安倍川大橋を渡って右手に安倍川餅の石部屋さんを見ながら車を走らせると、道路が妙にくねっている感じを受けますね。ここから本通と新通に分かれて行くからなんですけど、通りの名前を知らなければ、新通の方が旧道で、本通の方がバイパスのように見えますね。通りの名前を知ると新通って言ってるくらいですから新しいのかなって思うと、そうでもなくて、確かに今川時代には新通は無かったようですね。でも1609(慶長14)年町割の際、本通に平行して東海道沿いに新たに設けられた町。って何処かに出てましたから、家康時代に造られた町であり、通りでも会ったと想像できます。そうすると本通の方の命名もそのときなされたんでしょうね。てことはですよ。どちらの方の通りが東海道なんでしょうね。今みたいに市道、県道、国道で、維持管理費の出所が違うとか、特定財源があったとは思われませんから、大した区別ではないかと思うのですが気にはなります。想像を逞しくすれば、本通の方は大名行列用で新通の方は庶民用の道路だったんじゃないかと思えば思えますね。慶長14年と言えばその前年に消失した駿府城の再建を命じていますから、そこから想像すると、新通ってのは工事用の道路だったんじゃないってのも面白いなと思います。その工事に関わった男たちを慰めるべく、安倍川町の遊郭ができて、その一部が吉原遊郭に発展したと言われてますし、残ったのが二町だったので二丁町遊郭と呼ばれたって言われてますし、道の取り方として、あくまで工事用ですから、合理的に大手門までの最短を採っていると考えても頷けると思うのです。
しっかしなんだね。遊郭だけで駿府96町のうち7町が遊郭ってのも、凄まじい土地柄だったんだろうなと思います。色っぽさと言う点で、今は全国の平均を大きく下回る淡泊な町だと思いますが、これは僕の勝手な印象です。
明治以後も残っていて、戦災で跡形もなく焼けてしまったと言われてますから、とても残念です。東京の吉原、岐阜の柳ヶ瀬、大阪のミナミ、北海道のすすきの、川崎堀之内、千葉の栄町などに並び称される歓楽街が展開していたら、静岡人の気質ももう少し違っていてかもしれませんし、少なくとも静岡の歓楽街の代名詞が両替町という銀行街になって無くちゃいけない町の名前にはならなかっただろうと思われます。
しっかしなんだね。遊郭だけで駿府96町のうち7町が遊郭ってのも、凄まじい土地柄だったんだろうなと思います。色っぽさと言う点で、今は全国の平均を大きく下回る淡泊な町だと思いますが、これは僕の勝手な印象です。
明治以後も残っていて、戦災で跡形もなく焼けてしまったと言われてますから、とても残念です。東京の吉原、岐阜の柳ヶ瀬、大阪のミナミ、北海道のすすきの、川崎堀之内、千葉の栄町などに並び称される歓楽街が展開していたら、静岡人の気質ももう少し違っていてかもしれませんし、少なくとも静岡の歓楽街の代名詞が両替町という銀行街になって無くちゃいけない町の名前にはならなかっただろうと思われます。
「本通」から「新通」に東海道を付け替えた理由は諸説あるようですが、以下の理由によるものが有力のようです。
すなわち、西から江戸へ向うとき、安倍川を超え駿府城下を進むと、「新通」なら富士山をバックにした駿府城天守閣が真正面に見えてその威容を知らしめることができたからだと・・・
たしかに、「本通」からだとお城が正面には見えませんね。
なお、「とおり」と濁らないで言うのは、城下の街道沿いの町を「通り」又は「通町」と言う江戸期の習慣からだとボクは考えています。(全くの私見)
日本橋の高島屋のあるあたりは、現在の町名は「日本橋三丁目」ですが、バス停は今でも旧町名の「通三丁目」となっています。
▽「銀座」があった場所は両替町の旧二丁目(現在の、3ブロックある一丁目の中央のブロック)だといわれています。
まあ、歓楽街になっているのは旧五・六丁目(現二丁目の駅よりの2ブロック)あたりですので、銀座のあったあたりは比較的静かなようです。(笑)
二丁町
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjskoni/sunpu/s0603.html
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjskoni/sunpu/nityo01.html
銀座といえば静岡のパチンコ屋さんの老舗?がありますが、これも駿府の銀座にあったからなんでしょうか?