかやっている。

 

 

▲ 自転車でのヒルクライムの大会か

どおりで、きのうからバイクの人が多いのだな。

畳平まで、ここから登るクライムするのだね。タイヘンだ。

 

 

▲ 乗鞍岳の山並みが、きょうはクッキリ

最高の山登り日だな。

 

 

▲ 気温は26℃ぐらいか。11:40AM

 

 

▲ 乗鞍観光センターの前

 

 

▲ 今日は日曜日

きのうも多かったが、クルマが多く停まっている。

 

 

▲ シャトルバス乗り場

ヒルクライム参加の人も多いだろうが、多数の人はここからシャトルバスに乗って畳平まで上るのだろう。

 

 

▲ この臨時駐車場は、先の観光センターPの道路を挟んだ横にある。

ここもそれなりに埋まってきた。

皆さんは樹々の陰になるように停めたがるが、ボクはソーラーパネルのため陽を浴びるところに停めざるを得ない。Harmonyの向きを南に変えた。

簡単な昼食のあと・・、あ、もう何を食べたか覚えてない。(大丈夫かよ、オマエ)

 

▲ 今回は、家から数冊の本を持ってきている

実は、本をずっと読んでいない。

今回の乗鞍避暑は、涼しいとこで読書にいそしむというのが大きなお目当てだ。

で、取り出したのがまずコレ。誰かのブログで挙げてあって、ボクも読もうかとアマゾンした。

 

▲ 森村誠一、ハイ、知らないかたはいませんね。

角川映画にもなった「人間の証明」しか読んではいないけど(笑)。

略歴

1933年、埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大学卒。ホテルマンを経て作家となる。’69年『高層の死角』で第15回江戸川乱歩賞、’73年『腐蝕の構造』 で第26回日本推理作家協会賞を受賞。2003年には第7回日本ミステリー文学大賞を受賞した。ミステリーを中心に、歴史小説、ノンフィクションなど、多 岐にわたる分野で活躍。
 
埼玉出身で青学卒だって。うん、身内にもいるし親近感を覚えるね(笑)。

 

▲ 本のカバーより

今年の1月で88歳になられた著者。老人性うつ病に3年ほど悩まされ、壮絶に克服。

第一章 私の老人性うつ病との闘い

第二章 老人は、余生に寄り添う

第三章 老人は、死に寄り添う

第四章 老人は、健康に寄り添う

第五章 老人は、明日に向かって夢を見る

最後のくくりが

「けれども何歳になっても夢は抱き続けられる。私は八十八歳になった今でもそう思うのである。ネバーギブアップ!」

ネバーギブアップ? はて、どこかで聞いたことのあるような・・ ググると

森村原作で、角川映画・薬師丸ひろ子、高倉健主演の「野生の証明」のキャッチコピーだ!(笑)

 

 

▲ 駐車しているクルマも大分帰った。16:14

あの人たちは・・

 

 

▲ 乗鞍岳に登ってきたのだろう

ボクも行きたいな・・

いや、いや、やめとこ。乗合バスは・・デルタ株は空気感染が主流だというし(個人的意見です)

それに、前回(2019年)来たときに登ったし

夏山旅 長い課題だった乗鞍岳・剣ヶ峰に登る - 青い空とわたし (goo.ne.jp)

https://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/71d8fdb953b0aa5fbb9dc228fd2cb37d

 

 

▲ 読み終えた。

「過去と未来をつなぐ最先端が現在である・・ 過去に目を向ければ、いまの自分がいちばん年老いているが、未来に目を向ければ、いまの自分がいちばん若いのである。」

てのが一番印象的なフレーズだね。

 

 

▲ ドア・窓(ネット付)は、全開。

涼しい風が入ってきて、心地良い。

 

午後5時だけど、お腹が空いた。

では、これでいこう

 

 

 

▲ ガーリックフランスパンも付けて

うん、美味くできた。(誰だってできるよ)

 

 

▲ また、湯けむり館に 18:14

日曜日の夕方だから、さすがに浴客は少なくなっていた。

 

 

▲ NHK ニュース7を見て

パラリンピックのあおりで6時からの「晴天を衝け」BSは無かったので、8時から総合で観ようかとも思ったが、ま、そこまですることはなかろうと。

寝よう。お休みなさいませ。

 

 

 


君よ永遠の嘘をついてくれ ~ まだ旅の途中だと

2020年11月29日 16時32分11秒 | 文芸・アート

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

御存知、中島みゆきの作詞作曲の「永遠の嘘をついてくれ」の一節だ。中島みゆきが吉田拓郎に提供した唯一の楽曲だ。(1995)

多分、彼女の曲の中で私の一番好きな曲だろう。

嘘が多い、しかも堂々と嘘がつかれる世の中になったからか、最近この曲をどうしても思い出してしまう。

 

相手の言うこと、それが嘘だと分かっていながら、それでもその嘘を嘘でないかのように、できたら永遠に私にその嘘をついていてほしいと懇願しているような「永遠の嘘」とは何か?

