この古地図を見ると静岡って水の豊かな街だったんだなって思います。街の作りようによっては、倉敷ぐらいの街になれたんではないかと思うほどです。
今も静岡は水涸れしない街ですし、水道料金も安いですね。掛川や菊川といった町は水源がないので金谷とか島田から購入してますから基本料金が1万円するんです。信じられません、今も昔も水を握ったものが勝ちます。
で、河川改修がいつ行われたか知りませんが、その風水師のお爺さまにいわせると、今みたいに真っ直ぐ南に降ろして海に最短距離で結ぶ形は風水的には運気を逃しているそうで、よくないらしいんですな。でもまあ当時は、そのままにしておくと洪水ばっかりでよくないから、水を安定させて、尚かつ充分に供給できれば水田も耕地も増えていいのではないかと思ってやっただろうことですし、実際に水田も増えたんだろうと思いますね。
僕は中学生の時に授業で、浜松は国道のバイパス作るのに5年でやったけど、静岡は15年経ってもちっともできやしない。これは静岡と浜松の気質の違いで、浜松は「やらまいか」というポジティブな精神でいるけれども、静岡はどんなに盛り上がっていても誰かが「やめざあや」というと、みんな「そうだなあ」って止めてしまうところにあるんだ、といっていた。
とても印象に残っていて、その後の双方の町の発展もそういう視点から見ていたような気がする。で、実際浜松の方がどんどんでかくなっていったのにたいして、静岡は北街道の北とか、SBS通りの南側なんかは、ずっと田んぼが残っている状態だった。
どっちの方が正解だったのは分からない。バブルの時は確実に浜松の方に元気があった。駅前は次々に再開発されて高層ビルに生まれ変わっていった。郊外店も沢山できた。しかしそれによって中心市街地にすむ人はいなくなり、駅前から住人が消えてしまった。
静岡は、静岡銀行がそうであったように、バブルの余波をより少なく受け、商店街もかろうじて生き残っているといえる。そして今、少子高齢化と住環境に対する見直しから、駅から歩いていける距離に、健康かつ安全な住環境を提供してくれるコンパクトシティへの要請が高まりつつある。その意味では静岡に軍配が上がる。
だから僕は自分の好みで、言うしかない。
静岡と浜松を例えるならば、静と動、青と黄、東京文と関西の違いといった印象がある。そして街の作りとして、駅から地下に降りて、呉服町にあがり、伊勢丹で左に折れれば映画館街に着くと言った分かり易さが好きだ。僕の家から言えば東名料金が300円も高いのに静岡に行くのは、きっとそんな理由だからなのではないかと思う。
そのとき薩摩土手(現さつま通り、井宮町付近には現存)もつくられ、駿府の街は洪水の不安から解放されたということです。
支流であった「北川」は今でも浅間神社の前を流れ、「横内川」も暗渠となって北街道の下を流れていますし、中心部の地下には安倍川の伏流水が流れているようです。
また、戦前、今の中心市街地には、あちこちに用水が流れていたということです。
そのほとんどは暗渠となっていますが、「あおい塔」のある静岡市役所本館前などで見ることができます。
▽浜松は「やらまいか」で、静岡は「やめまいか」だとよく遠州の方に揶揄されますが、「やめまいか」という言い方自体が遠州弁であることが、駿府衆としてはちょいと不愉快に思ったりします。(笑)
自虐的に言えば「煮えたら食わず」という静岡弁が適切なのかななんて・・・・(苦笑)
※煮えたら食わず=誰かが煮てくれたら食べましょうの意で、優柔不断な様子を言う。
それはともかく、国道1号バイパスの開通の遅れについては、おっしゃるようなことが皆無だとは言いませんが、市民性云々よりも、もともと静清間の国道1号は県内でもっとも整備された区間であった(自動車もろくに通らない時代である昭和初期に開通した幅員30mの静清国道は、当時としては本当に画期的なものだったでしょう。)ため、バイパスの計画そのものが、他の区間より後回しにされたことが根本にあると思っています。
結果、かなりの部分が住宅地化した部分を通ることとなり、高価な土地(御存知のように平坦地の少ない静岡市内の土地は県内他都市に比べとても高い)をやっとの思いで手にした住民の土地に対する愛着が強く、時代背景も市民の権利意識が高揚している時代と重なったこと、さらに安東地区という市内でもインテリ層が多い地域ということもあって、土地の買収が難航してしまった・・・
まあ、ボクの静岡に対する偏執狂的な郷土愛による見方かもしれませんが・・・
それと、「北街道の北とか、SBS通りの南側」というのは、多分、千代田北方地区・大谷地区のことをおっしゃっていると思いますが、もともと低湿地だったこともあって、市街化調整区域に指定して開発が図的に抑制されていたものだと思います。
安東って所は僕の親戚の人(富裕層じゃありません)が住んでたりして名前には馴染みがありました。一度車で迷い込んだことがあって、印象として閑静な住宅街だなあというものと、僕が生まれた家の周りと同じ感じだなあと思った記憶と昭和30年代に建てられた切妻型で、コンクリート製の瓦で葺かれた屋根とブロック塀で囲われた敷地の風景が残像として残っています。
それから掛川小笠地区っていうのは、浜松の関西文化圏と静岡の東京文化圏との狭間で、尚かつ山内一豊か高知にめぼしい人材を持っていってしまったので、この辺りは文化水準からすれば谷間なんだってその先生に言われましてとてもしょげたことを覚えています。