「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

石垣イチゴと静岡への入り方6

2008年03月05日 00時04分59秒 | 妄想



 この古地図を見ると静岡って水の豊かな街だったんだなって思います。街の作りようによっては、倉敷ぐらいの街になれたんではないかと思うほどです。
 今も静岡は水涸れしない街ですし、水道料金も安いですね。掛川や菊川といった町は水源がないので金谷とか島田から購入してますから基本料金が1万円するんです。信じられません、今も昔も水を握ったものが勝ちます。



 で、河川改修がいつ行われたか知りませんが、その風水師のお爺さまにいわせると、今みたいに真っ直ぐ南に降ろして海に最短距離で結ぶ形は風水的には運気を逃しているそうで、よくないらしいんですな。でもまあ当時は、そのままにしておくと洪水ばっかりでよくないから、水を安定させて、尚かつ充分に供給できれば水田も耕地も増えていいのではないかと思ってやっただろうことですし、実際に水田も増えたんだろうと思いますね。
 
 僕は中学生の時に授業で、浜松は国道のバイパス作るのに5年でやったけど、静岡は15年経ってもちっともできやしない。これは静岡と浜松の気質の違いで、浜松は「やらまいか」というポジティブな精神でいるけれども、静岡はどんなに盛り上がっていても誰かが「やめざあや」というと、みんな「そうだなあ」って止めてしまうところにあるんだ、といっていた。

 とても印象に残っていて、その後の双方の町の発展もそういう視点から見ていたような気がする。で、実際浜松の方がどんどんでかくなっていったのにたいして、静岡は北街道の北とか、SBS通りの南側なんかは、ずっと田んぼが残っている状態だった。

 どっちの方が正解だったのは分からない。バブルの時は確実に浜松の方に元気があった。駅前は次々に再開発されて高層ビルに生まれ変わっていった。郊外店も沢山できた。しかしそれによって中心市街地にすむ人はいなくなり、駅前から住人が消えてしまった。
 静岡は、静岡銀行がそうであったように、バブルの余波をより少なく受け、商店街もかろうじて生き残っているといえる。そして今、少子高齢化と住環境に対する見直しから、駅から歩いていける距離に、健康かつ安全な住環境を提供してくれるコンパクトシティへの要請が高まりつつある。その意味では静岡に軍配が上がる。

 だから僕は自分の好みで、言うしかない。

 静岡と浜松を例えるならば、静と動、青と黄、東京文と関西の違いといった印象がある。そして街の作りとして、駅から地下に降りて、呉服町にあがり、伊勢丹で左に折れれば映画館街に着くと言った分かり易さが好きだ。僕の家から言えば東名料金が300円も高いのに静岡に行くのは、きっとそんな理由だからなのではないかと思う。