諸説あるようだ。

一番筋の通った説は、①相手は元左翼活動家。社会変革の夢を熱く語ったが、海外逃亡のあげく挫折。今NYで病んでいるとの想定。

 

 

しかし囁かれている説は、②相手は人生を謳った拓郎。中島はデビュー前からそんな拓郎を敬慕していた。近時もう歌は止めると言い出した拓郎に、中島が奮起を婉曲に促している。

 

 

しかし一般的な解釈は、③相手は恋人。自分を本当は愛していないことを知りつつも、「愛している」との嘘をずっと続けてほしいという女心を歌った。

色々と解釈は可能だが、ボクは中島の大きな世界観が反映されていると思っている。

「永遠の嘘」とは、信条・信仰・宗教みたいな大きな人生の意味体形。それなしには人間は生きていけない。しかし、それが本当・真なるものかとの証明はできない。できなくてもいいのだ、単なる「物語」でもいいのだ。種明かしは要らない。生きる力になるなら「永遠の嘘」だっていいんだ

 

かような「永遠の嘘」を欲する人間の心理をずばり突いたセリフは、

 

人はみな望む答えだけを聞けるまで
尋ね続けてしまうものだから

君よ永遠の嘘をついてくれ

 

「人は望む答えだけを聞けるまで尋ね続けてしまう」とは、人というものは自分が聞きたい答え(永遠の嘘)だけを聞きたい、もっと言えばそれ以外の答えは聞きたくない、聞かないようにする、ものだと。

 

さて、ここで現在の世相に入り込もう。

トランプ大統領が、「大統領選に民主党の不正があった」とその証拠も示さず繰り返すのはいい。彼は大嘘つきだし、大統領でなくなれば大きな負債を背負うから必死で嘘をつく動機は大で理解できる(笑)。しかし、トランプの支持者が「民主党は選挙で不正をした、盗んだ」とかプラカードを掲げて練り歩いたのは奇妙だった。もちろん支持者は証拠を示せない。そうであっても、恥ずかしげもなく「不正があった」とオウム返しに断じることだった。

 

 

トランプ支持者は、望む答えだけを求めて、種明かし(証拠)は示してほしくないのだ。

 

わが日本では、アベちゃんの「桜を観る会」問題で、当初野党は後援会の金を流用しただろうと、何回も何回も尋ね続けた。しかしその尋ね方が単純で能がないから、「出してない」で終わってしまっていた。永遠の嘘で終わるだろうと思っていたら、それが検察の応援で、今また「尋ね始めた」(笑)。

 

 

嘘だと立証できないだろうからといって、政治家が見え見えの嘘ばかりついていれば、政治不信はますます強まる。

 

ひるがえって、我々一般人は政治的嘘をつく必要はないが、嘘を自ら信じていく罠に陥る可能性が増えてきている。情報は氾濫しているが、聞きたい情報だけを集めて信念を固めてタコ壺に隠れていく傾向はないか。(情報的タコ壷化) ネット上にも議論はさまざまだが、どこまで正しい根拠に基づいているかは疑わしいまま、互いに空中戦をしているような議論が多くなっているような気がする。

 

ああ、またご託を並べてしまったが、この歌を聴きたいだけで。

では、どうぞ

 

拓郎&みゆき 永遠の嘘をついてくれ

ニューヨークは粉雪の中らしい
成田からの便はまだ まにあうだろうか
片っぱしから友達に借りまくれば
けして行けない場所でもないだろうニューヨークぐらい
なのに永遠の嘘を聞きたくて
今日もまだこの街で酔っている
永遠の嘘を聞きたくて
今はまだ二人とも旅の途中だと
君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

この国を見限ってやるのは俺のほうだと
追われながらほざいた友からの手紙には
上海の裏街で病んでいると
見知らぬ誰かの下手な代筆文字
なのに永遠の嘘をつきたくて
探しには来るなと結んでいる
永遠の嘘をつきたくて
今はまだ僕たちは旅の途中だと
君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
一度は夢を見せてくれた君じゃないか

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく
放っておいてくれと最後の力で嘘をつく
嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに
たとえくり返し何故と尋ねても
振り払え風のようにあざやかに
人はみな望む答えだけを聞けるまで
尋ね続けてしまうものだから
君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
出会わなければよかった人などないと笑ってくれ 

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
出会わなければよかった人などないと笑ってくれ 

 

~・~・~・

今はまだボクたちは旅の途中だと ボクは信じていたい。

お二人よ永遠の嘘をついてくれ

中島みゆき、吉田拓郎 二人のスーパースターよ 永遠なれ

 

 

 

 


カミュ「ペスト」を見る~だれでも自分の内にペストを持っている

2020年04月13日 16時34分46秒 | 文芸・アート

4月12日(日)

「ペストって本、あなた、読んだことあって? お友達がね、今ベストセラーになっていてね、本屋ではもう買えないのだそうよ」と家内に聞かれたねーよ」とぶすっと答えた。(会話は脚色しています)

