被爆イネ・もうひとつのバケツ稲のお話。
フクシマの影響とみられるモミの木の異常がみつかっているというニュ
ースの関連として、2005年9月に掲載した当ブログ記事の採録です。
もともとのバケツイネの記事といっしょに、よろしかったらご参考に。
↓
『被爆イネ・もうひとつのバケツ稲のお話。』
60年前に長崎で被爆したイネの子孫が、今年も育っています。
原爆の閃光と高熱で一瞬にして破壊された長崎。その廃墟となった長崎市
内から、いかにしてこのイネは現代に生き延びたのか。またこのイネへの
被爆の影響は、いかなるものでしょう。。
イネを採取したのは原子爆弾災害調査特別委員会/原爆調査団という組織。
注〕原子爆弾災害調査特別委員会/原爆調査団
1945年9月に文部省学術研究会議によって原子爆弾の災害を総合
的に調査研究するために原子爆弾災害調査特別委員会(以下原爆
調査団)が設立され、物理化学地学科会・生物学科会・機械金属学
科会、電力通信科会、土木建築学科会、医学科会、農学水産学科
会、林学科会、獣医学畜産学科会で構成されました。
1945年10月から広島・長崎を現地調査。翌年1946年にも、追加
調査しています。この原爆調査団のなかの農学水産学科会に参加していた
九州大学農学部が、現地で発見しました。
被爆したイネがみつかった場所は、爆心地から500メートルほど離れた
浦上天主堂下にあった水田です。もちろん、地上部は原爆の高熱で焼失し
ていましたが、その焼失していたイネの根が奇跡的に生存していた。
そして、そのイネの土中に残っていた根から新たに発芽結実した!という
のです。すごいことだと思います。
なんといっても「爆心地近くでは、植物は30年は生えないだろう」・・
こう予測した当時の欧米の科学者の発言もあったのです。浦上天主堂の被
害の惨状をみるにつけ、その発言は的を得たもののように思えてしまいま
すが・・・けれど、イネは生き残った。
原爆調査団がはいったのは10月ということになっていますので、おそら
く普通作として植えられていた穂がでたばかりの状態のイネが発見された
のだと思います。発見した九州大学農学部はそのイナ株を持ち帰り、結実
した種を同大学農学部育種学教室で保存、現在にいたったという次第です。
その後の 被ばくイネです。
2003年、NPO九州アジア記者クラブが、この被爆イネの種子の存在
を久留米工業大学の猪飼秀隆講師に紹介、その後300粒の種子を譲り受
けた猪飼秀隆講師が福岡県久留米市内の所有田でそだてられました。
2004年、NPO九州アジア記者クラブ の古賀毅敏さんと、猪飼秀隆
講師は、8月9日に長崎市に出向き、小学校の授業で使ってもらいたいと
市側に依頼するとともに、「教育委員会と相談しながら県内400ほどの
小学校に配布する」ことなども検討されるという経緯をたどりました。こ
のイネの子孫が現在もバケツ稲として栽培されて現在にいたります。
さて、そんな被ばくイネです。
農学・農業の面からいえばなにが特徴となっているのか。
それは、被爆したイネの 「染色体異常」 にあります。生長しても実が
半分しか入らず、モミが長細くなるといった後遺症がみられるのです。
注〕染色体異常
「相互転座」と言われる状態で、遺伝子の情報量に変化はないが、
染色体の位置が変わるためにおこる現象。
この被ばくイネを通常のバケツ稲栽培と合わせて栽培すると、違いがよく
わかります。こうした違いを実際に目でみて確認することが[後遺症のの
こる成長を観察することが]平和教育につながるといわれていますよ。
ということで、今回はバケツ稲関連の話として、長崎で平和教育の一貫と
して栽培されている「もうひとつのバケツ稲」のご紹介でした。
そして私ごとですが・・私がこわいとおもったのはなんといっても、被爆
イネの品種が不明だということ。大学の育種学教室が鑑定しても、この被
ばくの品種が「晩生のイネ」としかわからない点です。
◎ 普通作の水稲が実りの準備をしている8月、原爆が投下される60
年前の夏の長崎でも、普通作の水稲が実りの準備をしていたわけで
す。そこには、イネとイネの世話をしてきた農家、イナ作に必要な
共同作業をともに実施してきた農村共同体であるムラ、それに大切
な食料として、イネの実りを待ち望んでいた長崎市民もたしかに存
在していた。もちろん、その田んぼのあちこちには、たくさんのい
ろいろな生き物もくらしていた・・なんてことを、このイネをみた
ときに思いました。
「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜 」
