講談社 2018年8月 1550エン
年をとれば、誰だって退化する。
鈍くなる。
緩くなる。
くどくなる。
愚痴になる。
淋しがる。
同情を引きたがる。
ケチになる
どうせ「すぐ死ぬんだから」となる。
そのくせ、「好奇心が強くて生涯現役だ」といいたがる。
身なりにかまわなくなる。
孫自慢に、病気自慢に、元気自慢。
これが世の爺サン、婆サンの現実だ。
この現実を少しでも遠ざける気合と努力が、いい年の取り方につながる。間違いない。
そう思っている私は、今年七十八歳になった。
六十代に入ったら、男も女も絶対に実年齢に見られてはならない。
と、小説の冒頭から高齢者への挑戦的なメッセージを、内館牧子は女主人公ハナに言わせる。
一般的に言えば、人は年を取れば肉体的にも精神的にもその能力は衰えていくが、その事実への対応の仕方は大きく二つあろう。
一つの極は、「人は機械だの薬だのをやめて、命のロウソクが燃えるままにしとくのが自然なんだ。自然に燃え尽きれば、本人も周囲も後悔がないんだよ」「自然に年取り、自然に死ぬ。昔の人はみなそうだった」という「自然派」、「ナチュラル派」。
もう一方の極は、あくまで年を取っての老齢化に抗う方策を講じようとする「アンチエイジング派」だろう。
多くの高齢者はその間をいったり、きたり、右往左往して生きていくのが実態ではないか。
が主人公のハナは、明らかに「アンチエイジング派」。女性であるだけに、特に外見に対してアンチエイジングだ。
出た!手をかけない女が好きな「ナチュラル」。あんた達みたいなのは、ナチュラルって言わなくて不精(ぶしょう)って言うんだよ。
「人は中身よ」という女にろくな者はいない。さほどの中身もない女が、これを免罪符にしている。
と、ハナの毒舌は鋭い。ハナは年を取ったら「見た目ファースト」だ。して毒舌は続く。
「自然に任せていたら、どこもかしこも年齢相応の、汚くて、緩くて、シミとシワだらけのジジババになる。孫の話と病気の話ばかりになる。それに抗ってどう生きるかが、老人の気概というものだろう。」
そういうハナにも、試練がくる。連れ添った夫が急逝し、しかも長年不実だったことが判明する・・・
さて、ハナの「見た目ファースト」信念はこれからも貫いていけるのか、違う心境に向かうのか、それは読んでのお楽しみ(笑)。
内館牧子(うちだてまきこ)は御年、70歳。まだ頑張っているTV脚本家。ボクが最初に彼女脚本のTVドラマを見たのは 『思い出にかわるまで』(1990年TBS) 今井美樹と石田純一。ヤキモキさせられたなあ。その後、印象に残っているのは 『都合のいい女』(1993年フジ) で浅野ゆう子主演。女が自由に恋するといっても結局は男たちにとっては都合がいい女でしかないのではというテーマ(だと思う)。最近でのヒットは映画化もされた小説 『終わった人』(2015年) エリート銀行員であっても定年退職すれば社会的役割は、もっと言えば人間としても役目を終えた人なのではというテーマ。
そしてこの『すぐ死ぬんだから』では、高齢者がそれを口にして楽な方へ楽なほうへ流れていく・・これで100歳時代になっても流れていくの?というアンチテーゼ。
『都合のいい女』も『終わった人』も『すぐ死ぬんだから』も表題がいい。時代事象(トレンド)の隠れた本質を、見事にえぐった表題になっている。これはトレンディー作家(脚本家)の真骨頂だ。(倉本聰は比ではない)
もっとも、『すぐ死ぬんだから』で前提としている高齢者ていうか読者は、まだ五体がまがりなりにも動いていて、それでも何事にも意欲が失せ「すぐ死ぬんだから」状態になっている高齢者読者だ。病院で自宅で死を目前にして、延命治療を選択するかしないかを迫られている人生末期的高齢者ではない。末期的状況で、いかに死を受容したらよいかのテーマへは、未達テーマだ。
自分の歳に合わせてテーマを取り上げてきた内館が次に取り組む最後のテーマは、死の受容のあり方だろうか。いや、彼女自体が末期症状になった時には、もう書けないだろう(笑)。
最後の自分の始末の仕方は、やはり自分が自分で見つけるしかない。この本は、その一助になるだろう。