しかしすぐに見当はついた。昨日、これはオモロイと録画予約した番組のアレだ。へーあの小説、やはり評判になっているのだ。と急いで、昨日の録画を見てみた。

うむ・・ 驚いた。

▲ 100分de名著 カミュ「ペスト」 4月11日(土)E テレ 午後3:00~4:36

あらすじは

舞台は、突如ペストの猛威にさらされた北アフリカの港湾都市オラン市。猖獗を極めるペストの蔓延で、次々と罪なき人々が命を失っていく。その一方でオラン市は感染拡大阻止のため外界から完全に遮断。医師リウーは、友人のタルーらとともにこの極限状況に立ち向かっていくが、あらゆる試みは挫折しペストの災禍は拡大の一途をたどる。後手に回り続ける行政の対応、厳しい状況から目をそらし現実逃避を続ける人々、増え続ける死者……。圧倒的な絶望状況の中、それでも人間の尊厳をかけて連帯し、それぞれの決意をもって闘い続ける人々。いったい彼らを支えたものとは何だったのか?

フランスの作家アルベール・カミュ(1913-1960)は、「異邦人」(1942)で有名だ。「不条理」の哲学を打ち出し系譜的には実存主義に連なる。第二次世界大戦中は自らのレジスタン活動を通じて培った思想を通して戦争や全体主義、大災害といった極限状態に、人間はどう向き合い、どう生きていくべきかを戦後に問うた代表作が「ペスト」(1947)だ。疫病ペスト自体は全くのフィクション、むしろ隠喩だ。

「不条理」とは、原義的には、abusurde(英)つじつまが合わずバカバカしいことを指す。カミュは、「意味を持たないこの世界で、それでも意味を探す」人間のありようが「不条理」そのものと考える。

 

 

実際、世の中自体が不条理だ。昨年、翌年のオリンピックの饗宴に夢を馳せて、新令和に新たな時代を期待し、さあ令和2年、これから災害復興、いよいよ日本も前に進むだろう胸を膨らませていたら・・それが。それがコロナが突然襲い、知らないうちに今や、日本は地獄絵図になるかどうかの崖っぷちに立ってしまった。いや崖っぷちから落ちてしまった。

個人生活でも、突然の結婚式のキャンセル、学校閉鎖、飲食店閉鎖・・な、なんでこんなSF映画みたいなことになるのだろう。しかもこのボクに、ワタシの上に。不条理な世界が現出しはじめてきたのだ。まだ「ある朝起きてみたら巨大な毒虫になっていた」(カフカ・変身)ほどの不条理ではないが(泣笑)。

不条理なコロナ禍に遭って、自分は何ができるのか、すべきなのか、参考になるのかどうかわからないが。急いで、簡単に要約してみた。

 

語り手でもある医師リウーは、

▲ まず、現実がペスト(コロナ)であることを直視し、何ができるかを考え、果てしない敗北にも抗っていく姿。これは現在の世界の医療団の基本姿勢だろう。

 

▲ 背景不明の旅行者タルーは、志願して患者の治療を助ける保険隊を組織する。これは使命感を持って自分の仕事を果たそうとする、看護団、ライフライン維持の方に相当するだろう。

多くのオラン市の市民は、世界から”追放”された(隔離された)状態の中で、初めは絶望するが、その絶望にも”慣れる”と現在を享楽しようとする・・「現在の囚人」

しかし、カミュは極限の禍の中で様々な人間模様を描きながら、人間の「連帯」に光を見ようとする。(英国で夜8時に窓から医療従事者向けに拍手を送るのもカミュの連帯だろう)

不条理への「反抗」をすることで「連帯」が生まれる。そして

我(われ)反抗す。ゆえに我等(われら)有り。の結論に達する。

 

カミュの「ペスト」は、他のパンデミック物語と違って極めて哲学的な思想を展開しようとしている。しかし、そこに描かれる人間模様は今のコロナ禍ともパラレルなシーンが多い。おそらく、戦争、災害、疫病といった不条理に降りかかる災厄に対して人間がとるところの怖れ・悲嘆・絶望そして望むらくは希望へのパターンには普遍性があるのだろう。そして、かっこよく言えば、多くの人が各自の「生きる意味」をその後に考えることも。

 

「ペスト」は小説では1年後に終息する。次の文章でしめくくられて。

「ペストは死ぬことも消滅することもしない。恐らくいつの日かまた、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目ざめさせ、どこか幸福の町に送りこまれるであろう。」

 

 

◎ 100分de名著 カミュ「ペスト」 は、まだNHKプラスで見れます。本を読みたくないかたは、急いでどうぞ。

 

 


「いだてん」が終わってくれた

2019年12月16日 16時32分57秒 | 文芸・アート

12月16日(月)

 

 

 

昨晩で、やっと宮藤官九郎(クドカン)の「いだてん」終わった終わってくれた。 

 

最後まで低視聴率にあえいだ理由は簡単、面白くないからだ 

面白くない理由は、ストーリー構成が才に走り過ぎて分からない人物描き方安易感情移入できないからだ。 

 