フクシマの影響とみられるモミの木の異常がみつかっているというニュ
ースの関連として、2005年9月に掲載した当ブログ記事の採録です。
もともとのバケツイネの記事といっしょに、よろしかったらご参考に。
↓
『被爆イネ・もうひとつのバケツ稲のお話。』
60年前に長崎で被爆したイネの子孫が、今年も育っています。
原爆の閃光と高熱で一瞬にして破壊された長崎。その廃墟となった長崎市
内から、いかにしてこのイネは現代に生き延びたのか。またこのイネへの
被爆の影響は、いかなるものでしょう。。
イネを採取したのは原子爆弾災害調査特別委員会/原爆調査団という組織。
注〕原子爆弾災害調査特別委員会/原爆調査団
1945年9月に文部省学術研究会議によって原子爆弾の災害を総合
的に調査研究するために原子爆弾災害調査特別委員会(以下原爆
調査団)が設立され、物理化学地学科会・生物学科会・機械金属学
科会、電力通信科会、土木建築学科会、医学科会、農学水産学科
会、林学科会、獣医学畜産学科会で構成されました。
1945年10月から広島・長崎を現地調査。翌年1946年にも、追加
調査しています。この原爆調査団のなかの農学水産学科会に参加していた
九州大学農学部が、現地で発見しました。
被爆したイネがみつかった場所は、爆心地から500メートルほど離れた
浦上天主堂下にあった水田です。もちろん、地上部は原爆の高熱で焼失し
ていましたが、その焼失していたイネの根が奇跡的に生存していた。
そして、そのイネの土中に残っていた根から新たに発芽結実した!という
のです。すごいことだと思います。
なんといっても「爆心地近くでは、植物は30年は生えないだろう」・・
こう予測した当時の欧米の科学者の発言もあったのです。浦上天主堂の被
害の惨状をみるにつけ、その発言は的を得たもののように思えてしまいま
すが・・・けれど、イネは生き残った。
原爆調査団がはいったのは10月ということになっていますので、おそら
く普通作として植えられていた穂がでたばかりの状態のイネが発見された
のだと思います。発見した九州大学農学部はそのイナ株を持ち帰り、結実
した種を同大学農学部育種学教室で保存、現在にいたったという次第です。
その後の 被ばくイネです。
2003年、NPO九州アジア記者クラブが、この被爆イネの種子の存在
を久留米工業大学の猪飼秀隆講師に紹介、その後300粒の種子を譲り受
けた猪飼秀隆講師が福岡県久留米市内の所有田でそだてられました。
2004年、NPO九州アジア記者クラブ の古賀毅敏さんと、猪飼秀隆
講師は、8月9日に長崎市に出向き、小学校の授業で使ってもらいたいと
市側に依頼するとともに、「教育委員会と相談しながら県内400ほどの
小学校に配布する」ことなども検討されるという経緯をたどりました。こ
のイネの子孫が現在もバケツ稲として栽培されて現在にいたります。
さて、そんな被ばくイネです。
農学・農業の面からいえばなにが特徴となっているのか。
それは、被爆したイネの 「染色体異常」 にあります。生長しても実が
半分しか入らず、モミが長細くなるといった後遺症がみられるのです。
注〕染色体異常
「相互転座」と言われる状態で、遺伝子の情報量に変化はないが、
染色体の位置が変わるためにおこる現象。
この被ばくイネを通常のバケツ稲栽培と合わせて栽培すると、違いがよく
わかります。こうした違いを実際に目でみて確認することが[後遺症のの
こる成長を観察することが]平和教育につながるといわれていますよ。
ということで、今回はバケツ稲関連の話として、長崎で平和教育の一貫と
して栽培されている「もうひとつのバケツ稲」のご紹介でした。
そして私ごとですが・・私がこわいとおもったのはなんといっても、被爆
イネの品種が不明だということ。大学の育種学教室が鑑定しても、この被
ばくの品種が「晩生のイネ」としかわからない点です。
◎ 普通作の水稲が実りの準備をしている8月、原爆が投下される60
年前の夏の長崎でも、普通作の水稲が実りの準備をしていたわけで
す。そこには、イネとイネの世話をしてきた農家、イナ作に必要な
共同作業をともに実施してきた農村共同体であるムラ、それに大切
な食料として、イネの実りを待ち望んでいた長崎市民もたしかに存
在していた。もちろん、その田んぼのあちこちには、たくさんのい
ろいろな生き物もくらしていた・・なんてことを、このイネをみた
ときに思いました。
「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜 」