「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

石垣イチゴと静岡への入り方4

2008年03月02日 18時14分08秒 | 妄想
 よこち鳥獣店を過ぎると安倍川橋に出ますね。安倍川橋の向かって左手の部分に妙に空いているスペースがあるのはご存じでしょうか。なんだろうな?って気になります。でもまあそこから見る富士山は鉄橋との構図で結構良い写真が撮れそうに思われます。だいたい鉄橋っていつからかかっているんだろうと思いますが、近所に車を停めて橋のたもとを見てるほど余裕のない時でしたので知らずじまいです。

 で、



とか



とか



いうのを見つけましたので参考までに載せておきます。

 戦前の土木絵はがきライブラリーという所にあったので戦前なのでしょうね。よくまあ壊されもせずに残りましたね。

 それにしてもこういう建築物が絵はがきとして残るってのがいいですね。いまなら東京タワーとか横浜のみなとみらいとか六本木ヒルズとかの絵はがきになるんでしょうか。

 話は飛ぶんですが橋は明治になってから架けられているんですね。江戸時代は首都防衛上の問題から大きな川に橋は無かったですね。そこには川渡し人足がいて有料で肩に担いだり輿に載せたりして川を渡ります。家が西部のせいか大井川の川渡しのほうが印象が鮮明でして安倍川の川渡しはイマイチピンとこない。「箱根は八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」という歌のせいですかね。

 でも東海道五十三次の府中の図は城を中心とした駿府城下の風景ではなく安倍川の渡しの風景なんですね。広重がそれを選んだのはやはり橋のたもとにあった茶店で「安倍川餅」を食べたせいだとしたら面白いですね。

 安倍川橋は明治になって政府から架橋命令が出たときに、川渡し人足の元締めが雇用対策のために作ったと言われています。民間の事業だったんですね。そのときに400名の人足の雇用を…って書いてますから、どの位の交代制を採っていたか知りませんが大きな人数だったと思います。

 一口に川渡しといっても、五人~十人の小規模事業でなく、静岡の駅前にいるタクシー並の事業展開があったのだろうと思うと、当時の日本の経済力も侮れませんね。

 大井川の川渡し人足はそのまま川から牧ノ原台地にまで上がって、浜岡の丸尾氏の指導の元、茶園を始めてますが、安倍川の人たちは橋の工事の後どうなったのでしょうか。僕には知る手段がありません。

 ちなみに渡し場は、この間「あおいくん」さんにご提供頂いた資料によると、東海道はよこち鳥獣店の手前で大きく右にカーブし、今の安倍川橋のすこし下流で渡していたらしいことが想像できます。

 渡し場に関所みたいなものがあったんですかね。それとももっと別のものがあったのかもしれませんが、想像したくなります。

 

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2 コメント

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安倍川橋 (あおい君)
2008-03-03 04:50:03
現在の鉄橋の安倍川橋が架けられたのは、1923年のようです。(駿河大橋が架橋される1962年までは、この橋が国道1号だった。)
当時としては画期的なものだったのでしょう。

>東海道五十三次の府中の図は城を中心とした駿府城下の風景ではなく安倍川の渡しの風景なんですね。
→これはもしかしたら、安倍川もちよりも、安倍川近くの「二丁町」に泊まったせいかもしれませんね(笑)
(「二丁町」があった場所は、現在の駒形通五丁目、県地震防災センター(旧安倍川町)のあたりです。)

芭蕉だったら (aniki)
2008-03-03 11:31:01
 「ひとつやに…」と詠んでいるところでしょうか。戦災で焼けてしまったそうですね。そのまま残っていたら静岡の人文も違ったものになっていたかもしれませんね。僕は1960年生まれですから、駿河大橋は同世代だと思えば、また違った愛着も出てきます。

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