【物語構成】 

クドカンの過去のドラマの共通特徴は、伏線をいっぱい撒き散らしながらストーリーを進め、最後にそれを、一つの主題の下にみんなつながってましたと見せることにあるらしい。その「神回」的な「回収」にコアファンは感涙するらしい。それは物語の手法としてあるし、それがうまくいった場合はお見事!。問題は「いだてん」ではそのドラマチックな手法が狙ったとおりにいかなかったことだ。 

 

まずいだてん脚本は①「金栗四三ストリーム」②「田畑政治ストリーム」③「古今亭志ん生ストリーム」の三つの流れがある。③は。最初は①が前半を、後半は②が主に流れるが、最終に行くにしたがって①もまた顔をだしてきて、ぐちゃぐちゃになる(笑) ①と②は、ま、日本オリンピック史に係る人物だから二人を絡めてもいいとしよう。嘉納も架空の懐中時計の小道具まで出して①②の連関補強を図っても、ま良しとしよう。

しかし③の志ん生ストリームは、初めから終わりまで流れて多くの人をその存在理由も分からず困惑させた。最終回で「五りん」なる志ん生の架空の弟子が聖火リレーに加わるが、これはもちろん作り話で、あえて①②③の大団円を無理やり図って見せた策にしか感じない。「お見事!」と拍手できない。「いだてん」では伏線回収の「見得を切る」ための無理やり感がむしろ痛ましい 

 

【人物描写】 

この「いだてん」が全くの「物語」ならいい。「あまちゃん」みたいに全く実在しない高校生の「物語」なら構わない。許される。はじめから「物語」なのだから。しかし「いだてん」は実在する人物をメインに描いているがゆえに、いくらテロップでこれはフイクションですと小さく断り書きを入れても(笑)、視聴者はドキュメンタリーと見てしまう。その結果、細部ストーリーも視聴者は事実かなと疑いながら見ていることになる。嘉納は、金栗は、田畑は、本当にあんなことを言ったのだろうか、やったのだろうか・・と。疑問に思う言動・所作がポジティブなものならいい、そういう創作なら視聴者が信じたいと思うことだから。しかし、金栗は本当にあんな奇声をあげて冷水をあびて尻を出して、へんてこな走り方をしていたのだろうか、あれではマラソン馬鹿というよりただの馬鹿ではないかとか、田畑はあんなにオレオレのオリンピックとかババアババアと言いまわっていたのだろうか、本当に東大卒なのだろうか(笑)とか、モノを考える人はその疑問にこだわるはずだ。従来の歴史大河ドラマなら主人公が誰とロマンスを繰り広げようが、それは作者の想像、創作的展開だと視聴者は割り切っている。史実的エピソードは極めて限られているのだから、むしろ面白いと。しかし、現代史のドラマとなると、それは事実で自分が知らないだけかとの疑いにさいなまれることになる(笑)。

しかしクドカンが小手先の笑いを作るために、単にへんてこな言動をさせているのだと分かってくると、どっちらけになり、視聴者はいだてんのドタバタはむしろ不快になり、離れていく。離れていった。最終回で、「いだてん」は志ん生の頭の中のお噺(はなし)だったんですよみたいなオチにされると、ボクみたいに真面目で熱心な視聴者ほど、怒る(笑)。 

 

クドカンは、落語が好きらしい、自分も落語をやってみたいと思っているらしい。だから志ん生を絡ませたかったのだろう。これは有名になった脚本家のおごり。自分の趣味がとおると思ってしまうのでは。アニメの巨匠宮崎駿が最後の作品「風立ちぬ」で堀辰雄の名作「風立ちぬ」に自分の好きなゼロ戦製作者の堀越二郎をからませてゴチャゴチャ作品を作って晩節を汚したのと同じだ。

さらに自分の趣味との混同がもう一つある。落語の笑いは、落語家の所作も含めた瞬発的なものの気がする。一瞬でおかしく感じてワッハッハーと笑えるもの。その単発的な笑いを求めて落語家は噺(はな)している。ストーリーを追っていき、登場人物に感情移入してしまい、場面によっては思わず笑いがこみあげてくるのが演劇、TVドラマだ。クドカンのいだてんは落語的な受けを狙ったコメディ的な味付けが多すぎる。それしかないともいえる。常識人が避けるような所作・言動をあえて登場人物にさせて、意外性からくる笑いを狙う安易な手法だ。あえて暴力を露出し関心を持たせようとするたけし巨匠映画とやはりお仲間、通じている。単発的なクドカンドラマならいいが、1年間もこれをやられると・・ (受信料返せだ) 

 

やはり終わって良かった。 

 

過去日記:

大河ドラマいだてん 考 2019.5.7

 

宮崎駿・映画「風立ちぬ」を観て 2013.7.22

 

 

 


ON THE ROAD ~ 山田太一を聴く

2019年10月31日 19時59分34秒 | 文芸・アート

10月26日(土)

道の駅・禅の里での真夜中。目が覚めた。

なかなか、再度寝付けない。

家にいる時もそうだが、ボクは無理して寝ようとはしないし、必要ない。そんなとき枕元のラジオで、NHKラジオ深夜便を聴く。そのうちに寝入るのだ。

この夜、たまたま聴いた4時5分から5時までのいつものインタビュー番組だったが、今朝は山田太一が「老い」について語るというのだ。聴いたあと、もう寝入れなかった。

 

 山田太一

 

山田太一といえば、ひところ倉本聰、向田邦子と「シナリオライター御三家」と呼ばれたTV脚本家だ。ボクもよく観たし、文庫本を読んだ、なつかしい作家だ。

 

やはり彼の脚本で一番有名なのは

「岸辺のアルバム」(1977)だろう。

普通の中流家庭の、両親二人と子供二人には隠している秘密があって、それが徐々に露呈、平和な家族が崩壊していくドラマだ。洪水で家が流され崩壊するがごとく、思ってもいなかった家族が崩れていく。洪水のあと残った家族のアルバム・・が、家族の大切さ?再結束?それとも単なる過去史に?視聴者各自が考えるといったドラマ。従来のサザエさん的な和やかなホームドラマとは対照的な「辛口ホームドラマ」と呼ばれ、放送史に残る名作とされている。

 

▲ 妻役を演じたのが、あの八千草薫。夫役は杉浦直樹。ああ、どちらも他界されたな。このイケメン不倫相手が竹脇無我。彼は?知らん(笑)。

ドラマの洪水シーンは、実際あった多摩川の氾濫の映像を使っていたのも、なんともかんとも意味深くて。

ボクらは20代、大阪で新婚ホヤホヤでして、豊中の狭い「文化住宅」でこのドラマを観ていたことをよく覚えている。

 

そのあとの山田太一のヒットドラマは、やはり「ふぞろいの林檎たち」(1983)だろう。

一言で言えば、落ちこぼれと感じる若者たちの青春群像を描いた。これは大ヒットで1997年の第4部まで断続的に作られた。主題曲がサザンの「いとしのエリー」で、記憶に残っているかたは多いだろう。

 

現在の、歳をとったリンゴたち。中井貴一、時任三郎。

女性アナウンサーは、こうした過去のドラマを振り返りながら、山田太一は41歳の時に「男たちの旅路」では、高齢者にバスジャックをさせて忘れられた存在になりがちの高齢者の反乱を描いたドラマも紹介、山田の若いときからの「老い」への関心を紹介した。今となっては、高齢者は忘れさられる存在どころか交通事故をあちこちで引き起こして無視できない存在だが(笑)

山田太一は、現在85歳。3年前に脳出血を患い現在も療養中だと。これはこの番組で初めて知った。ああ、山田太一もか・・。

インタビューの中心は、現在の山田太一が過去の作品を今どう考えるか、そして今現在のご自身をどう考えるかだった。要約すると

・全部自分の中にもあるものを描いた。特殊な人を描こうと思ったわけではない

・大多数の普通の人は、声にならない声を持っている。それを代弁したいと思った

・周りの人がバタバタ死んでいく。しかしみんな一様ではなくてバラバラの死にようで、バラバラに死んでいく。それぞれの思い、寂しさはバラバラ、自分で思うようにはならない。細かな感じ方は自分がならないと分からなかった。

・自分がいつ死ぬかもわからないのが一番の悩みだ。明日死ぬかもしれないし、長く続くのも困ってしまう。変なところへ自分が追い込まれたなあ。生き方を変えないといけないとも思うが、変えても明日死んでしまうかもしれない・・。

山田太一は、脳梗塞で死んだボクの父のような、やはり聞き取りにくい口調で話した。

インタビュアーの女性は、「いつまで生きるか分からないとおっしゃるその宙ぶらりんの気持ちを包み隠さず率直に言ってくれた山田さん。ご自身を含めて人間の心の底を見つめ続けた山田さんの重い言葉だった。」と締めくくった。

 

「死とは何か、生とは何か」を先達から学びたいと思う者にとっては、その質問をダイレクトに向けてみたい、そこまで抽象的な質問ができなければ、「人生を振り返って一番良かったこと、やり残したと感じることは何ですか」とかのより踏み込んだ質問をしてみたいだろう。しかし、それはすごく個人的な領域であり、公開ラジオでは聞くべきではないだろうと思う。

問題をもっと簡単にしよう。

自分なら・・ 死ぬ間際になって思うことは何か、いやもっと簡単にしよう、死ぬときに満足して死ねるか。そのためには、満足に近づけるためには今余生を何をしたら良いかを常に考えて生きようと思う。

最後に音楽を(笑)。

Will You Dance?【訳詞付】- ジャニス・イアン

「岸辺のアルバム」の主題歌で覚えがある人も多いだろう。明るそうで、それでいてけだるそうなメロディー。訳詞を見ても、ちと黙示的な内容。

あなたは人生で踊ってますか。

 


山岳写真展と大北海道展

2019年09月18日 15時36分35秒 | 文芸・アート

9月18日(水)

午前中、池袋へ出た。

 

 ▲ 池袋西口からすぐに

「東京芸術劇場」それはあった。初めてだこんなとこ。

 

 

 ▲ 5階のギャラリーへ向かう。

 

 

 ▲ 全日本山岳写真展2019

毎年、全日本山岳写真協会が主催している。今日は初日。

友人から紹介があったので来た。入場無料。

 

 ▲ リュックとか・・この展示は本題ではない。

 

300点ほどの山岳写真が展示されていた。(会員233点、公募64点)

山岳エリア別に展示されていたが、圧倒的に「北アルプス」が多い。しかも槍ヶ岳、穂高を入れたモノ。みなさん好きなんだ。

好きなように山を撮っていいのだが、ボクの好みはポスター写真みたいな単純な山岳風景よりも、人が入っているのがいいなあ。

 盗み撮りした3点。

 ▲ 「陽光燦燦と」

朝日を浴びながら登っていく二人。山だけじゃなくて、二人の思いも燦燦と輝いて見えてくるようだ。

 

 

 ▲ 「アルプス展望」

霧が出ているから、これも朝山だろうな。そこを山岳スキーを履いた二人が降りてくる。その小さな二人と朝焼けのスケールのでっかい山との対比が、素晴らしい。

 

 

 ▲ 「夕日の輝き」

これは、人物が入っていないが構わない。北海道オンネトー湖と雌阿寒岳と阿寒富士(右)だ。二つの山は登ったし、同じ構図で撮った↓。手前の流木の入れ方がいい。

 

 (拡大クリック)

ボクにとっては思い出深くて、この絵ハガキを出口で買ったよ。

 

~・~・~・

 

 池袋駅の地下街を歩いていくと・・

 

 ▲ 東武デパートで、「秋の大北海道展」 おおッ。

こちらはゲージュツ展ではなくて、もちろんタベモノ展だ。

吸い寄せられるように、8階大展示室へ(笑)登っていった。

 

 ▲ ごった返していたが、いちいち見る気はなく(北海道に行けば済む)、列がそれなりにできているこの店に並んだ。

 

 ▲ ウニ・いくら弁当と(ボク用)

 

 

 ▲ お好み三色弁当(ヨメ用)を、昼食用に買った。

よしよし、帰って食べようぞ。今年は北海道を見送ったからな。

 

して、夕方にはボクの山旅へ出発だ。

 

 

 

 


なつぞら天陽くん の秘密

2019年09月05日 21時32分33秒 | 文芸・アート

9月5日(木)

ボクのブログ記事である、「帯広・六花の森~六花亭の包装紙が描く山野草の森」2016.7.25 が朝からやたらと閲覧数を増やして、100回以上になった。

これは、明らかに今朝の朝ドラ「なつぞら」で、夭折した天陽くんが遺作で残した、菓子店・雪月の包装紙 モデル探しだろう

 

 ▲ 雪月の包装紙

雪月もこの十勝の牧場も架空のものであるが、雪月が帯広・六花亭をモデルにしていることは知られている。天陽くんのモデルは、神田日勝(1937-70)だということも知られている。

だとすれば、六花亭のあの有名な包装紙の図柄も天陽くんが書いた、つまり神田日勝が書いた??

▲ 六花亭の包装紙、袋

ということで、今日の朝ドラを見た方が「六花亭 包装紙」と検索し、ボクの3年前の記事にたどり着かれたようだ。

正解は、六花亭の図案は、神田日勝氏によるものではなくて、坂本直行という方によるもので、坂本氏の記念館は六花の森の中にある。(ボクのブログ記事参照)

 

▲ 坂本直行記念館

 

ついでなので、神田日勝の記念美術館も十勝にある。

▲ 北海道鹿追町 神田日勝記念美術館

 

さらについでに、

▲ なつとじいちゃんの、この赤い屋根の牧舎はホンモノだ。

しかし、どこに実在するのかはボクもまだ調査していない(笑)。

 

今年は、残念ながら北海道には行けない。来夏は、オリンピックには目もくれずに北の大地に行く予定だから、ロケ地をめぐってこよう。

 

 さらに、ついでのついでの追記;

天陽くんのアトリエのセットは、帯広の真鍋庭園に7月から設置されていたが、昨日4日から花を手向ける人が出てきたことから、献花台が設けられた

 

 

 天陽を演じた吉沢亮さんの気持ちは複雑だろうな(笑)。

 

終わり


やすらぎの刻~道 with 主題歌

2019年08月27日 21時30分00秒 | 文芸・アート

8月27日(火)

テレビ朝日の「やすらぎの刻(とき)~道」(月~金 午後12時30分~50分)が、今面白い。

 

 倉本聰の脚本だが、2017年に同じ時間帯に放送された「やすらぎの郷(さと)」の続編になるもの。

「やすらぎの郷」は、テレビ界を退いた芸能人専用の老人ホーム「やすらぎの郷」での、往年のスターが過去の名声と老いた現状のはざまで織りなすドタバタ劇だった。それは全く面白くなかった。80年代に「北の国」を手掛けた時の倉本には、バブルに突き進もうとしていた日本の中で、一人自然回帰を唱える新しい視点があった。しかし、「やすらぎの郷」は芸能人だけに通じる内輪ネタドラマであり、テーマに広がりを持たないドラマだった。84歳になった倉本も視野が狭まってしまうのも仕方がないか・・と落胆と諦めのドラマだった。

一方、今年の4月に始まった「やすらぎの刻」は、スター専用老人ホームのドタバタ劇の続編でありつつ、太平洋戦争前後の無名の庶民を生き抜いた一生=道を同時並行に描くドラマだ。二つの時代を同時並行してドラマ化して、視聴者に見せる手法は、当初「わかりにくい」「どちらか一本でいいのでは」という感想が多く、ボクも内容の貧弱さを2本同時上映でカバーしようとしているだけではないかと思った。(「いだてん」の落語家半生と東京五輪史が正にそうなのだが)

しかし、「やすらぎの刻」の道編が徴兵拒否、逃亡を扱うようになってから、俄然、重い、深い内容のドラマになってきた。二人の主人公が、赤紙を前にして、自分の敵でもない人間を殺すのは嫌だいう信念、怖いという心情から、一人は山中へ逃亡、一人は自殺してしまうのだ。徴兵拒否が戦争中に実際あったのかどうかは知らない。しかし、徴兵拒否を公にドラマ化したり、その可否を議論することは日本でタブーだったような気がする。徴兵に順に(純に)応じて死んだ多くの兵士をおもんばかってのことだ。戦争に負けた以上、英霊の死は「犬死」となってしまうからだ。それは分かる。

しかし、再度戦争のリスクも出てきた現在、もうそろそろ徴兵拒否という選択肢も含めて、なぜ戦争をするか、相手を殺してまで何を守ろうとするのかを考えなければならないと思うのだ。倉本聰の考えは、このドラマを通じて明らかに伝わってくる。

 

 

しのちゃん・・   結婚しよう (公平)

 

 主題歌(期間限定)

 

 


大河ドラマ いだてん 考

2019年05月07日 19時53分51秒 | 文芸・アート
3年前にリタイヤしてから予想通りというか、TVを見る時間が多くなった。見ながらブツブツ文句を言うので、横にいる家内に嫌がられる。「黙っててよッ」。 それでも、ブツブツ。面白い番組も多いが、イラ立つ番組も多い。「そんなことあり得ないだろうっ」。ま、もうそれは見なければ済むのだが。しかし、イラ立つ番組が多くなると、世の中全体にハラが立ってくるので穏やかではない。これ老人の兆候だね。

で、見ながらブツブツ言うより、いっそ自分のブログで吐き出したほうが、周りに迷惑をかけないかも。自分も溜め込まずにスッキリするかもしれない、ということでTV番組へのブツブツを書いてみることにした。もちろん感心した番組についても書いてみるつもりだ。

自分のストレス発散が主目的だから、あらかじめお断りしておくが、私のブツブツへの批判は遠慮願う。よくあるのは「何も知らないくせに、偉そうに」的な反論というよりも理屈なしの反発だ。しかも「通りすがりの者」と匿名性を確保したうえでだ。あらかじめ言っておこう。批判したいかたは当ブログを言及して構わないから、自分のブログでやってくれ。そもそも当ブログは私的ブログ。嫌なら読まなければ良い。


さてさて、前口上が長くなったが。しょっぱなに取り上げたいのは、NHK大河ドラマの「いだてん」だ。



本日GW明けで、過去二週間の視聴率がドバッと出た。第16回4月28日が7.1%、第17回5月5日が7.7% でとうとう7%台に陥落してしまった。特に7.1%は、大河史上の最悪記録だとか。

「いだてん」の視聴率が他の大河ドラマに比べて低いのは当初から話題になっていた(笑)。

・二つの時系列が並行して、わかりにくい。
・主人公らしき人物も、金栗四三と落語家が交互に出てきて? 関連性も見当たらない。更にタケシも解説に加わり何のこっちゃ?
・金栗三四といっても、Who is he? でそもそも関心がもてない etc

さまざまの理由が指摘されてきたが、ボクには全部当たっていると思う。

一番大きなミスは、宮藤官九郎(クドカン)の脚本自体が面白くないということだろう。
中村勘九郎演じるいだてんを、純朴かつコミカルに演じさせようとしたのだろうが、じぇんじぇん可笑しくない。ヒエーと冷水をかぶるシーン、間違ってフンドシ姿を綾瀬はるかに見せてしまうシーン、前だけを見つめて手を振らずに走る走法、みんな笑いを誘うとクドカンは期待したシーンだろうが可笑しくなくて、いだてんは可哀想に、アタマが少し悪い知恵遅れの青年に見えるだけだ。はっきり言って小手先だけのコミカルシーンの演出を連発して、ボクは演出者は視聴者をバカにしてるとハラを立てている(笑)。

金栗四三はベルリンオリンピックが中止になったあとも、アントワープ(16位)、パリ(途中棄権)オリンピックにも出場し続けた、むしろ悲劇の部分を中心に描いたほうがよっぽど感動を呼んだであろう。

二番目のミスは、中村勘九郎の演技。アタマが弱いイメージは脚本がそうなのだからしょうがないとしても、細かい心理表現ができてない。ベルリンオリンピックが中止になったと聞かされたときの四三の表情。目を見開いてはいるが、のべーっとした表情のままだ。もう少し驚き、動揺、悲しみ、怒りの心理を交錯せんかい。たぶん歌舞伎役者の演技は、大げさな表情に終始するから、そもそもドラマでの微妙な表情変化は無理なのでは。

三番目の、一番大きなミスは「いだてん」が国営放送の国策オリンピックそんたくドラマだということだ。来年のオリンピックを盛り上げるために、過去のオリンピックの歩みを総花的に盛り込んで製作したため、鑑賞に堪えるドラマにはならない。視聴率が低くても、NHKの経営委員会は「よくやってくれた」と任命権をもつ内閣総理大臣に褒められることだろう。
これもあらかじめ言っておこう。ボクは初めから東京オリンピック開催に反対だ。今日本に必要なのは「パンとサーカス」ではないゆえ。



参考ニュース:「NHKいだてん視聴率が大河ワーストの7.1%」


じいちゃんの ライオンキング

2017年12月28日 22時27分08秒 | 文芸・アート
12月27日(水)

息子夫婦から、孫のUmiちゃんをライオンキングを見に連れて行ってほしいとの依頼があった。夫婦どちらも都合が悪くなって27日に連れていけないとのこと。

家内はずいぶん前だが、劇団四季のライオンキングはもう観ているという。

え~、オレが? とも思ったが、好きなことばかりしている(と思われている)ボクは、立場が弱くて引き受けざるを得なかった(笑)。

きょう午前中の11時ごろに、息子宅へUmiちゃんを迎えに行って、そのままJR山手線に二人で乗った。



▲ 大崎駅で、りんかい線に乗り換えて一駅の大井町駅へ。

Umiちゃんは、山手線に乗り込んで座ると、すぐおもむろにお絵かき帳を取り出して、なにやら絵を描きだした。週一度の習い事に恵比寿にママと行くときは、電車の中ではすることが無いのでいつもこうするのだと言う。大勢の乗客がいてもも自分の世界を持つ・・。都会の子は、こう順応してしまうのか。久しぶりに山手線に乗って、キョロキョロと外を見ているじいちゃんとは、えらい違いだ。




▲ 劇団四季の劇場がある大井町へは12時に着いた。

ライオンキングは、1時に開場、1時半から公演開始だから、その前にお昼を食べよう。

Umiちゃんに、「何を食べたい?なんでも食べさせてあげるよ」と甘いことを言ったつもりだったが。

「うどんがイイ」
「うどん?」「ウン」

で、駅前にあったセルフサービス形式のうどん店に入った。
Umiちゃんは、トッピングにちくわ天を、ボクは掻き揚げ天を載せて、一緒にすすった。

うむ・・えらく簡便な「観劇前の食事」になってしまった(笑)。




▲ 劇団四季の劇場は、大井町駅から歩いて5分ほどのところにあって、ちょうど開場の1時に到着。

若い奥さんと冬休みに入った子供がいっぱいいた。




▲ みなさんの真似をして、Umiちゃんをライオンキングの看板の前に立たせて。

はい、ポーズ。




▲ 中に入っても、若い奥さんがいっぱいで。あ、もちろん子供もいて(笑)。

Umiちゃんがトイレに行きたいというので、しかし女子トイレは長蛇の列。男のじいちゃんが子供を連れているとはいえ、女だけの列に並んでいるのはヘンに理解 誤解されそうで・・
で、列のほとんどない男子トイレに連れて行って、Umiちゃんを個室に入れて、そのまま個室のドアの前で無言で立っているのも、きょうび関係性を不審がられると思い、「Umiちゃん大丈夫? じいちゃんは ここで待ってるからネ」と周りに聞こえるように大声で言っていた。ほんま疲れるわ 




▲ 劇場内に入って、指定席に着いた。

まもなく開演だ。

ここからは撮影禁止なので、劇団四季・ライオンキングのHPから。





   無断転載


前半と後半に分かれて、2時間余に渡って繰り広げられる大スペクタル!と、書きたいところだが・・(あら筋等詳しくは正確には、上記HPをクリックください)
エビータ、オペラ座の怪人等々、本場でオリジナルキャストで観てきたSoraさんにとっては(カッコいー)、これは子供騙しの・・いや子供向けのミュージカルだと勝手に結論づけると、大音量に慣れると、年末の大掃事疲れもあってか(ナイナイ)、居眠りを始めてしまって。

「おじいちゃあん、オキテェ!」 と、言われてしまった。





▲ あえて感想は聞かなったが、満足そうなUmiちゃんと劇場を出た時には4時を過ぎていた。

まもなく直ぐ暗くなって、早く届けなくては。
5時過ぎに息子宅に孫を無事届けた。

やれ、やれ。

あー、お腹すいた。ウドンしか食べてないもんな。
はよ、帰ろ。年の瀬だ。忙しい。